3-1 糸口
翌日の昼休み。
朝のうち空を覆っていた薄雲は、いつの間にかほどけていた。回廊には春の陽がやわらかく差し込み、白い石床の上へ等間隔に柱の影を落としている。開け放たれた窓から入り込んだ風が、陽だまりと影の境目をすり抜けるように廊下の奥へ流れていった。
昼食を終えたフローレンは、エリナと並んで教室へ戻る途中だった。けれど、回廊へ入ったところでエリナが別の生徒に呼び止められる。
「ごめん、先に戻ってて」
「うん。分かった」
フローレンは空になった昼食の包みを片手に、ひとり廊下を歩き出した。
角をひとつ曲がろうとしたところで、不意に名前を呼ばれる。
「フローレン」
昨日知った声に歩みを緩め、フローレンは振り返った。
少し先の窓辺に、レオが立っている。柱へ軽く背を預けていた身体を起こし、こちらへ片手を上げた。
「あ、レオ」
「今ちょっといい?」
「うん。どうしたの?」
フローレンが近づくと、レオはすぐには答えなかった。昨日話したときには楽しそうに言葉を重ねていたのに、今日はほんの一拍だけ、言葉を選ぶような間がある。
何か、少し言いにくい話なのだろうか。
無意識に、昼食の包みを持つ指先へ力が入った。
「昨日のことなんだけどさ」
レオはそこで一度、視線を落とした。昨日はよく笑っていた口元も、今は静かに結ばれている。
「俺、フローレンに聞かないまま、ルシアンに話しちゃって……」
「……ルシアン?」
「ルシアン・ノクティス。俺の友達」
その名前なら知っていた。
同じ三年生で、特進クラス首位。そして、ノクティス公爵家の跡取り。
学院に通っていれば、直接話したことがなくとも一度くらいは耳にする名前だろう。
「ノクティスさん……昨日の合同授業にいたよね」
「うん。同じクラスでさ」
昨日の実習室が脳裏に浮かぶ。
特進クラスの列にいた、金髪の少年。遠くからでも目を引く端正な姿を、フローレンは覚えている。
レオは小さく頷き、続けた。
「昨日フローレンから聞いたこと。見たり聞いたりしたことが、時間が経ってもかなり細かいところまで残るみたいだってこと。それと、応用問題でずっと困ってることも話した」
フローレンはすぐに返事ができなかった。
自分の記憶について、昨日初めてレオと話した。それがほかの人とは少し違うらしいと知ったのも、つい昨日のことだ。
まだ自分でもどう受け取ればいいのか分からないものを、自分の知らないところで、話したこともない相手が知っている。
怒るほどではない。けれど、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
何と返せばよいのか分からないまま、フローレンの指先が昼食の包みの端をそっとなぞる。
「ごめん」
先に口を開いたのはレオだった。
昨日話したときの軽さは、その声にはなかった。フローレンが顔を上げると、レオもまっすぐこちらを見ている。
「フローレンのことなのに、先に聞くべきだった」
「……うん」
「昨日、あの問題を見たあとに考えてたんだ。フローレンには知識が足りないわけじゃない。でも、俺はそこから先をどう説明したらいいのか分からなくて」
窓から、やわらかな春風が吹き込んだ。フローレンの頬にかかった髪をひと房さらい、レオの長い赤髪もかすかに揺らして、そのまま二人の間を抜けていく。
「それで、ルシアンなら何か分かるかもしれないって思った。あいつ、人に教えるとき、俺とはちょっと違うから」
「違う?」
「うん。答えを教える前に、どこまで分かってるのか細かく聞いてくるんだよね。何でそう思った、とか。じゃあそこから何が言える、とか。そういうの」
レオは過去のやり取りを辿るように、少しだけ目を細めた。
その言葉を聞いているうちに、フローレンの中にも昨日の回廊の光景が浮かんでくる。
レオも、頁いっぱいに並べた書き込みを一つずつ指していた。
何を知っているのか。どこまでなら答えられるのか。
すぐに結論を出すのではなく、ひとつずつ確かめるようにノートを見ていた。そして最後には、どうしたらいいのか少し考えさせてほしいと言った。
「だから、ルシアンならフローレンの力になってくれるかもしれないと思って……話した」
レオは小さく息を吐いた。
「でも、聞く前に勝手に話すのは違った。ごめん」
開け放たれた窓の向こうで、梢がさわさわと揺れた。細かな葉擦れの音が、途切れた会話の隙間へ静かに入り込む。
フローレンはしばらく黙っていた。
胸の奥には、まだかすかな引っかかりが残っていた。それでも、レオが軽い気持ちで自分のことを誰かに話したのではないことは分かった。
昨日、自分が「どうしたらいいんだろう」と零したあと。レオはそのままにせず、どうしたらいいのか考えてくれていた。
きっと今目の前で謝っていることまで含めて、その続きなのだ。
「……びっくりはした」
「うん」
「まだ私も、昨日初めて普通と違うかもって知ったばっかりだから」
「……うん」
さっきより少しだけ小さく返された声に、フローレンの口元がわずかに緩んだ。
「でも、怒ってないよ」
「ほんと?」
フローレンは小さく頷いた。
「……よかった」
レオが長く息を吐いた。いかにも安堵したその様子に、フローレンもつられるように笑う。
「そんなに心配してたの?」
