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婚約破棄された地味令嬢は、北方騎士団の命綱でした 〜私を捨てた王宮は止まり、辺境公爵様には政務官として溺愛されています〜  作者: おねぴ


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第11話 報告は、読まれていませんでした

「報告は、ありました」


バルツァー卿がそう言ったあと、応接室の空気はしばらく動かなかった。


王太子アレクシス殿下は、すぐには言葉を返さなかった。


机の上には、会計院から届いた照会書がある。


霜見砦。

黒松見張所。

北尾根信号小屋。


北方の地図を見慣れていない者には、どれも小さな名前にすぎない。けれど、会計院の照会書には、その小さな名前が三年分の記録と一緒に並んでいた。


翌年度、費目整理要。

配置確認後、定期処理へ移行。

後任体制を示せ。


殿下はようやく口を開いた。


「報告があったなら、なぜ私は知らない」


バルツァー卿は、答えに詰まった。


それは、最も言われたくない問いだった。


「文官長」


殿下の声が低くなる。


「私は聞いている。なぜ、私に報告しなかった」


「殿下」


バルツァー卿は、慎重に言葉を選んだ。


「北方冬季補給に関する処理は、毎年、補給許可書の添付資料としてまとめられておりました」


「だから何だ」


「つまり、その……殿下の御名で認可された書類の中に、含まれております」


殿下の顔から、少しずつ色が引いた。


「私が署名したと?」


「はい」


バルツァー卿は、会計院の照会書の写しを指した。


「過年度の補給許可書、添付目録、臨時配分処理。その照合欄に、ローデン嬢の追記がございます」


「そんなもの、私は見ていない」


「……はい」


その返事は、肯定ではなかった。


ただ、それ以上言いようがないだけだった。


殿下は立ち上がりかけた。


「ならば、見えるように出さなかった者の責任だ」


バルツァー卿は顔を上げる。


「殿下、それは」


「お前の責任ではないのか、文官長」


部屋の端に立っていた侍従長が、気まずそうに視線を伏せた。


そのとき、扉の外から別の侍従が入ってきた。


「失礼いたします」


「何だ」


「王妃陛下より、王太子殿下、ならびにバルツァー文官長へお召しでございます」


殿下の動きが止まった。


「母上が?」


「はい。会計院より副本が届いております」


バルツァー卿の喉が、小さく鳴った。


会計院は、文官庁だけに照会したのではなかった。


王妃陛下の執務室は、王宮の奥にある。


華やかな部屋ではない。壁には刺繍の飾りもあるが、机の上に置かれているのは、茶器より書類の方が多かった。


王妃陛下は、窓際の机に座っていた。


銀灰色の髪を結い上げ、薄い青の衣をまとっている。声を荒げる方ではない。けれど、だからこそ、その部屋では余計な音が立てにくかった。


「アレクシス」


「はい、母上」


「バルツァー卿」


「はっ」


「会計院から副本が届きました」


机の上には、すでに書類が並べられている。


北方防衛補給費目に関する照会。

霜見砦冬季監視点処理。

黒松見張所。

北尾根信号小屋。

後任体制。


王妃陛下は、一枚ずつ順に見た。


「まず確認します。北方冬季補給の補給許可書には、アレクシス、あなたの署名がありますね」


殿下は唇を結んだ。


「形式上は」


「形式上ではありません」


王妃陛下の声は静かだった。


「署名とは、名前を書くことではありません。読んだものに責任を持つことです」


殿下は、返事をしなかった。


王妃陛下は次に、バルツァー卿へ視線を向ける。


「この追記は、誰が処理すべきものでしたか」


バルツァー卿は、机上の写しへ目を落とした。


翌年度、費目整理要。

配置確認後、定期処理へ移行。


細い字で書かれた追記は、読もうと思えば読める場所にあった。


「文官庁でございます」


「では、文官庁として回答しなさい」


「承知いたしました」


「会計院の照会は、王宮に対するものです。ローデン嬢個人への呼び出しで済ませることではありません」


バルツァー卿は深く頭を下げた。


「はい」


アレクシス殿下が、そこで言った。


「しかし、母上。エリシアが分かっていたなら、もっと分かりやすく報告すべきだったのではありませんか」


王妃陛下は息子を見た。


「あなたは、添付目録を読みましたか」


殿下の口が止まる。


「それは、文官が」


「読みましたか」


同じ問いだった。


声は荒くない。

だから、逃げ道がなかった。


殿下は答えなかった。


王妃陛下は、会計院の副本へ視線を戻した。


「報告が分かりにくかったかどうかは、記録を見てから判断します」


それだけだった。


責めもしない。

断じもしない。


ただ、次に見るべきものを決めている。


「バルツァー卿」


「はっ」


「過去三年分の補給許可書、添付目録、照合記録、臨時配分処理を揃えなさい。原本は動かさず、写しを取ること」


「承知いたしました」


「王太子署名欄の写しも添えます」


アレクシス殿下が顔を上げた。


「母上、それは」


「署名があるなら、記録に必要です」


王妃陛下は短く言った。


「また、北方補給に関する照会をローデン嬢へ直接出してはなりません」


「なぜです」


「宛先が違うからです」


殿下の眉が動く。


「彼女が処理していたのでしょう」


