第10話 空白は、一つではありませんでした
会計院から届いた照会書は、よく整っていた。
宛先。
件名。
回答期限。
照会事項。
必要なものが、必要な場所に書かれている。
だからこそ、こちらも正しく答えなければならない。
私は照会書の四項目目に、もう一度目を落とした。
同様の冬季監視点の有無。
会計院は、霜見砦だけではない可能性に気づいている。
「マルク副長」
「はい」
「昨日おっしゃっていた黒松見張所と北尾根信号小屋の記録をお願いします。維持報告、補給記録、配置人数。王宮台帳上の費目も分かる範囲で」
「すでに集めさせています」
返事は早かった。
北方では、必要な紙が戻ってくるまでの時間が短い。王宮のように、誰の許可を待っているのか分からない沈黙がない。
ほどなくして、補給室の机には新しい書類が並んだ。
黒松見張所。
冬季警戒兵、六名。
役割は街道監視と狼煙。
補給経路は南砦経由。
北尾根信号小屋。
冬季信号兵、四名。
役割は峠の積雪、通行可否、吹雪時の信号伝達。
補給経路は中継砦経由。
私は王宮台帳の写しと、ノルデン家の維持報告を並べた。
霜見砦。
黒松見張所。
北尾根信号小屋。
三つの名前が机の上にある。
しかし、王宮台帳には、そのままの名前では載っていない。
「同じ空白に見えますが、原因が違います」
マルク副長が顔を上げる。
「どう違うのですか」
「霜見砦は、消されたまま戻されていない場所です」
私は霜見砦の廃砦予定決裁を指した。
「常設砦として縮小対象になったあと、冬季監視点として残す判断が台帳に反映されていません」
次に、黒松見張所と北尾根信号小屋の維持報告を見た。
「こちらの二つは、最初から帳簿に席が作られていない場所です」
「席」
「費目のことです。砦でも倉庫でもない。正式な施設としては小さい。だから、王宮台帳に名前を置く場所がありません」
クラウス様が書板を開く。
「では、処理の仕方も変わるのですね」
「はい」
私は紙に三つの欄を作った。
霜見砦。
旧費目復活。
冬季監視点として再登録。
黒松見張所。
冬季連絡点として新規登録。
街道警戒補助から移行。
北尾根信号小屋。
冬季信号点として新規登録。
信号維持雑費から移行。
霜見砦は、戻す。
黒松見張所と北尾根信号小屋は、新しく席を作る。
似ているようで、必要な手続きは同じではなかった。
マルク副長はその紙を見て、低く言った。
「全部、冬の監視線です」
「けれど、帳簿上は別々の名目で処理されていました」
「なぜです」
「同じ名目では、通らなかったからだと思います」
言いながら、私は過去の補助処理を確認した。
黒松見張所は、街道警戒補助。
北尾根信号小屋は、信号維持雑費。
霜見砦は、冬季監視点補助。
どれも正面から名前を置く場所がないため、近い機能の費目に寄せて処理されている。
王宮にいたころ、私はそれを当然のようにしていた。
当然だったからではない。
そうしなければ、荷が止まったからだ。
ユリウス閣下が、地図の前から言った。
「つまり、北方の問題は、補給の量ではなく、名前のない場所が多すぎることか」
「はい」
私は頷いた。
「名前がない場所には、予算も荷も届きません」
マルク副長が、黒松見張所の維持報告を手に取る。
「六人です」
「はい」
「たった六人のために費目を作るのか、と王宮は言うでしょう」
「言うと思います」
私は答えた。
「ですが、六人がいなければ、黒松の狼煙が上がりません。狼煙が上がらなければ、南砦は峠の異常を知るのが遅れます。人数ではなく、役割で書きます」
「北尾根信号小屋も」
「同じです。四人しかいない、ではなく、四人が峠の通行可否を出している、と書きます」
ユリウス閣下が、静かに頷いた。
「なら、三つを一通の申請にまとめるべきではないな」
「はい。まとめると、王宮は一番分かりやすい霜見砦だけ処理します」
「残り二つが落ちる」
「落ちます」
私は新しい紙を三枚取り出した。
「会計院への回答は、まず分類表にします。霜見砦は費目復活。黒松見張所と北尾根信号小屋は新規登録。それぞれ、今年の応急処理と来年度以降の処理を分けます」
「今年と来年も分けるのですね」
クラウス様が確認する。
「今年の冬を止めない処理と、来年から空白を作らない処理は別です」
私は表題を書いた。
北方冬季監視点整理表。
名称。
現在の王宮台帳上の扱い。
ノルデン家記録上の扱い。
本年度応急処理。
翌年度以降の申請方針。
一行目に、霜見砦。
二行目に、黒松見張所。
三行目に、北尾根信号小屋。
空白を埋めるのではなく、空白がなぜできたのかを見えるようにする。
そうしなければ、また来年、誰かが別の名目を探すことになる。
「ローデン顧問」
マルク副長が言った。
「昨年までは、これをお一人で?」
私は少しだけ手を止めた。
「一人で、というより、王宮の机でできる範囲だけです」
「だが、通していた」
「通しただけです。直してはいません」
それは、認めなければならないことだった。
荷を止めないために、目の前の処理を通す。
それは必要だった。
けれど、同じ追記を毎年書いていたのなら、私は毎年、直らなかったものを見送っていたことにもなる。
ユリウス閣下が言った。