「するよ。知り合ったばっかりの子のこと、勝手に人に話したんだから」
「じゃあ、次からは先に聞いてね」
「うん。ちゃんと聞く」
素直な返事だった。
ほんの少し前まで胸の奥に残っていた引っかかりが、そこでようやく静かに溶けていった。
レオにも、昨日と同じ柔らかな笑みが戻る。
「それでさ。ルシアンには一回フローレンと話してみてほしいって頼んだんだけど」
「うん」
「その前に、本人がどうしたいのか聞けって言われた」
「……私が?」
思わず聞き返す。
「うん。フローレンが自分でやりたいと思ってるなら、無理に手を出すことじゃないだろって」
フローレンは少し意外に思った。
レオから「ルシアンに話した」と聞いた時点で、その先まで二人の間で決まっているような気がしていた。けれど、そうではないらしい。
「だから、決めるのはフローレン。会ってみたいなら、ルシアンは構わないって。嫌ならそれで終わり。俺ももう何も言わない」
窓から差し込む光が、揺れる木々の影を石床へ映している。葉の輪郭は風が吹くたびにほどけ、重なり、また別の形へ変わっていった。
フローレンは手元の昼食の包みへ視線を落とした。
教室の鞄の中には、今日もあのノートが入っている。問題の周りに、知っていることを思いつく限り書き出した。朝にはさらに本を読み、知らなかったこともいくつか増やした。
それでも、解けなかった。
『必要なものは、もう揃ってるよ』
昨日のレオの声が蘇る。
『たぶん、増やす方じゃない気がする』
あの言葉は、今もまだよく分からない。
知識が足りているのなら。今あるものだけで答えへ辿り着けるのなら。
どうして自分には、その道が見えないのだろう。
「……その人なら」
フローレンは顔を上げた。
「ノクティスさんなら、その理由が分かるの?」
「うーん」
レオは少し考えた。
「分かる、っていうより……見つけてくれるかもしれない」
「何を?」
「フローレンが、どこで止まってるのか」
フローレンは黙って続きを待った。
「俺は、材料が足りないわけじゃないってところまでは分かった。俺ならあれで解けるんだけど、フローレンに何を伝えればそこから先へ進めるのかが分かんなくて」
レオは少し困ったように笑う。
「ルシアンなら、その辺を一個ずつ一緒に辿ってくれると思う」
一緒に、辿る。
その言葉が、フローレンの胸に静かに残った。
分からなければ、もっと読む。知らないことを探す。
それが、これまでフローレンが知っていたやり方だった。
けれど、もし。
まだ知らない何かを探すのではなく、今あるものだけで考える別のやり方があるのだとしたら。
それを知ってみたい。
胸の奥に落ちた小さな思いは、考えているうちに少しずつ輪郭を持っていった。
「……教わってみたい」
声にしてみると、不思議なくらい迷いはなかった。
レオの表情が、ふっと和らぐ。
「うん」
「その……増やすんじゃないやり方。今あるものを、どう考えたらいいのか知りたい」
「分かった」
ちょうどそのとき、昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。澄んだ音が高い天井へ伸び、回廊の奥まで渡っていく。中庭にいた生徒たちも、鐘に促されるように次々と校舎へ戻り始めた。
「じゃあ、今日の放課後は?」
「今日?」
「都合悪い?」
「ううん。ただ、思ってたより早かったから」
「早い方がいいかなと思って」
「……ちょっと緊張するかも」
「ルシアンに?」
「うん。昨日見たときも、なんというか……すごくちゃんとしてて、こっちから声をかけるのには少し勇気がいりそうだったから」
そこまで言ってから、フローレンは慌てて言葉を足した。
「あ、悪い意味じゃないの。静かで、隙がないっていうか……なんとなく、私が気軽に話しかけていいのかなって思う感じ」
「あはは。分かる分かる」
レオは気を悪くした様子もなく笑った。
「黙ってると、そう見えるよね」
「……うん」
「でも話せばそんなでもないよ。たぶんすぐ慣れる」
「そうなの?」
「うん。俺が保証する」
「レオの保証、信用していいのかな」
「え、そこ疑う?」
心外そうに眉を下げたレオがおかしくて、フローレンは小さく笑った。
さっきまで二人の間に残っていたわずかな硬さも、いつの間にか春風にさらわれるように薄れていた。
「じゃあ放課後、迎えに行く」
「わかった」
「またあとで、フローレン」
「うん。またあとでね、レオ」
レオは軽く片手を上げると、予鈴に急かされる生徒の流れへ混じっていった。
フローレンは赤い髪が見えなくなるまで少しだけその背を見送り、それから自分も教室へ向かって歩き出す。
放課後に会うのは、話したことのない相手だ。しかも特進クラス首位で、公爵家の跡取り。昨日遠くから見た静かな佇まいまで思い返せば、緊張する理由ならいくらでもあった。
それでも胸に残っているのは、緊張だけではない。
知らない頁を初めて開くときのような、ほんの少し落ち着かなくて、それでも先を知りたくなる感覚だった。
開け放たれた窓から柔らかな春の風が吹き込み、フローレンの髪を優しく撫でていく。
足元に落ちた若葉の影が陽の中で揺れるのを眺めながら、フローレンは昼食の包みを持ち直し、教室へ向かう歩調をほんの少しだけ速めた。




