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婚約破棄された地味令嬢は、北方騎士団の命綱でした 〜私を捨てた王宮は止まり、辺境公爵様には政務官として溺愛されています〜  作者: おねぴ


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第12話 王妃教育の一環では、足りません

王妃府の記録官は、筆を持っていなかった。


代わりに、白い紙の束を机に置き、文官庁の書記官たちが持ち込んだ帳簿を一冊ずつ確認している。


王妃陛下の命令は、短かった。


エリシア・ローデン嬢が王宮で行っていた作業を、記録として整理すること。


そのため、文官庁の小会議室には、バルツァー卿、補給係の書記官、会計係の書記官、それから王妃府の記録官が集められていた。


最初に出された紙には、こう書かれていた。


王妃教育の一環として、各種帳簿を確認。


記録官は、その一文をしばらく見ていた。


「これでは使えません」


バルツァー卿の眉が動く。


「王妃教育の一環であったことは事実です」


「教育内容として記録するには、実務処理が多すぎます」


記録官の声は平らだった。


責めているわけではない。

ただ、書類として通らないものを通らないと言っているだけだった。


バルツァー卿は息を吐いた。


「未来の王妃として必要な素養を身につけるため、実務に触れさせていたのです」


「素養ではなく、決裁前照合です」


部屋にいた書記官の一人が、わずかに肩を揺らした。


記録官は、机上の帳簿を一冊引き寄せる。


北方騎士団冬越し補給計画。

軍馬飼料契約控え。

王都倉庫在庫推移表。

騎士団給与修正台帳。

港湾関税未照合分。

孤児院冬布代申請書。

慈善事業費見積照合。


記録官は、それらを読み上げるでもなく、淡々と別紙へ写した。


「一つずつ分けます」


「分ける?」


「作業内容が違います」


記録官は新しい欄を作った。


作業名。

使用帳簿。

依頼者。

受領者。

承認者。

後任予定者。


バルツァー卿は、その最後の欄を見て、口を閉じた。


後任予定者。


会計院の照会にも、同じ言葉があった。


「まず、北方補給から」


記録官が言った。


「ローデン嬢は、北方騎士団冬越し補給計画のどの部分を確認していましたか」


補給係の書記官が、紙束をめくる。


「主に、冬季配分と出庫順です」


「主に、では記録になりません」


書記官の手が止まる。


「第三補給便、第四補給便、雪解け後精算までの照合です。軍馬飼料契約も関連していました」


「依頼者は」


書記官はバルツァー卿を見た。


バルツァー卿は視線を逸らした。


「文官庁です」


記録官はそのまま書く。


「受領者は」


「ローデン嬢です」


「承認者は」


今度は誰もすぐ答えなかった。


バルツァー卿が、低く言う。


「最終的には、王太子殿下の補給許可書に含まれております」


「では、王太子殿下の署名欄写しを添付」


記録官はそう書いた。


バルツァー卿の顔が少し引きつった。


次に、軍馬飼料契約。


「これは」


会計係の書記官が言った。


「三年契約の単価照合と、追加飼料契約の差し戻し一覧を」


「差し戻しを書いたのは」


「ローデン嬢です」


「依頼者は」


「文官庁です」


「任命書は」


沈黙が落ちた。


記録官は顔を上げない。


「補給帳簿照合担当として、ローデン嬢を任じた書類はありますか」


「正式な任命書は……ございません」


「では、なし」


紙に短く書かれる。


任命書なし。


その文字は小さかったが、部屋のどの声よりも重かった。


港湾関税未照合分。

会計院照会への下書き。

孤児院冬布代申請書の差し戻し理由。

慈善事業費の見積照合。


書けば書くほど、王妃教育という言葉から遠ざかっていく。


あるのは、鍵の貸与記録。

帳簿の受領記録。

返納記録。

照合欄に残ったエリシアの名前。


だが、任命書はない。


仕事を渡した記録はある。

職務として認めた記録はない。


記録官は、最後にもう一度、後任予定者の欄を見た。


どの行も、空白だった。


「後任予定者を記入してください」


バルツァー卿は答えなかった。


「暫定でも構いません」


「……確認中です」


「確認中、と記録します」


記録官は書いた。


後任予定者、確認中。


それは空欄よりも、かえって痛かった。


北方本城に届いた暫定一覧は、王妃府の印がある封筒に入っていた。


ユリウス閣下が開封し、内容を確認してから私へ渡す。


