第9話 その空白を埋めていた者は誰だ
王宮会計院の灯りは、夜になっても消えなかった。
若い担当官は、机の上に二つの帳簿を並べていた。
一つは、王宮台帳。
北方防衛補給、冬季配分。
南砦。
中継砦。
氷見橋詰所。
北倉庫。
もう一つは、ノルデン家から届いた申請書の添付資料。
霜見砦冬季定期配置名簿。
第三補給便受領証。
過去三年分維持報告。
冬季維持確認書。
何度見ても、同じだった。
王宮台帳にない砦から、受領証が届いている。
担当官は、指先で台帳の行をなぞった。
霜見砦という名前はない。
けれど、添付資料には兵の数がある。馬の数がある。受領責任者の名がある。しかも、過去三年分の維持報告まで添えられている。
存在しない砦の書類としては、あまりに揃いすぎていた。
「どうなっているんだ……」
呟いても、答える者はいない。
彼は椅子から立ち上がり、背後の棚へ向かった。
北方防衛補給。
過年度処理。
臨時配分。
冬季監視点補助。
細い背表紙の帳簿を引き抜く。
ほこりが少し舞った。
表紙には、二年前の日付がある。
開くと、すぐに小さな文字が目に入った。
冬季監視点補助。
霜見砦分、監視兵十二名。
南砦経由、第三補給便にて処理。
受領証は北方騎士団控えに添付。
その下に、細い字で追記があった。
常設砦費目なし。
冬季監視点として臨時配分。
翌年度、費目整理要。
担当官は息を止めた。
筆跡は、今年届いた申請書の下書きとよく似ていた。
さらに一年前の帳簿を開く。
同じ処理がある。
冬季監視点補助。
霜見砦分。
北方騎士団維持報告に基づき配分。
翌年度、費目整理要。
そのまた前にも。
霜見砦分。
費目未復活。
監視点補助として応急処理。
次年度要確認。
毎年、同じ問題が起きていた。
そして毎年、誰かが止めていた。
完全に直したわけではない。
しかし、荷だけは止めないようにしていた。
担当官は帳簿を持ったまま、上司の机へ向かった。
会計院の補給費担当主任は、まだ残っていた。眼鏡を外し、眉間を押さえているところだった。
「主任」
「何だ。急ぎか」
「北方防衛補給の件です。霜見砦という砦が、王宮台帳にありません」
主任は疲れた顔で言った。
「台帳にないなら、存在しないのだろう」
「受領証があります」
その一言で、主任の手が止まった。
「受領証?」
「はい。第三補給便の受領証です。冬季監視兵十二名、欠員なし。受領責任者も記載されています」
主任はゆっくり眼鏡をかけ直した。
担当官は、ノルデン家からの申請書と過年度帳簿を並べた。
「過去三年、冬季監視点補助として処理されています。常設砦費目は復活していません。ですが、毎年、臨時配分で通っています」
主任は帳簿に目を落とした。
「誰が処理した」
「照合欄に名があります」
担当官は、細い字の横を指した。
エリシア・ローデン。
主任の目が止まった。
「ローデン嬢か」
「ご存じですか」
「王太子殿下の婚約者だった方だ」
「だった?」
主任はすぐには答えなかった。
代わりに、もう一枚の紙を手に取る。
ノルデン家の申請書。
北方防衛補給費目補正申請。
霜見砦冬季監視点維持に伴う、冬季補給費目の復活について。
添付資料は不足していない。
宛先も正しい。
申請者は、北方辺境公ユリウス・ヴァン・ノルデン。
作成補助欄には、小さくこう記されていた。
北方騎士団冬越し補給臨時顧問
エリシア・ローデン
主任は、しばらく黙っていた。
「なぜ今年になって、正式申請が出た」
担当官は答えられなかった。
主任は過年度帳簿の追記を指で押さえる。
翌年度、費目整理要。
翌年度、費目整理要。
次年度要確認。
同じ言葉が、三年続いている。
「ローデン嬢がいたから、毎年止まらなかったのか」
その言葉は、ほとんど独り言だった。
担当官は小さく頷く。
「おそらく」
「では、今年はなぜ正式申請になった」
担当官は、さらに低い声で答えた。
「ローデン嬢が、王宮にいないからではないでしょうか」
主任は、何も言わなかった。
ただ、帳簿を閉じなかった。
翌朝、会計院から文官庁へ照会が送られた。
宛先は、文官長バルツァー卿。
件名。
北方防衛補給費目における霜見砦冬季監視点処理について。
照会内容。
一、霜見砦が王宮台帳から欠落している理由。
二、過去三年、冬季監視点補助として処理された経緯。
三、翌年度費目整理要との追記が、処理されなかった理由。
四、当該追記の照合担当者エリシア・ローデン嬢の職務範囲。
五、同人が現在王宮職務から外れている場合、後任担当者の氏名。
文官庁に書状が届いたとき、バルツァー卿は別の書類に目を通していた。
孤児院冬布代の再申請。
数量欄は埋まっている。
単価も少し下げられている。
だが、納入業者の名前は変わっていなかった。
ミレーヌ様の後見人が抱える商会。
バルツァー卿はそれを見て、ため息をついたところだった。
そこへ、会計院からの照会が差し込まれた。
「また北方か」
彼は封を開く。
一行目を読んだ時点では、まだ顔色は変わらなかった。
二行目で、眉が動く。
