3-2 初めまして
放課後。
最後の授業を終えた教室には、まだ昼間の名残が薄く残っていた。窓から差し込む陽はすでに傾き、机の上を斜めに滑りながら、木目のひとつひとつを淡い金色に浮かび上がらせている。
帰り支度をする生徒たちの声が、あちこちで重なっていた。机の上では紙や本が次々と片づけられ、廊下へ向かう足音が少しずつ増えていく。開け放たれた窓の向こうからは、部活動へ向かう生徒たちの賑やかな声も聞こえてきた。
フローレンの机の上にも、やがて一冊のノートだけが残った。
何度も開いた頁には、応用問題を囲むように細かな文字が並んでいる。問題に関係しそうな用語。基本則。補足事項。朝になってから新しく調べ、書き足したものもある。
それだけ並べても、結局今日の授業が終わるまで答えは分からないままだった。
けれど今は、その頁を見れば昼休みの会話も一緒に蘇ってくる。
『ルシアンなら、その辺を一個ずつ一緒に辿ってくれると思う』
一緒に、辿る。
胸の内でその言葉をなぞったところへ、現実の声が重なった。
「フローレン」
声のした方を見る。
開いた扉のそばで、レオがこちらへ軽く片手を上げていた。
「あ、レオ」
「もう行ける?」
「うん。ちょうど終わったところ」
フローレンはノートを閉じると、そのまま胸元へ抱えた。残りの荷物を鞄へ収め、肩へ掛けて立ち上がる。
レオはフローレンが隣まで来るのを待ち、二人で教室を出た。
「どこに行くの?」
「図書館の隣に小さい自習室あるでしょ。あそこ」
「知ってる。でも、あまり使ったことない……」
「今日は空いてたから借りたんだって」
「ノクティスさんが?」
「うん」
フローレンは腕の中のノートをそっと抱え直した。
昼休みには、自分で会うと決めた。それでも、いざその時間が近づいてみると、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
「……やっぱり緊張してる?」
隣から聞かれ、フローレンは少し迷ってから頷いた。
「ちょっとだけ」
「そっか」
レオはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、いつの間にか少しだけ歩幅が緩んでいた。急かすでもなく、立ち止まるでもなく。フローレンが何も意識せず隣を歩ける速さで、長い廊下を進んでいく。
階段を下り、渡り廊下へ出た。
午後の陽はゆっくりと西へ傾き、窓硝子には淡い金色が滲んでいる。二人の影も足元から細長く伸び、柱の影へ重なっては、歩みとともにまたほどけていった。
やがて図書館の前を通り過ぎ、その隣に延びる細い廊下へ入る。
突き当たり近くに、小さな木の扉が見えた。
「ここ」
レオが足を止める。
フローレンもその隣で立ち止まり、胸元のノートへ一度だけ指を添えた。
扉の向こうは静かだった。
昼休みに思い浮かべた、金髪の少年の姿が脳裏をよぎる。
特進クラス首位。
公爵家の跡取り。
遠くから見ても目を引く、隙のない佇まい。
ほんのわずかに呼吸を整えたところで、レオが扉を軽く叩いた。
「ルシアン。入るよ」
「ああ」
落ち着いた声が返ってくる。
レオが扉を開けた。
自習室は、四人も入ればほどよく埋まるくらいの小さな部屋だった。
中央には木製の机がひとつ。壁際の書架には使い込まれた参考書や辞書が隙間なく収められている。
西向きの窓から差し込む光はすでに夕方の色を帯び、机の半分を薄金色に染めていた。
その窓辺で、一人の少年が本を読んでいた。
扉が開く音に顔を上げ、栞を挟んでから静かに本を閉じる。そのまま椅子から立ち上がった。
昨日は離れたところから見ただけだった金色の髪が、傾いた陽を受けて淡く透けている。その下からこちらを見たのは、静かな光を宿した深い紫色の瞳だった。
やはり、目を引く人だ。
そう思ったのとほとんど同時に、背筋が自然と伸びた。
「フローレン・アストリア?」
「はい」
フローレンは胸元のノートを持ち直し、きちんと相手へ向き直った。
