104:知らないことばかり
中継地点での見学は、そのあともしばらく続いた。
倉庫の中では、翌日以降に送り出す荷の確認が進められていた。行き先ごとにまとめられた木箱の札を照合し、荷車へ積める量と道の状態を見ながら順番を調整していく。
生徒たちもいくつかの組に分かれ、職員の説明を聞きながら実際の帳簿を見せてもらった。紙面には何度か書き直された跡もあり、朝から聞いてきた話がそのまま日々の作業として残されているのが分かる。
朝の集積倉庫で見た数字も、ここではさらに細かな動きへ分かれていた。
同じ地域へ向かう荷でも、すでに検品を終えたものもあれば、まだ別の倉庫から届くのを待っているものもある。荷車の空きや届け先で受け取れる時期に合わせ、どの便へ載せるかが少しずつ調整されていた。
「こちらの便は、予定より一日早く出すんですね」
フローレンが帳簿の一行を指すと、隣にいた職員が頷いた。
「この先の村から、数日後に天気が崩れるかもしれないと連絡がありまして。この便はもう荷が揃っていますし、受け入れ先とも連絡がついたので、一日早めることになりました」
「予報だけで、すべての予定を変えるわけではないんですね」
「ええ。毎回すべて動かしていたら、ほかの便にまで影響しますから。準備が整っている便があれば、動かせる範囲で調整するというくらいです」
フローレンは頷き、帳簿に引かれた線を目で追った。予定日は一日早い日付へ書き換えられているが、そのほかの荷はもとの予定のまま残っている。
決めた予定をただ守り続けるわけでも、少し天候が変わりそうだからと全てを動かすわけでもない。その時に変えられるものだけを見極めながら、全体が滞らないように組み直しているらしい。
少し離れたところでは、レオがまた別の職員と一緒に帳簿を覗き込んでいた。午前中よりも、気になったことをその場で尋ねるまでの迷いがなくなっている。
「この地域の荷は、さっき地図で見た、もう一つの中継所も通るんですか?」
「ええ。そこから二つの村へ分けます」
「じゃあ、こちらの村へ行く分だけ少ないのは、向こうにも備蓄があるからですか?」
「よく気づきましたね。そちらは先週、一便入ったばかりなんです」
「なるほど」
返事を聞くと、レオはすぐに帳簿へ視線を戻した。記された数字と行き先を見比べながら、職員が今話した場所を資料の中から探している。
午前中からずっと、そんな調子だった。
最初は自分の知らないことを一つずつ確かめていただけだったのに、今では答えを聞くたび、その先にある別の疑問まで自然と見つけている。質問が増えるほど、手元の資料に書き込まれる地名や印も増えていった。
フローレンは自分の組の説明を聞きながら、時折そちらへ目を向けた。
学院で課題に取り組んでいる時にも、レオはよく周囲を見ている。誰が困っているのか、何を見落としているのか、誰と誰を繋げれば物事が進むのか。そうしたことに気づくのは、これまでもずっと彼の得意なことだった。
けれど今日は、その視線が人だけではなく、この土地そのものへも向いている。
帳簿に書かれた地名の先に何があり、そこで何が作られ、どんな道を通って物が届くのか。知らないものを見つけるたび、そこからまた別の場所へ興味が伸びているように見えた。
やがて説明が一区切りつき、生徒たちは建物の外へ出た。長く帳簿を覗き込んでいたせいか、開いた扉から流れ込む冷たい風が頬に触れると、室内との温度差がひときわはっきりと感じられる。
午後の日差しはすでに傾き始めていた。朝よりも雲が増え、山の稜線には薄い灰色がかかっている。
荷捌き場ではまだ作業が続いていたが、風は午前中よりもずっと冷たかった。フローレンは外套の前を少し寄せ、風に髪を揺らされながら隣を歩くレオへ目を向ける。
「レオ、楽しそう」
言われた本人は、何のことか分からないように瞬きをした。
「そう?」
「うん。朝よりずっと質問増えてる」
「ああ……」
レオは自分の持っている資料へ目を落とした。余白には地名や中継所の名前、道の特徴が細かな字でいくつも書き込まれている。
自分でもその量に今初めて気づいたらしく、しばらく眺めたあと、少し可笑しそうに眉を上げた。
「ほんとだ」
「気づいてなかったの?」
「全然」
あまりに迷いのない返事に、フローレンは思わず笑った。朝からあれだけ質問していた本人だけが、そのことをほとんど意識していなかったらしい。
隣を歩いていたルシアンも、二人の会話を聞いていた。
「今日は随分と熱心だったな」
「ルシアンまで」
「事実だろう」
からかうような響きはないものの、声にはわずかな笑いが混じっていた。長い付き合いだからこそ、ルシアンにもレオの様子がいつもとは少し違って見えていたのだろう。
レオは少し照れたように後頭部へ手をやった。しばらく言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、広場の向こうへ顔を向ける。
「いや、だってさ。名前くらいは知ってる場所が多いんだけど、実際に何をどうしてるかって聞かれると、知らないことばっかりで」
荷車のそばでは、職員が木箱の札を一枚ずつ確かめていた。その先には街道が伸び、さらに遠くには今日地図で見た山々が幾重にも重なっている。
