103:資料に載らないこと
昼を挟み、一行は集積倉庫をあとにした。
午後に向かうのは、平地と山間部を繋ぐ中継地点の一つだった。午前中に見た物資が、この先でどう分けられていくのかを実際に辿ることになる。
朝よりもいくらか風が出てきており、馬車が領都を離れるにつれて、道沿いの木々から乾いた葉が次々と舞い上がっていく。
窓の外に続いていた畑や家並みも、進むほど少しずつ疎らになった。代わりに緩やかな斜面が増え、遠くに見えていた山並みが、いつの間にか視界の大半を占めるようになっている。
「ここから、だいぶ景色変わるね」
フローレンが窓の外を見ながら言うと、向かいに座っていたレオも同じ方向へ顔を向けた。
「うん。まだ山の入口だけど、領都とは全然違うね」
午前中に見た資料では、集積倉庫と中継地点の間は一本の線で結ばれていた。
けれど実際にその道を進んでみると、途中にはいくつもの集落があり、小さな分かれ道があり、緩い上り坂が続いている。荷を積んだ馬車とすれ違うたび、御者同士が軽く手を上げて挨拶を交わしていた。
道そのものも、領都近くとは違って見えた。
舗装された幅はまだ十分にあるものの、片側には山肌が迫り、反対側には低い谷が広がっている。場所によっては陽が差し込みにくいらしく、道端の土には午前中の湿り気がまだ残っていた。
「冬になると、この辺りも雪が積もるんですか?」
別の生徒が、同乗していた職員へ尋ねる。
「積もります。ただ、この辺りはまだ比較的少ない方ですね。もう少し先へ行くと標高も上がりますし、同じ日でも場所によって積雪量が違うことがあります」
「道路の管理も、地域ごとに変わるんですか?」
「ええ。除雪に入る順番も違いますし、凍りやすい場所は毎年ほとんど決まっています」
職員は窓の外へ目を向け、少し先に見えてきた山の斜面を指した。
「あの北向きの斜面に沿う区間は日が当たりにくいので、気温が同じでも氷が残りやすいんです。逆に陽の当たる場所は、朝凍っていても昼までには融けることが多い」
フローレンも示された先へ視線を移した。
山肌が街道へ迫るあたりだけ、昼を過ぎてもまだ薄暗い。少し手前には陽射しの当たる道が続いているだけに、同じ街道の中でも条件が変わるという説明が、目の前の景色によく表れていた。
資料には、そこまで細かなことは書かれていなかった。
道の幅や高低差、主要な分岐、冬季の通行可否については記載がある。けれど、同じ道の中でもどこに日が当たり、どこだけ凍結が長く残るのかまでは載っていない。
やがて馬車は、街道沿いに設けられた中継地点へ到着した。
午前中の集積倉庫ほど大きくはないものの、敷地にはいくつもの倉庫と厩舎が並んでいた。中央の広場では荷車から木箱が下ろされ、行き先を確かめながら別の荷台へ積み替えられている。
馬車を降りると、乾いた冷気の中へ馬の匂いと藁の香りが混じっていた。時折、蹄が固い地面を打つ音が響き、倉庫側から聞こえる人の声と重なっている。
厩舎の前には何頭もの荷馬が繋がれ、職員が一頭ずつ脚や蹄の状態を確かめていた。荷車を引く馬より身体はやや小さいものの、脚は太く、背には荷を固定するための革具が取りつけられている。
「ここでは、荷馬も使うんですね」
足を止めたフローレンの視線に気づき、案内役の職員も厩舎の方へ顔を向けた。
「常に使うわけではありませんよ。荷車が入れる地域なら、その方が一度に多く運べます。ただ、山側には道幅の狭い場所もありますから、必要に応じて使います」
「冬も使うんですか?」
「積雪次第ですね。雪が深くなれば馬でも難しいですし、逆に荷車より荷馬の方が動きやすい時期もあります」
職員の答えを聞きながら、フローレンは資料の余白へ短く書き込んだ。先ほどまで紙の上ではひとまとめだった「輸送手段」が、現地へ来ると、道や雪の状態に応じたいくつもの選択肢へ分かれて見えた。
使えるか、使えないか。それだけで単純に分けられるものではないらしい。同じ馬でも、道や雪の状態によって役割が変わる。
朝の集積倉庫で聞いた話が、ここへ来るとさらに細かく枝分かれしていくようだった。
一行は中継地点の建物へ入り、壁に掛けられた周辺地図の前へ集められた。
「ここが、今いる中継地点です」
職員が地図上の印を示す。
そこから先には何本もの道が山側へ伸びていた。比較的太く描かれた街道の先にはいくつかの村があり、その途中には小さな診療所を示す印もある。