三行目で、指が止まった。
翌年度費目整理要との追記が、処理されなかった理由。
その下に、名前があった。
エリシア・ローデン。
バルツァー卿の喉が、小さく鳴った。
「文官長?」
そばにいた書記官が声をかける。
バルツァー卿は、すぐには返事をしなかった。
会計院の照会は、王太子付きの侍従が持ってくる感情的な書状とは違う。
宛先が正しい。
件名が明確。
回答期限がある。
記録に残る。
そして、逃げにくい。
「霜見砦の台帳を持ってこい」
バルツァー卿は言った。
書記官が一瞬だけ固まる。
「霜見砦、でございますか」
「北方だ。廃砦予定の」
「王宮台帳には……」
「分かっている。過年度の臨時配分を探せ」
書記官は慌てて棚へ向かった。
バルツァー卿は、会計院の照会をもう一度見た。
後任担当者の氏名。
その欄が、いやに白く見えた。
誰もいない。
正確には、いたことにしていた者はいる。
文官庁には書記官がいる。係もある。机もある。帳簿もある。
だが、霜見砦を見ていた者はいない。
ただ一人、見ていた者は、もう王宮にはいない。
「ローデン嬢を」
言いかけて、バルツァー卿は口を閉じた。
呼べない。
少なくとも、会計院からこの形で照会が来た以上、適当な呼び出し状で済む話ではなくなった。
ノルデン家との契約。
北方騎士団冬越し補給臨時顧問。
王宮照会はノルデン家経由。
彼女の返答文が、嫌になるほど正確に思い出された。
必要な照会は、依頼者であるノルデン家を通してください。
「文官長」
書記官が戻ってきた。
「過年度処理に、霜見砦の名がありました」
「持ってこい」
机に置かれた帳簿を開く。
そこには、会計院が見つけたものと同じ細い字があった。
冬季監視点補助。
霜見砦分。
翌年度、費目整理要。
そして照合欄。
エリシア・ローデン。
書記官が青ざめた。
「これ、毎年、ローデン嬢が」
「黙れ」
バルツァー卿は低く言った。
むしろ、黙った部屋の中で、その名前だけが浮かび上がって見えた。
そのころ、北方本城では、私は会計院へ送った申請書の控えを確認していた。
霜見砦冬季定期配置名簿。
第三補給便受領証。
過去三年分維持報告。
廃砦予定決裁写し。
冬季維持確認書。
不足はない。
少なくとも、今こちらで出せるものは揃っている。
「会計院から返答が来るまで、数日はかかるでしょう」
クラウス様が言った。
「早ければ明日です」
「明日ですか」
「会計院は、王太子殿下付きよりも書類が早いです。自分たちの台帳と合わないものが届けば、確認せずにはいられません」
「それは、信用しているということですか」
「性質を知っているだけです」
私は控えを閉じた。
「照会が来た場合は」
クラウス様が言う。
「ノルデン家宛てで受けてください。王宮から直接来たものは、受付で確認します」
「承知しました」
そこへ、ユリウス閣下が入ってきた。
手には封書があった。
「ローデン顧問」
「はい」
「会計院から照会が来ました」
クラウス様が顔を上げる。
「もう、ですか」
「文官庁にも同時に送ったようです」
閣下は封書を机に置いた。
宛先は、北方辺境公家。
件名は、霜見砦冬季監視点処理に関する照会。
回答期限は、三日後。
私は封筒を見て、少しだけ息を吐いた。
宛先は正しい。
件名もある。
期限も書かれている。
「受けられます」
私が言うと、ユリウス閣下は頷いた。
「では、お願いします」
封を開く。
会計院の文字は、細く整っていた。
照会事項。
一、霜見砦の冬季維持が継続していた根拠資料。
二、冬季監視点補助として処理した過年度経緯。
三、翌年度費目整理要との追記を、これまで申請に移せなかった理由。
四、同様の冬季監視点の有無。
私は最後の一行で、手を止めた。
同様の冬季監視点の有無。
会計院も、そこに気づいた。
「マルク副長」
「はい」
「霜見砦以外の冬季監視点について、維持報告を揃えてください」
「承知しました」
ユリウス閣下が、私を見る。
「霜見砦だけではないのですね」
「まだ分かりません」
私は答えた。
「ですが、会計院がこの項目を入れた以上、王宮台帳全体を見るつもりです」
「こちらも見る必要がある」
「はい」
私は照会書を机に置いた。
黒松見張所。
北尾根信号小屋。
昨日、マルク副長が口にした二つの名前が頭に浮かぶ。
王宮会計院で、若い担当官は別の棚を開けていた。
北方防衛補給。
冬季監視点補助。
過年度。
臨時配分。
彼は霜見砦の行の下に、別の名前を見つけた。
黒松見張所。
北尾根信号小屋。
どちらにも、小さな追記がある。
翌年度、費目整理要。
配置確認後、定期処理へ移行。
照合欄には、同じ名前。
エリシア・ローデン。
担当官は、ゆっくり帳簿を閉じた。
それから、まだ残っていた主任へ顔を向ける。
「主任」
「今度は何だ」
「霜見砦だけではありません」
主任は、しばらく動かなかった。
机の上では、北方防衛補給の帳簿が開かれている。
その空白を、これまで誰が埋めていたのか。
答えは、もうそこに書かれていた。




