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婚約破棄された地味令嬢は、北方騎士団の命綱でした 〜私を捨てた王宮は止まり、辺境公爵様には政務官として溺愛されています〜  作者: おねぴ


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第13話 婚約破棄状は、まだ出ていません

王妃府の記録官は、職務整理表を閉じなかった。


後任予定者。

未定。

職務分掌未整理。

任命書なし。


その欄を確認したあと、彼女は別の白紙を机に置いた。


「次に、ローデン嬢の現在の身分状態を確認します」


バルツァー卿は、疲れた顔を上げた。


「身分状態、ですか」


「はい」


記録官は、筆を取る。


「王宮は現在、ローデン嬢をどの立場の者として扱っていますか」


小会議室にいた書記官たちが、互いに視線を交わした。


王太子の婚約者。

婚約破棄された令嬢。

王宮への出入りを禁じられた者。

北方辺境公家の臨時顧問。


どれも、それらしく聞こえる。


だが、記録にするには足りない。


バルツァー卿は口を開いた。


「王太子殿下より、婚約破棄を申し渡されました」


「申し渡しの記録は」


「夜会での宣言です」


「夜会記録を」


記録官が言うと、書記官の一人が慌てて別の紙束を差し出した。


王宮夜会進行記録。

楽団停止。

王太子殿下、ローデン伯爵令嬢との婚約破棄を宣言。

同令嬢、鍵束および指輪を返納。

同令嬢、退場。


記録官はそこまで読んだ。


「宣言は確認できます」


バルツァー卿は、少しだけ息を吐いた。


「では」


「婚約破棄状は」


その一言で、また部屋が止まった。


記録官は続ける。


「ローデン伯爵家へ送付した正式な婚約破棄状です。王太子殿下の署名、王宮印、破棄理由、発効日、家同士の扱いが書かれたもの」


バルツァー卿は、視線を下げた。


「追って送付する予定でございました」


「送付記録は」


「まだ、ございません」


記録官は、淡々と書いた。


婚約破棄状、未送付。


その文字を見て、バルツァー卿の顔がわずかに歪んだ。


「しかし、夜会での宣言は」


「宣言は、宣言です」


記録官は言った。


「正式な破棄状とは別です」


その区別は、あまりにも単純だった。


単純だから、逃げられなかった。


「では、罪状記録を確認します」


記録官は次の紙を出した。


「夜会でローデン嬢に示された罪状は」


バルツァー卿は、言葉を探した。


「聖女候補ミレーヌ様への嫌がらせ、慈善事業の妨害、王宮予算への不当な干渉などです」


「証拠資料は」


「それは、ミレーヌ様からの訴えと」


「訴えの記録は」


書記官が別の棚へ向かう。


しばらくして戻ってきた彼の手には、薄い紙束があった。


ミレーヌ様付き侍女の聞き取り。

茶会で冷たくされた。

慈善事業の申請が差し戻された。

孤児院への冬布手配が遅れた。


記録官はそれを読み、別紙へ分けた。


「茶会で冷たくされた件。証人は」


「侍女が」


「当日の茶会記録は」


「確認中です」


「慈善事業の申請が差し戻された件。差し戻し理由は」


会計係の書記官が、小さく紙を出した。


「こちらに」


孤児院冬布代申請書。

数量空白。

単価過大。

納入業者に利益相反の疑い。

再申請時、数量、単価根拠、業者選定理由を添付すること。


差し戻し理由欄には、細い字が残っている。


エリシア・ローデン。


記録官は、しばらくその紙を見ていた。


「これは、嫌がらせではなく、会計上の差し戻し理由です」


誰も答えなかった。


「王宮予算への不当な干渉については」


バルツァー卿の口元が引き結ばれる。


「王太子殿下が、そのように」


「根拠書類は」


沈黙。


記録官は顔を上げた。


「予算への不当干渉として処分するなら、不当である根拠が必要です。差し戻し理由が正当な会計上の指摘なら、干渉とは記録できません」