「冬季前に送られる物資の多くは、一度ここへ入ります。ここで届け先ごとに荷を分け、道路状況や荷の量に合わせて送り出します」
職員の指先が地図の上をゆっくりと移っていく。
「こちらが、冬でも主に使う主要街道です。山側の集落へ向かう便の大半はこちらを通ります」
さらに少し離れたところには、細い線が一本、山の斜面に沿うように描かれていた。
フローレンが目を留めるより先に、レオが尋ねる。
「こちらの細い道は何ですか?」
「ああ。旧道ですね」
職員の指が、太い街道からその細い線へ移った。
「以前はこちらもよく使っていましたが、今は主要な輸送経路には入れていません。道幅が狭いうえ、場所によっては傾斜もきついので、大きな荷車には向かないんです」
「じゃあ、今はあまり使われていないんですか?」
「いえ。道そのものは残っていますし、今も使う人はいます。山仕事の方が通ったり、近くの住民が行き来に使ったりしますよ。ただ、まとまった量の物資を運ぶ時には、基本的にこちらの街道を使います」
「そうなんですね」
レオは地図に残る旧道をしばらく眺めていた。存在自体は知っていたのかもしれないが、今も誰が使っているのか、なぜ主要な物流経路から外れているのかまでは知らなかったらしい。
職員が説明を続けると、レオもすぐに顔を上げて耳を傾けた。
「この先にある診療所は、周辺の村いくつかをまとめて見ている施設です」
職員が、主要街道の途中にある印を示す。
「規模は大きくありませんが、冬場は重要になります。雪が深くなると、さらに山側から町まで下りるのが難しくなりますから」
「薬品も、先ほどの倉庫からここを通って運ばれるんですか?」
フローレンが尋ねると、職員は頷いた。
「そうです。ここで他の物資と一緒に分けて、診療所へ向かう便へ載せ替えます」
フローレンの視線が、その小さな印に止まった。
午前中に見た表にも、同じ診療所の名前があった。冬前に一定量を備蓄し、使用量を確認しながら追加で補充していくと聞いた場所が、今度は目の前の道と繋がって見える。
紙の上にあった名前と、今いる場所との距離が少しだけ縮まったように感じられた。
「診療所より先の村では、冬になると孤立することもあるのでしょうか」
今度はルシアンが尋ねた。
「完全に行き来できなくなることは毎年ではありません。ただ、大雪が続けば数日動けなくなる地域はあります。そのため、食料や暖房用の魔石は余裕を持って入れておきます」
「薬品は、使用量を見ながら追加で補充するものもあると午前中に伺いました。こちらでも、在庫は定期的に確認されているのでしょうか」
「ええ。診療所から報告が来ます。冬場は特に、平時より頻度を上げていますね」
ルシアンは答えを聞きながら、地図と手元の資料を見比べていた。朝に聞いた仕組みと、今説明された経路を繋げるように、いくつかの欄へ静かに書き込みを増やしていく。
三人とも質問の内容は違っていたが、資料の余白は先ほどから目に見えて減っていた。
フローレン自身も同じだった。小さな字で書き足してきた余白はもう残り少なく、ページの端まで細かな文字が伸び始めている。
そこで、以前の薬草園での出来事がふと頭をよぎった。
記録にある条件だけを見ていた時には、原因へ辿り着けなかった。水やりの時刻が変わっていたことも、紙には残されていなかった小さな運用の変化だった。
フローレンはもう一度、壁の地図を見上げた。
整然と引かれた道の線だけを眺めているうちに、朝から聞いてきた「実際には」という言葉がいくつも思い返される。地図や表へ書き込めないことは、この場所にもまだあるのではないか。
「あの」
考えがまとまりきるより先に、声が出た。
説明をしていた職員が話を止め、フローレンの方へ身体を向ける。周囲の生徒たちの視線も、自然とこちらへ集まった。
「こういう資料には載らないことで、冬になると変わることはありますか?」
尋ねると、職員は一瞬だけ考えるように目を細めた。
「資料に載らないこと、ですか」
「はい。道幅とか、積雪量みたいに記録できるものではなくて……実際にそこで仕事をしている方だから分かることというか」
口にしながら、自分でも少し曖昧な問いだと思う。
けれど職員はすぐに否定せず、もう一度地図へ向き直った。いくつかの場所を目で辿りながら、問いの意味を確かめるように少し間を取る。
「そうですね……ありますよ」
指がまず、先ほど説明された日陰の多い区間へ移る。