「王宮側で作成した、職務範囲の暫定一覧です。本人確認を求めています」


「拝見します」


私は紙を受け取った。


王妃府の書式は整っている。

ただし、中身はまだ薄かった。


王妃教育補助資料確認。

北方補給関連資料の一部照合。

慈善事業費申請書類の確認補助。

会計院照会資料の下書き補助。


私は一行目から、赤で印を入れた。


「一部、ではありません」


クラウス様が書板を開く。


「どの箇所ですか」


「北方補給関連資料の一部照合、です」


私は自分の控えを開いた。


「第三補給便から雪解け後精算までです。軍馬飼料、倉庫在庫、戻り馬車、臨時配分、冬季監視点補助まで含みます」


「では、一部照合ではない」


「はい。少なくとも、会計院へ提出する前の決裁前照合です」


次に、慈善事業費申請書類の確認補助。


私はその文字を見て、少しだけ指を止めた。


孤児院冬布代。


数量空白。

単価過大。

納入業者に利益相反の疑い。


「確認補助、ではありません」


「では」


「差し戻し理由を書いています。再申請条件も添えています」


クラウス様の筆が走る。


「会計院照会資料の下書き補助は」


「下書き補助ではなく、照会回答案の作成です。ただし、王宮名義で出したものについては、最終責任者の確認が必要です」


ユリウス閣下は、黙って聞いていた。


私が三箇所目の修正を書き終えるころ、彼が言った。


「王宮側の記録は、あなたの仕事を小さく書いているのですね」


「小さく書けば、責任も小さく見えます」


口にしてから、少し強い言い方だったかもしれないと思った。


けれど、ユリウス閣下は否定しなかった。


「では、大きく書き直しますか」


「いいえ」


私は首を横に振った。


「大きく書く必要はありません。正しく書けば十分です」


机の上に、回答準備表を置く。


王宮側記載。

本人確認。

必要な裏付け資料。

不足記録。


「私が何をしていたかを大きく書く必要はありません。けれど、小さく書けば、次に見る人が同じところで止まります」


ユリウス閣下は、少しだけ表情を緩めた。


「では、正しい大きさで書きましょう」


その言葉は、不思議と耳に残った。


正しい大きさ。


王宮では、私はいつも小さく扱われていた。

婚約者としては地味で、令嬢としては可愛げがなく、仕事としては一環で済まされる。


けれど、ここで大きく見せたいわけではない。


次にその席に座る誰かが、同じところで手を止めないようにしたいだけだった。


「ローデン顧問」


マルク副長が、別の紙を差し出した。


「北方冬季監視点整理表の方も、本人確認に添えますか」


「添えます。北方補給関連資料の範囲を示す根拠になります」


「では、王宮側が“一部照合”と書いたところへ」


「雪解け後精算までの範囲表を添付します」


「承知しました」


私は暫定一覧の余白に、修正案を書き込んだ。


王妃教育補助資料確認。

修正案。

王宮内各種実務帳簿の決裁前照合。


北方補給関連資料の一部照合。

修正案。

北方騎士団冬越し補給計画に関する、第三補給便から雪解け後精算までの決裁前照合および臨時配分処理案作成。


慈善事業費申請書類の確認補助。

修正案。

慈善事業費申請書類の見積照合、利益相反確認、差し戻し理由作成。


会計院照会資料の下書き補助。

修正案。

会計院照会に対する回答案作成。ただし最終責任者は王宮側確認者。


書いていくうちに、少しずつ過去の机が戻ってくる。


東棟記録室。

第三書庫。

補給契約控えの保管庫。

認可印箱の副鍵。


返したものばかりだ。


「本人確認可能範囲」


私はその欄に、線を引いた。


「私の記憶だけでは回答しません。王宮側の控え、ノルデン家の資料、会計院に残る照会記録と照合した範囲に限る、と書いてください」


クラウス様が頷く。


「承知しました」


ユリウス閣下が言った。


「王宮側の控えを出させます」


「お願いします」


私は暫定一覧を閉じた。


「王宮にあったころ、控えを出すのは私の仕事でした」


自分で言ってから、少しだけ妙な感じがした。


「今は、王宮に控えを出させる側にいるのですね」


ユリウス閣下は、すぐには返事をしなかった。


その沈黙は、否定ではなかった。


「必要な控えを出すのは、記録を持つ側の仕事です」


彼はそう言った。


「あなたが王宮に戻って探す必要はありません」


私は頷いた。


「はい」


その一言は、思ったよりも深く胸に落ちた。


王妃府の記録官は、北方から戻った修正案を読んでいた。


王宮側記載。

本人確認。

必要な裏付け資料。

不足記録。


その表は、整っていた。