「初めまして。フローレン・アストリアです。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「ルシアン・ノクティスだ。こちらこそ、来てくれてありがとう」
ルシアンの口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
柔らかくはあるけれど、どこか整っている。初対面の相手へ向けるための、礼儀正しい笑みなのだろう。
商家で育ったフローレンには、その距離感がかえって馴染み深かった。
「……ずいぶんちゃんと挨拶するね、二人とも」
隣でレオがぽつりと言った。
ルシアンの視線がそちらへ向く。
「初対面なんだから当然だろう」
「そうだけど。俺だけ場違いな感じする」
「なら、お前もちゃんとすればいい」
「今さら?」
レオはそう言いながら、まるで気にした様子もなく笑っている。
ルシアンも本気で咎めているわけではないらしい。呆れたように見てはいるものの、その言葉には棘がなかった。
フローレンは二人を交互に見た。
昼休みにレオが「話せばそんなでもない」と言っていた意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。
「初めに、一つ謝っておきたい」
ルシアンの声が改まる。
フローレンもそちらへ向き直った。
「君の了承を得る前に、レオから話を聞いた」
アメジスト色の瞳が、まっすぐこちらへ向けられる。
「話を聞いたあとで事情は分かったが、結果として君の知らないところで話を聞く形になった。すまない」
「いえ」
フローレンは首を振った。
「レオから聞きました。大丈夫です」
「そうか。ならよかった」
ルシアンは短く頷いた。
それ以上、謝罪を重ねることはなかった。
重く扱いすぎず、だからといって軽く流すわけでもない。必要なことをきちんと言葉にして、それで終える。
その簡潔さは、フローレンにはかえって心地よかった。
「とりあえず座ろうか」
レオが空いている椅子へ手を掛ける。
「フローレン、こっち」
「ありがとう」
促された席へ腰を下ろすと、レオもその隣へ座った。ルシアンは向かい側へ戻り、先ほど閉じた本を書架側へ寄せる。
「それで」
ルシアンがフローレンを見る。
「レオから、応用問題で困っていることは聞いている。ただ、僕からも一度確認しておきたい」
「はい」
「君自身は、どうしたい?」
昼休みにレオからも似たことを聞かれた。
今度は迷わなかった。
「解けるようになりたいです」
「その問題を?」
問い返され、フローレンは一度言葉を止めた。
あの一問を解きたい。
もちろん、それもある。
けれど、それだけなら答えを教えてもらえば終わる。
「……いえ」
フローレンは小さく首を振った。
「同じような問題が出たときに、自分で考えられるようになりたいです」
ルシアンは数秒、フローレンを見た。それから、わずかに目元を和らげる。
「ああ。分かった」
机の上へ片手を差し出した。
「なら、問題を見せてくれるか?」
「はい」
胸元に抱えていたノートを開く。何度も見返した頁を探し、ルシアンの方へ向けた。
中央には応用問題。その周囲には、関係しそうな用語や基本則が細かな文字で並んでいる。朝に書き足したものまで合わせれば、余白はほとんど残っていなかった。
ルシアンの視線が、頁の上をゆっくりと移っていく。
「……これは全部、君が書いたのか?」
「はい」
「昨日より増えてるね」
隣からレオがノートを覗き込んだ。
「朝も調べたの?」
「うん。教室にあった参考書を読んで、関係しそうなところを足した」
「やっぱり増やしたんだ」
「だって、まだ解けなかったから……」
昨日の会話を思い出し、フローレンは少し気恥ずかしくなった。
ルシアンはそんな二人のやり取りを聞きながら、もう一度ノートへ目を落とす。
「レオからは、必要な知識は揃っていると聞いている」
「はい」
