3-3 一本の線
ルシアンの指先は、二箇所の文字の間で止まっていた。
「じゃあ、もう少し小さく考えてみよう」
そう言って、問題文の一節を示す。
「ここには『外部から、術式の流れと同じ方向の魔力が加わる』とある。合っているな?」
「はい」
「第二則の中で、同じ条件について書かれているのはどこだ?」
フローレンはすぐに答えようとして、開きかけた唇を止めた。
どこだ、と聞かれた。内容を最初から最後まで言う必要はない。
自分で書き込んだ文字を追い、その中から該当する一文を探す。探すといっても、どこに何を書いたのかはすべて覚えていた。
「……ここです」
指したのは、問題文から少し離れた場所に書き留めた第二則の一節だった。
『外部から同方向の魔力が加わる場合、その力は術式内を流れる魔力へ加算される』
「そうだ」
ルシアンの指が、問題文へ戻る。
「こっちは?」
「外から、同じ方向の魔力が加わる」
「こっちは?」
「同じ方向から加わった魔力は、元から流れている魔力に加わる……」
答えてから、フローレンは二つの文を見比べた。
同じ方向。
片方は、この問題に与えられた条件。もう片方は、教科書で覚えた法則。
一方は問題文の中にあり、もう一方は自分が書き出した知識の中にある。今まで、こうして二つを並べて見たことなどなかった。
けれど。
「……同じだ」
思わず零れた声に、ルシアンが目を上げる。
「何が?」
「条件が……第二則に書いてある場合と同じです」
「ああ」
それだけだった。
褒めるでもなく、答えを先へ進めるでもない。ただ、続きを待っている。
フローレンはもう一度頁を見た。
問題文の条件。
第二則の一節。
今までなら、それぞれを別々に読んでいた。
これは問題に書かれていること。
これは教科書に書かれていたこと。
どちらも覚えているから、必要だと思って同じ頁へ書き並べた。それなのに、そこから先を考えたことはなかった。
ルシアンが机の上のペンを手に取る。
「少し書いても?」
「はい」
フローレンがノートを二人の間へ少し寄せると、細いペン先が紙へ触れた。
かすかな音を立てながら、問題文の『同じ方向』から、第二則の『同方向』へ一本の線が伸びていく。
ほんの数センチ。
それだけだった。
けれど、頁の上に並ぶ文字の景色が、それまでとは少し違って見えた。
「今は、ここだけ見ればいい」
ルシアンがペン先で線を軽く辿る。
「この条件が、この法則に当てはまる。なら、何が起きる?」
フローレンは線の先を見つめた。
外から同じ方向の魔力が加わる。
同じ方向なら、その魔力は元の流れへ加算される。
それなら。
「……流れる魔力が、増える」
「そうだ」
答えが出た。
あまりにも簡単に。
ずっと読んでいたはずの第二則から、今まで一度も辿り着けなかった言葉が、自分の口から出てきた。
フローレンは小さく息を止めた。
隣のレオも口を挟まなかった。机の上へ片腕を置いたまま、フローレンの答えを静かに待っている。ただ、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、次だ」
ルシアンの声が、止まりかけた時間をもう一度動かした。
「術式自体は正常。基礎式にも乱れはない。供給されている魔力量も一定だったな?」
「はい」
「その状態で、流れる魔力だけが増えた。出力はどうなる?」
フローレンの眉がわずかに寄った。
また、さっきとは別のところで道が途切れる。けれど今度は、すぐに「分からない」とは思わなかった。
ノートの中を探す。
出力。
魔力量。
正常な基礎式。
それぞれに関係する知識なら、覚えている。
「……術式が正常なら、出力は流れる魔力量に応じて変わります」
「それなら?」
「流れる魔力が増えたから……」
そこで一度、息を継ぐ。
先ほどルシアンが引いた細い線が、視界の端に残っていた。
条件から法則へ。
法則から、起こることへ。
なら、今度も。
「出力も、上がる……?」
語尾だけが少し頼りなくなる。
「ああ。上がる」
ルシアンは即座に答えた。
その短い肯定が、思っていたより深く胸へ落ちた。