「知ってるつもりだったところも、聞いてみると全然違うし。あの道が何に使われてるとか、あの村が何を作ってるとか、そういうのも今まであんまり考えたことなかったな」
レオの声はいつものように軽かった。
それでも視線は遠くの山へ向いたままで、話を終えてもすぐには戻ってこない。その横顔には、知らなかったことの多さに戸惑うよりも、まだ先を見ていたいような色が浮かんでいた。
フローレンは急かさず、隣で次の言葉を待った。冷たい風が三人の間を抜け、広場の隅に溜まった落ち葉を小さく転がしていく。
少しの間を置いて、レオが静かに息を吐いた。
「……うん。面白いかも」
誰かへ説明するためというより、自分の中で初めて形になった気持ちを確かめるような言い方だった。
フローレンは何も言い足さず、その横顔を見ながらそっと口元を緩めた。
「そっか」
「うん」
短く答えたあと、レオはもう一度山の方へ顔を向けた。さっきまでただ名前だけ知っていた場所が、今日は少し違って見えているのかもしれない。
知らないことが多いと知ったばかりなのに、そこに気負った様子はなかった。むしろ、今まで見えていなかったものが、これから少しずつ見えてくることを、そのまま楽しみにしているようだった。
見学を終える頃には、空を覆う雲が朝よりもずっと厚くなっていた。
陽射しが隠れると、あたりの温度まで一段下がったように感じられる。先ほどまで乾いた葉を転がしていた風も、今は頬に触れるたび、薄い冷たさを残していった。
帰りの馬車へ向かって歩いていると、近くにいた職員の一人がふと足を止めた。
「……少し早いな」
独り言のような声に、そばを歩いていたレオもつられて空を見上げる。
「雪ですか?」
「かもしれません」
職員は山の上にかかった雲をしばらく見つめていた。低く垂れ込めた雲の向こうでは、稜線の輪郭も先ほどよりぼやけている。
「この冷え方なら、夜に少しくらいは。まあ、降ったとしても軽いものでしょう。積もるほどではないと思いますよ」
「今年は早いんですか?」
「少しだけね。もっとも、山の天気ですから。この時期なら珍しいというほどでもありません」
そう言い残すと、職員は荷車の確認へ戻っていった。周囲でも空を気にしている者はいるものの、作業の手を止めるほどではないらしい。
フローレンも空を仰いだ。
薄い灰色だった雲は、いつの間にか山の上へ低く垂れ込めていた。朝の澄んだ青空を思い返すと、一日のうちに随分変わったように見えた。
けれど周囲の大人たちに慌てた様子はなかった。帰り支度をする職員たちも普段どおりで、馬車の御者も空を一度見ただけで、すぐに手綱の具合を確かめている。
「雪、見られるかな」
フローレンが言うと、レオもまだ空を見上げたまま答える。
「どうだろ。降っても夜なら、朝にはなくなってるかも」
「それならちょっと残念」
「実習中に積もられても困るだろう」
ルシアンのもっともな言葉に、フローレンは「それはそうだけど」と返した。
レオが楽しそうに笑う。
「見るだけなら、ちょっと見たいよね」
「うん」
三人はそんな話をしながら、待っていた馬車へ乗り込んだ。扉が閉まると外の冷たい風が遠のき、やがて車輪がゆっくりと帰路を辿り始めた。
研修施設へ戻った頃には、もう日が暮れかけていた。
夕食を終え、教師から指示されたその日の実習記録をまとめる時間になっても、窓の外に雪は見えなかった。山の方角はすっかり暗くなり、窓硝子には室内の灯りばかりが映っている。
フローレンは今日見た中継地点の地図を思い浮かべながら、提出用の記録を整えていった。
旧道や日陰に残る氷、風の抜ける谷、荷馬、診療所へ向かう便。聞いたことはすべて頭に残っているけれど、朝までただの名前や記号だったものには、それぞれ違う景色が重なるようになっていた。
机の向こうでは、レオが自分の資料を見返していた。
時折何かを思い出したようにページを戻し、昼間に書き込んだ地名を眺めていた。少し離れた席では、ルシアンも今日の説明と明日以降の日程を照らし合わせていた。
しばらくして、教師から就寝前の自由時間を告げられた。椅子の動く音があちこちで重なり、それまで机へ向かっていた生徒たちが一斉に立ち上がっていく。
フローレンも書類を揃えて資料を閉じ、席を立った。
その時だった。
窓の外を、小さな白いものが横切ったように見えた。
「……あれ?」
思わず足を止め、硝子へ近づく。室内の灯りが映り込んでいるせいで、暗い外はよく見えない。
目を凝らしても、すぐには何も見つからなかった。
見間違いだったのかと思った頃、灯りの届く窓辺を、もう一つ白いものがゆっくりと落ちていった。
雪だった。
ほんの一、二片だけ。
地面へ届く頃には暗がりへ紛れてしまい、そのあとにはしばらく何も続かなかった。耳を澄ませても、窓の向こうから聞こえてくるのは風が木々を揺らす音くらいだ。
フローレンはもう少しだけ窓の外を眺めていたが、やがて小さく息を吐いて机へ戻った。
昼間の職員が言っていた通り、軽い雪なのだろう。
明日の朝には、きっと跡も残っていない。
そう思いながら、最後にもう一度だけ窓の向こうへ目をやった。今度は白いものは見えず、暗い硝子に室内の灯りだけが静かに揺れていた。