「たとえばここは凍結しやすいと話しましたが、単純に気温だけを見ても判断しにくいんです。前日に風が強かったか、雪解け水がどこへ流れたかでも翌朝の状態が変わります」
次に、少し先の谷沿いへ指が動く。
「こちらは風が通り抜ける場所で、雪が降ると道の片側だけ吹き溜まりができやすい。積雪量として記録すれば大した数字ではなくても、荷車には通りづらいことがあります」
「そんなに違うんですね」
「ええ。あとは馬もそうです。数字の上では同じ距離でも、坂が続けば負担は変わりますし、その日の路面次第で休ませる場所も変えます」
フローレンは、資料にある情報と今聞いた話を結びつけるように、余白へペンを走らせた。書き込む言葉が増えるほど、整った資料だけでは見えなかった景色が紙の上へ重なっていく。
「そういうことは、どのように共有しているんですか?」
「毎年の記録に残せるものは残します。でも、全部は難しいですね」
職員の声が少し柔らかくなった。
壁に掛かった地図から目を離し、今度は窓の外に広がる山の方へ短く視線を向ける。
「だから現場の人に聞くんです。御者だったり、村の人だったり、山仕事をしている人だったり。長くここで働いている人ほど、資料にはないことをよく知っています」
その言葉を聞き、フローレンは手元の地図へ目を戻した。
そこに描かれている線は変わらない。
けれど、同じ一本の道でも、その日の風や水、雪の残り方によって様子は変わる。現場で物を動かす時には、そうしたものまで含めて初めて「今の道」が分かるのかもしれなかった。
「それなら、この旧道も」
横からレオの声がした。
見ると、レオは先ほど説明された細い経路の近くへ指を添えていた。地図へ描かれた線と、職員の顔を交互に見ながら問いを続ける。
「今この時に使えるかどうかは、地図だけでは分からないんですか?」
「そうですね」
職員は地図を覗き込みながら頷いた。
「しばらく雨が続けば足場が崩れるところもありますし、倒木があれば当然通れません。逆に、見た目ほど状態が悪くない時もあります」
「じゃあ、まずは実際に使っている人に聞くんですね?」
「まずはそうですね。必要なら実際に見に行きます」
「なるほど」
レオは短く答えたものの、視線はまだ地図から離れなかった。
それで質問が終わるかと思えば、レオの指先はすぐに別の場所へ移った。
「この北側の村へ行く便は、冬もこの中継地点から出るんですか?」
「雪が深くなれば、もう一つ山側の小さな中継所も使います」
「そちらは、普段も使っているんですか?」
「必要な時だけですね。冬場の方が稼働が増えます」
「荷馬も、そちらに置いているんですか?」
「一部はここ、一部は向こうです」
職員が答えるたびに、その答えの先から次の問いが生まれていく。
主要街道がどこまで続くのか。診療所への便はどのくらいの間隔で出るのか。山側の集落から届く道路状況の連絡は、誰を通してここまで伝わってくるのか。
どれも、自分の領地にある場所や仕組みのことだった。
それでもレオは、知らないことを隠そうとはしない。むしろ一つ答えを聞くたび、その向こうにまだ知らないものを見つけているようだった。
職員の方も、そんなレオの様子をどこか嬉しそうに見ながら、一つずつ丁寧に答えている。
フローレンは少し離れたところから、そのやり取りを眺めた。
学院にいる時のレオと、大きく変わったわけではない。気になったものへ目を向け、人の話をよく聞き、そこからまた別のことへ気づくところも同じだった。
ただ今日は、その視線がいつもより少し遠くまで伸びている。
地図に記された道の先には村があり、そこには働く人も、暮らしている人もいる。その一つ一つを知るたびに、さっきまでただの地名だったものへ、少しずつ別の輪郭が加わっていくようだった。
いつの間にか、説明を聞いていた生徒たちの輪も次の場所へ移り始めていた。職員の一人が先を案内し、開いた扉の向こうから人の動く気配が少しずつ遠ざかっていく。
それでもレオは最後にもう一度だけ地図へ目を落とした。
先ほど書き込んだ旧道の線を確かめるように眺めてから、ようやく顔を上げる。
「レオ、行こう」
フローレンが呼ぶと、レオは「あ、うん」と返してこちらへ歩いてくる。
追いついたあとも、手元の資料には新しく書き込んだ地名がいくつも残っていた。歩きながらそこへもう一度目を落とすレオの足取りは、朝より少しだけ軽く見えた。