「……解けた」
まだ途中だということも忘れ、フローレンは呟いた。
「半分ね」
横からレオが笑う。
「問題、もう一個聞いてたでしょ」
「あ」
慌てて問題文へ目を戻す。確かに、問われているのは出力の変化だけではない。
「出力を元へ戻す方法……」
「そう、それ」
レオは楽しそうだったが、答えを言う気はないらしい。視線だけをルシアンへ送り、そのまま再び口を閉じた。
ルシアンは手にしていたペンを机へ置いた。今度は線も、書き込みも増やさない。
「では、同じように考えてみよう」
問いだけが、フローレンの前へ置かれる。
「今、出力が上がった理由は?」
「外部から同じ方向の魔力が加わって、術式内を流れる魔力が増えたからです」
「元の出力へ戻したいなら、何を元へ戻せばいい?」
「……流れる魔力量」
「そうだ。では、増えた分をどうすればいい?」
フローレンは第二則を見た。
同じ方向から加わる場合。
その一節の少し先。
そこには、反対方向から力が加わった場合についても書いてある。
「反対方向の魔力は、元の流れから差し引かれる……」
今度は、ルシアンに聞かれる前にその箇所を見つけた。フローレンの指先が、問題文から第二則へゆっくりと動く。
問題文の『増えた魔力』。
第二則の『反対方向』。
紙の上には、まだ線はない。
それでも、さっきと同じように二つを並べてみる。
「だったら……増えたのと同じだけ、反対方向から加えれば」
言葉にしながら、自分の中でも形が整っていく。
「増えた分が打ち消されて、元の魔力量に戻る」
ルシアンは答えなかった。
返事がないことが少しだけ不安になり、フローレンは顔を上げる。
深い紫色の瞳がこちらを見ていた。
「その先は?」
「その先?」
「魔力量が元へ戻ったら、出力は?」
「あ……」
まだ終わっていなかった。
けれど、今度は止まらない。
「術式そのものは正常だから……流れる魔力量が元に戻れば、出力も元に戻ります」
「ああ」
今度こそ、ルシアンが頷いた。
「それが答えだ」
窓の外を風が通り過ぎた。
西へ傾いた陽が書架の縁をゆっくりと滑り、机の上へ落ちる光の形を少しずつ変えている。いつの間にか頁の半分まで伸びていた影の中で、一本の細い線だけが黒くくっきりと浮かんでいた。
フローレンはしばらく、その線を見つめていた。
――解けた。
知らなかったことを、新しく教えてもらったわけではない。
第二則も知っていた。
魔力量と出力の関係も知っていた。
反対方向の魔力がどう作用するのかも知っていた。
頁にあるものは、どれも昨日までの自分が知っていたことばかりだ。
「……全部、知ってた」
声が小さく落ちた。
隣で、レオがわずかに身体を動かす。
「うん」
レオはそれだけ返した。
フローレンは自分の書いた文字を順に追った。問題文、第二則、出力と魔力量の関係、反対方向から加わる力。
これまでは、ただ一つずつそこに並んでいた。どれほど数を増やしても、それだけでは答えにはならなかった。
けれど、最初の二つの間には今、細い線が一本引かれている。
その線を起点にするように目を動かせば、その先にある知識へも道筋が続いていく。
条件が、法則へ。
法則から、起こる変化へ。
そこからまた、次の知識へ。
離れていたものが、一つずつ意味を持って近づいてくる。
胸の奥で、何かがかすかに音を立てた気がした。
「そっか……繋げるんだ」
フローレンの指先が、頁の上の細い線へ触れる。紙のざらりとした感触が、指の腹へ伝わった。
「覚えてるものを、こうやって」
ルシアンがその指先を見てから、フローレンへ目を戻した。
「ああ」
夕方の光の中で、深い紫の瞳がわずかに和らぐ。
「そういうことだ」
その言葉が落ちたあと、自習室にはしばらく誰の声もなかった。
窓辺で葉が擦れ合う。遠くの廊下を誰かが通り過ぎ、足音がひとつ、またひとつと薄れていった。
フローレンはまだノートを見ていた。
昨日までと同じ頁。
同じ文字。
同じ知識。
そこに増えたのは、たった一本の線だけだった。
それなのに、昨日までただ並んでいた文字は、もう同じようには見えなかった。