大きくも、小さくも書かれていない。


仕事が、仕事として置かれている。


記録官は、バルツァー卿の前にその写しを置いた。


「王宮側の暫定一覧は、本人確認により修正が必要です」


バルツァー卿は、紙を見た。


北方騎士団冬越し補給計画に関する、第三補給便から雪解け後精算までの決裁前照合および臨時配分処理案作成。


彼の目が止まった。


「長すぎる」


「実態に合わせると、この長さになります」


「王妃教育の一環として、もう少し」


「足りません」


記録官は短く言った。


「王妃教育の一環では、足りません」


バルツァー卿は黙った。


記録官は次の紙を出す。


職務整理表。


作業内容。

依頼者。

受領者。

承認者。

使用帳簿。

後任予定者。


「この形式で、各作業を記録してください」


「各作業、すべてをですか」


「会計院に後任体制を問われています。後任を立てるには、職務範囲が必要です」


「だが、ローデン嬢は正式な職務者では」


「では、なぜ後任が必要なのですか」


バルツァー卿は答えられなかった。


記録官は、静かに紙を押し出した。


「正式な職務者ではなかった。けれど、後任が必要な仕事をしていた。そう記録しますか」


バルツァー卿の指が、机の上で止まった。


その文は、あまりにも正確だった。


正確すぎて、書けなかった。


「文官長」


記録官は言った。


「事実に合う言葉を選んでください。事実を小さくする言葉ではなく」


バルツァー卿は、しばらく紙を見ていた。


やがて、低い声で書記官へ命じた。


「補給帳簿、関税帳簿、慈善事業費、騎士団給与。ローデン嬢が照合欄に名を残しているものを、すべて出せ」


書記官が青ざめる。


「すべて、でございますか」


「すべてだ」


部屋の中で、紙が動き始めた。


棚が開く。

帳簿が運ばれる。

控えが並べられる。


王妃教育という言葉の中に押し込めていたものが、一冊ずつ外へ出されていく。


最初に埋まったのは、作業内容だった。


次に、使用帳簿。


その次に、依頼者。


文官庁。

会計係。

補給係。

王太子付き侍従室。

慈善事業準備室。


思っていたより、多い。


受領者の欄には、ほとんど同じ名前が入った。


エリシア・ローデン。


承認者の欄は、書類によって違った。


文官長バルツァー。

王太子アレクシス。

会計院提出前確認。

王太子付き侍従長。


そして、最後の欄。


後任予定者。


誰も、すぐには書けなかった。


補給係の書記官が言った。


「北方補給は、係全体で」


記録官が問う。


「係全体とは、誰ですか」


「それは」


会計係の書記官が別の案を出す。


「慈善事業費は、会計係で見ます」


「利益相反の確認担当者は」


沈黙。


港湾関税。


騎士団給与。


会計院照会回答案。


それぞれに机はある。

係もある。

人もいる。


けれど、エリシア・ローデンの名を消して、そのまま置ける名前はなかった。


バルツァー卿は、ようやく理解した。


彼女が一人で全てをしていたから問題なのではない。


王宮が、それぞれの仕事を正式な職務として置かず、彼女の机に流していたことが問題だった。


記録官は、後任予定者の欄を空白のままにしなかった。


未定。

職務分掌未整理。

任命書なし。


淡々と、そう書いた。


白い紙の上に、王宮の都合は残らない。


残るのは、書ける事実だけだった。


日が傾くころ、最初の一覧が王妃陛下の机に届けられた。


王妃陛下は、一枚目から順に目を通した。


作業内容。

依頼者。

受領者。

承認者。

使用帳簿。

後任予定者。


後任予定者の欄には、同じ言葉が並んでいる。


未定。

未定。

未定。


王妃陛下は、しばらくその欄を見ていた。


「バルツァー卿」


「はっ」


「これは、王妃教育の記録ではありませんね」


「……はい」


「職務分掌表です」


バルツァー卿は、もう反論しなかった。


王妃陛下は紙を置いた。


「明日、会計院へ写しを送ります」


「このまま、でございますか」


「このままです」


王妃陛下の声は、最後まで変わらなかった。


「足りないところも含めて、記録です」


バルツァー卿は頭を下げた。


机の上には、職務整理表が残っている。


受領者の欄に並ぶ、同じ名前。


エリシア・ローデン。


その名を消したあとの欄は、どれも埋まらない。


エリシア・ローデンの名を消したあと、そこに書ける名前はなかった。

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