「ですが、殿下のご判断で」


「殿下のご判断を記録するにも、判断材料が必要です」


それは、王妃陛下の声ではない。


けれど、言っていることは同じだった。


名前を書くことは、責任を持つこと。

罪と書くなら、その根拠も残る。


記録官は、三つの欄を作った。


夜会宣言。

正式書状。

根拠資料。


夜会宣言、あり。

正式婚約破棄状、未送付。

罪状根拠資料、未整理。


そして、王宮出入り禁止処分。


「ローデン嬢の王宮出入り禁止について、正式な処分記録はありますか」


バルツァー卿は、もう答えを探す顔をしていなかった。


「夜会で、殿下がそのように」


「正式記録は」


「……ございません」


記録官は書いた。


王宮出入り禁止処分、正式記録なし。


小会議室の空気が冷えていく。


それは冬の寒さではない。


紙の上で、一つずつ逃げ道が消えていく冷たさだった。


「以上を、現時点の確認結果として王妃陛下へ提出します」


「このまま、でございますか」


バルツァー卿が言った。


記録官は短く頷く。


「このままです」


「未送付、未整理、正式記録なし、と」


「事実です」


その言葉に、バルツァー卿は反論できなかった。


北方本城に、その照会が届いたのは翌日の朝だった。


封書は、北方辺境公家宛て。


差出人は、王妃府記録官。


件名は、婚約破棄宣言時の状況および王宮出入り禁止申し渡しに関する本人確認。


私は封筒の表書きを見て、しばらく手を止めた。


婚約破棄。


その言葉を、王宮の紙の上で見るのは初めてだった。


ユリウス閣下が言った。


「開封しても?」


「はい」


封が切られる。


文面は、これまでの王宮からの書状よりずっと短い。


確認事項。

一、夜会において、王太子殿下より婚約破棄を口頭で申し渡されたか。

二、同時に、王宮への出入り禁止を申し渡されたか。

三、その後、正式な婚約破棄状、罪状書、処分通知を受領したか。

四、鍵束、指輪、帳簿類の返納状況。

五、当該宣言後、王宮から職務上の照会を受けたか。


私は最後まで読み、紙を机に置いた。


クラウス様が、書板を開く。


マルク副長は、少し離れたところで黙っていた。


これは補給の話ではない。


けれど、補給から切り離すこともできない。


「答えられますか」


ユリウス閣下が尋ねた。


私は頷いた。


「事実だけなら」


「答えたくない項目は、ありますか」


その問いに、少しだけ遅れた。


王宮では、答えるか答えないかを尋ねられたことはほとんどなかった。


答えるべきことがあり、答えるための紙がある。

それだけだった。


私は文面を見直した。


「ありません」


「では、進めましょう」


私は新しい紙を引き寄せた。


王妃府記録官殿。


御照会の件、以下、本人確認として回答いたします。


一、夜会において、王太子アレクシス殿下より婚約破棄を口頭で申し渡されました。

二、同時に、王宮への出入りを今夜限り禁ずる旨の発言がありました。

三、その後、本日までに、正式な婚約破棄状、罪状書、王宮出入り禁止処分通知はいずれも受領しておりません。


そこまで書いたところで、私は左手を見た。


薬指の跡は、もうほとんど薄くなっている。


けれど、完全には消えていない。


指輪は王宮へ返した。

婚約破棄状は、まだ届いていない。


私の手元からは外れたものが、王宮の記録の中では、まだどこにも置かれていなかった。


「続けます」


私は言った。


四、王宮より預かっていた鍵束については、夜会当日、近くにいた侍従へ返納しました。指輪についても、同日、銀盆へ置いて返納しました。帳簿類については、翌朝までに封をし、王宮へ返納済みです。

五、当該宣言後、王宮より複数回、北方補給に関する照会または出頭要求を受けました。ただし、正式な職務命令、責任者、回答権限が明記されていないものについては応じておりません。以後、ノルデン家との契約に基づき、北方補給に関する照会は同家を通すよう回答しております。