「今、直しています」
私は顔を上げた。
「今からです」
「なら、今からでいい」
その言葉は、慰めではなかった。
単に、事実として置かれた。
だから受け取ることができた。
「はい」
私はペンを持ち直した。
王宮会計院では、若い担当官が同じ三つの名前を見つけていた。
霜見砦。
黒松見張所。
北尾根信号小屋。
どれも、北方防衛補給の本台帳にはない。
けれど、過年度の臨時配分には出てくる。
担当官は、処理名を一つずつ書き出した。
霜見砦。
冬季監視点補助。
黒松見張所。
街道警戒補助。
北尾根信号小屋。
信号維持雑費。
「全部、別の名目で通している」
主任が、横から低く言った。
担当官は頷いた。
「同じ名目では、通らなかったのだと思います」
「だが、実態は同じ北方監視線だ」
「はい。冬季に人を置き、補給を受け、監視または信号を担っています」
主任は眼鏡を外さなかった。
机の上の帳簿を、じっと見ている。
「では、ローデン嬢は毎年、通る名目を探していたのか」
担当官は答えに迷った。
その言い方では、少し違う。
「探していたというより、既存の費目で最も近いものに寄せていたのだと思います」
「なぜ」
「正式な費目がなかったからです」
主任は、しばらく黙った。
それから、過年度帳簿の端を軽く叩く。
「この追記は、誰が読むべきものだった」
担当官はその行を見た。
翌年度、費目整理要。
配置確認後、定期処理へ移行。
三年分。
毎年、同じ趣旨の追記がある。
「文官庁です」
「会計院ではないのか」
「会計院もです。ただ、費目を作るには、文官庁からの整理と、防衛側の必要確認が要ります」
「つまり、誰も引き取らなかった」
担当官は黙った。
主任は書類をそろえた。
「文官庁への追加照会を出す」
「件名は」
「北方冬季監視点補助処理の複数発生について」
担当官は書き取った。
主任は、声を落とした。
「照会内容。霜見砦、黒松見張所、北尾根信号小屋について、過去三年分の処理経緯を提出せよ。これらの処理がエリシア・ローデン一名に集中していた理由を説明せよ。後任体制を示せ」
担当官は手を止めた。
「後任体制」
「今後も冬は来る」
主任は言った。
「ローデン嬢がいないなら、誰が見るのか。会計院として確認する必要がある」
正しい言い方だった。
だが、担当官はもう分かっていた。
その問いに、文官庁はすぐ答えられない。
文官庁へ追加照会が届いたのは、その日の午後だった。
バルツァー卿は、最初の照会への回答案をまだ作れていなかった。
霜見砦の台帳。
過年度臨時配分。
エリシア・ローデンの追記。
後任担当者の氏名。
どれも机の上にある。
だが、どれも答えにならない。
そこへ、二通目が届いた。
北方冬季監視点補助処理の複数発生について。
バルツァー卿は封を開いた。
霜見砦。
黒松見張所。
北尾根信号小屋。
三つの名前を見たとき、彼の顔から色が引いた。
「まだあるのか」
声は掠れていた。
書記官たちは誰も答えなかった。
答えられる者がいないからだ。
会計院の照会は続く。
過去三年分の処理経緯。
処理がエリシア・ローデン一名に集中していた理由。
後任体制。
バルツァー卿は、椅子に深く腰を下ろした。
後任体制。
その言葉が、先ほどから何度も目に入る。
「殿下へ報告する」
彼はようやく言った。
書記官が顔を上げる。
「王太子殿下へ、でございますか」
「会計院から正式照会が来ている。隠せん」
そう言ってから、バルツァー卿は自分の言葉に少しだけ苦くなった。
隠す。
つまり、隠せるなら隠したかったのだ。
王太子アレクシス殿下は、文官庁からの報告を不快そうに聞いていた。
応接室には、バルツァー卿と王太子付きの侍従長がいる。ミレーヌ様はいない。孤児院冬布代の再申請は、まだ会計院に通っていなかった。
「霜見砦に、黒松見張所、北尾根信号小屋」
殿下は書類の名前を読み上げた。
「小規模な監視所の扱いで、会計院が騒ぐほどのことか」
バルツァー卿は額の汗を拭いた。
「殿下、問題は数ではございません」
「では何だ」
「王宮台帳にない場所へ、過去三年、補給が出ています」
「なら不正ではないか」
「いいえ」
バルツァー卿は、そこで言葉を選ばなければならなかった。
不正と言えば、過去三年の処理を誰が認めたのかという話になる。
必要だったと言えば、なぜ正式費目にしなかったのかという話になる。
どちらに転んでも、文官庁は逃げられない。
「北方騎士団からの維持報告はありました。補給自体も、北方防衛上必要なものです。ただ、王宮台帳上の費目整理が追いついておりませんでした」
「追いついていないなら、なぜエリシアは報告しなかった」
その名を出すときだけ、殿下の声が少し強くなった。
バルツァー卿は返事に詰まった。
「聞いているのか」
「……報告は、ありました」
殿下の眉が動く。
「何?」
バルツァー卿は、机の上に置いた会計院の照会書へ目を落とした。
翌年度、費目整理要。
配置確認後、定期処理へ移行。
後任体制を示せ。
声に出して読み上げる必要はなかった。
読めば分かる。
少なくとも、読む者なら分かる。
「報告は、ありました」
バルツァー卿は、そう言うしかなかった。