「ただ、僕は実際に確かめていない。まずは、君が何を知っていて、どこまで分かっているのか見せてほしい」
ルシアンは問題文へ視線を移した。
「いくつか聞いてもいいか?」
「はい。お願いします」
窓の外で、風が梢を揺らした。
先ほどまで机を広く照らしていた陽は少しずつ傾き、開いた頁の端へ淡い影を伸ばし始めている。
ルシアンは問題文を一度読み、それから口を開いた。
「まず、この問題は何を聞いている?」
「外部から魔力が加わったとき、術式の出力がどう変わるか。それから、出力を元へ戻すにはどうすればいいかです」
「条件は?」
「術式自体は正常です。基礎式にも乱れはありません。供給される魔力量は一定で、そこへ外部から同じ方向の魔力が加わっています」
「使えそうな法則は?」
「基礎術式の第二則です」
「第二則は、何について定めたものだ?」
「魔力の流れに外から別の力が加わった場合、その方向と強さに応じて術式の出力に変化が生じるという法則です。加わる力の向きによって――」
「待って」
静かに止められ、フローレンは口を閉じた。
「今は概要だけでいい。必要になったら、その先はまた聞く」
「あ……はい」
聞かれたことにはきちんと答えたつもりだった。それでも、どうやら少し先まで話しすぎたらしい。
隣を見ると、レオがどこか可笑しそうに笑っている。
「……なに?」
「いや。昨日と同じだなと思って」
「また答えすぎてた?」
「うん、ちょっとだけね」
フローレンは小さく眉を下げた。
その様子を見ていたルシアンの口元にも、ごくわずかに笑みが浮かぶ。
「悪いことではない。ただ、今は一つずつ確認したいんだ」
「……分かりました」
ルシアンはノートへ視線を戻した。
「第二則を知っていることは分かった」
「はい」
「では、その法則と今の条件から、何が言える?」
「……」
今度は、何も出てこなかった。
先ほどまでなら、問われた瞬間に答えが浮かんだ。
問題が何を聞いているのか。
どんな条件があるのか。
どの法則を使えそうなのか。
どれも分かる。
けれど今度は、何を答えればよいのか分からない。
「第二則と……条件から?」
「ああ」
ルシアンはそれ以上何も言わなかった。急かす様子もなく、ただ返事を待っている。
フローレンはノートへ目を落とした。
問題文。
その周囲へ自分で書き出した第二則。
視線が、二つの間をゆっくりと往復する。
外部から加わる魔力は、術式の流れと同じ方向。
第二則では、加わる力の方向と強さによって出力が変化する。
どちらも知っている。
意味も分かっている。
何度読み返しても、それぞれについて説明することはできる。
なのに。
そこから何が言えるのかと尋ねられた途端、その先だけが見えなくなる。
開いた窓から風が入り、ノートの端をかすかに揺らした。紙の擦れる小さな音が、静かな自習室に残る。
フローレンは頁を指先でそっと押さえた。
「……分かりません」
やがて、小さく答えた。
ルシアンはすぐには何も言わなかった。
紫色の瞳が、問題文から第二則へ移る。それからもう一度、同じ順番を辿った。
何かを確かめているようだった。
「……なるほど」
ようやく落ちた声に、フローレンは顔を上げる。
「たぶん、ここだな」
「ここ?」
「ああ」
ルシアンの指先が、問題文の条件を示す。次に、少し離れたところへ書かれた第二則へ移った。
「少なくとも、この問題を解くために必要な知識は持っている」
フローレンは黙って聞く。
「でも、それを今の条件に当てはめて、『だから次に何が言えるのか』を考えるところで止まっている」
ルシアンの指先を追うように、フローレンも二箇所へ視線を移した。
問題文も。
第二則も。
どちらも昨日から何度も見てきたものだ。どちらについて尋ねられても、迷わず答えられる。
それなのに、二つを並べた途端、その先へ進めない。
同じ頁の上にあるはずなのに。
問題文と第二則の間を渡る道だけが、今のフローレンにはまだ見えていなかった。