「今は、ノルデン家の臨時顧問です」


王妃陛下は机上の紙を一枚取った。


ノルデン家から会計院へ届いた申請書の副本だった。


北方騎士団冬越し補給臨時顧問。

エリシア・ローデン。


その肩書きは、王宮が与えたものではない。


だからこそ、王宮は勝手に扱えない。


「北方補給に関する照会は、ノルデン家を通しなさい。会計院、文官庁、王妃府の連名で出します。宛先、件名、回答期限、回答責任者を明記すること」


バルツァー卿が再び頭を下げた。


「承知いたしました」


「それから」


王妃陛下は、空白の紙を一枚出した。


「王宮はまず、ローデン嬢に何をさせていたのかを記録しなさい」


部屋の中で、誰もすぐには動かなかった。


王妃陛下は続ける。


「王妃教育の一環、という言葉では足りません。北方補給のどの帳簿に触れていたのか。どの照合を行っていたのか。誰が依頼し、誰が受け取り、誰が認可したのか。記録として出しなさい」


バルツァー卿の顔が青ざめる。


「王妃陛下、それは」


「会計院に後任体制を問われています」


王妃陛下は、照会書の最後の項目を指した。


後任体制を示せ。


「後任を示すには、まず前任が何をしていたかを明らかにしなければなりません」


前任。


その言葉に、殿下がわずかに反応した。


エリシア・ローデンは、王太子の婚約者だった。

未来の王妃候補だった。

地味で、可愛げがなく、書類の話ばかりする女だった。


けれど、会計院の照会書の中では、別のものになっている。


前任。


王宮が、そう扱った覚えのない職務者。


「本日中に、最初の一覧を出しなさい」


王妃陛下は言った。


「完成していなくても構いません。空白は空白として記録すること」


バルツァー卿は、深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


アレクシス殿下は、何も言わなかった。


王妃陛下はそれ以上、問いを重ねなかった。


まだ問うべきことはある。

けれど、今ここで全てを言葉にしても、記録にはならない。


まず、紙に出させる。


王宮はようやく、そこから始めることになった。


そのころ、北方本城では、私は黒松見張所と北尾根信号小屋の整理表を仕上げていた。


霜見砦は、旧費目復活。

黒松見張所は、冬季連絡点として新規登録。

北尾根信号小屋は、冬季信号点として新規登録。


今年の応急処理。

来年以降の正式処理。

必要な添付資料。

責任者。


項目を埋めていくたびに、三つの空白が少しずつ形を持っていく。


マルク副長が、黒松見張所の維持報告を追加で持ってきた。


「狼煙台の修繕記録もありました。三年前から、冬だけ補修しています」


「添付します。冬季連絡点としての必要性が強くなります」


「北尾根信号小屋の方は、積雪報告の控えが残っています」


「それも必要です。通行可否を出していた証拠になります」


「証拠ばかりですね」


「証拠がなければ、また“ただの小屋”になります」


マルク副長は少しだけ黙り、頷いた。


そこへ、クラウス様が入ってきた。


「ローデン顧問。王宮より正式照会です」


私はペンを止めた。


「宛先は」


「北方辺境公家。会計院、文官庁、王妃府の連名です」


王妃府。


その言葉に、補給室の空気がわずかに変わった。


ユリウス閣下が封書を受け取る。


「開封します」


封を切り、文面に目を通す。


「北方冬季監視点処理に関する照会。回答期限、五日後。回答責任者、王宮会計院補給費担当主任。副責任者、文官庁バルツァー卿。王妃府記録官立会い」


私は顔を上げた。


「整っていますね」


「はい」


ユリウス閣下は文面を私へ渡した。


「王宮側の過年度記録照合のため、ノルデン家保有資料との突合を求める。あわせて、エリシア・ローデン顧問が過去に王宮内で行った照合作業の範囲について、本人確認を求める。ただし、回答はノルデン家を通すこと」


本人確認。


私はその一語を見た。


王宮はようやく、私を呼ぶのではなく、確認を求めてきた。


「受けられます」


私は言った。


「ただし、過去の王宮内職務については、私の記憶だけでは答えません。控えと照合します」


「もちろんです」


ユリウス閣下は頷いた。


「必要な控えは」


「王宮にあるはずです」


「では、王宮に出させましょう」


その言い方は、当然のようだった。


私は少しだけ手元の紙を見た。


王宮にあったころ、控えを出すのは私の仕事だった。

今は、王宮に控えを出させる側にいる。


奇妙な感覚だった。


けれど、浮かれている場合ではない。


私は新しい紙を取った。


回答準備表。

照会事項。

必要資料。

王宮側保有記録。

ノルデン家保有記録。

本人確認可能範囲。


項目を書き終えたとき、ペン先が自然に止まった。


本人確認可能範囲。


私は、かつて自分が何をしていたのかを、記録として確認することになる。


王妃陛下の執務室では、最後の指示が出されていた。


「ローデン嬢を戻す前に」


王妃陛下は、王太子と文官長を見た。


「まず、王宮が彼女に何をさせていたのかを記録しなさい」


アレクシス殿下は、反論しなかった。


バルツァー卿も、もう何も言えなかった。


机の上には、まだ空白の記録用紙がある。


そこに何を書くべきなのか。


王宮は、ようやくそれを考え始めていた。

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