クラウス様が書き取ったものを、もう一度読み返す。


私は言葉を足した。


「最後に、一文」


ユリウス閣下が目を向ける。


「はい」


私はペンを取る。


なお、上記は本人の記憶のみによるものではなく、現時点で確認可能な返納記録、王宮からの照会書、ノルデン家受付記録と照合のうえ回答するものです。


「これでお願いします」


クラウス様は頷いた。


「控えを取ります」


ユリウス閣下は、文面を最後まで読んだ。


「このまま返します」


「はい」


「ローデン顧問」


「何でしょうか」


「婚約破棄状が届いていないことを、今まで確認したことは」


私は少しだけ考えた。


「ありません」


「なぜ」


「必要だと思っていませんでした」


答えてから、それが正確ではないと気づいた。


必要ではなかったのではない。


見ないようにしていたのかもしれない。


けれど、私は言い直さなかった。


曖昧な気持ちは、記録に載せるものではない。


「指輪を返しました。鍵も返しました。王宮へも戻りませんでした。それで終わったものだと思っていました」


「終わっていなかった」


「王宮の記録の上では」


私は答えた。


「少なくとも、今のところは」


ユリウス閣下は何も言わなかった。


沈黙が、こちらを責めないものだと分かるようになってきた。


王妃府に回答が戻ったのは、その翌日だった。


記録官は、ノルデン家からの回答を、王宮側の確認表に重ねた。


夜会宣言、あり。

正式婚約破棄状、未送付。

罪状書、未作成。

王宮出入り禁止処分通知、未作成。

鍵束返納、あり。

指輪返納、あり。

帳簿類返納、あり。

宣言後の職務照会、あり。


記録官は、その一覧を王妃陛下へ提出した。


王妃陛下は、何も言わずに最後まで読んだ。


アレクシス殿下も、その場にいた。


バルツァー卿は、少し後ろに控えている。


王妃陛下は、まず王太子を見た。


「アレクシス」


「はい」


「あなたはローデン嬢との婚約を破棄したと宣言しましたね」


「はい」


「破棄状は、まだ出ていません」


殿下は唇を動かした。


「追って出す予定でした」


「いつですか」


「それは」


「罪状書もありません」


「夜会で申し渡しました」


「夜会で言ったことは、記録ではありません」


王妃陛下は、そこだけ少し低く言った。


「記録にするなら、根拠が要ります」


殿下は黙った。


王妃陛下は、次にバルツァー卿へ視線を向ける。


「王宮出入り禁止処分通知もありません」


「……はい」


「それにもかかわらず、王宮は彼女を出入り禁止者として扱い、同時に職務者として呼び戻そうとしました」


バルツァー卿の肩が小さく沈んだ。


「申し開きは」


バルツァー卿は一度、唇を結んだ。


視線が紙の上をさまよう。


けれど、そこには言い訳になる行がなかった。


「ございません」


王妃陛下は紙を置いた。


「では、現在の記録上の扱いを整理します」


記録官が筆を取る。


王妃陛下は、ゆっくりと言った。


「ローデン嬢への婚約破棄宣言は、夜会記録上確認できる。ただし、正式破棄状は未送付。罪状書は未作成。王宮出入り禁止処分通知も未作成」


記録官が書き取る。


「したがって、王宮は現時点で、彼女を正式な罪人としても、正式な出入り禁止処分者としても扱えません」


アレクシス殿下が顔を上げた。


「母上、それでは」


「ただし」


王妃陛下は、息子の言葉を止めた。


「彼女はすでに鍵束、帳簿、指輪を返納しています。さらにノルデン家との正式契約に基づき、北方補給臨時顧問として職務に就いています」


「では、どうなるのです」


王妃陛下は短く答えた。


「王宮が、遅れたのです」


その一言で、部屋の中の誰も動けなくなった。


王宮は、婚約破棄をしたつもりだった。

処分したつもりだった。

必要になれば呼び戻せるつもりだった。


けれど、記録はそのどれにも追いついていなかった。


「今後、ローデン嬢に関する照会は、すべて王妃府を通しなさい」


王妃陛下は言った。


「王太子付きからの直接書状は禁じます。文官庁も同じです」


バルツァー卿が深く頭を下げる。


「承知いたしました」


「それから、慈善事業費の再申請を会計院へ回しなさい」


アレクシス殿下の顔色が変わった。


「なぜ、今それを」


「罪状の根拠に含まれているからです」


王妃陛下は淡々と答えた。


「ローデン嬢が不当に妨害したというのなら、申請書が正当だったことを確認する必要があります」


ミレーヌ様の名前は、まだ出なかった。


だが、その申請書には彼女の名がある。


王妃陛下は、最後に記録官へ言った。


「婚約破棄手続きの整理は、いったん保留します。先に、罪状の根拠資料を確認します」


「承知いたしました」


孤児院冬布代申請書。


数量空白。

単価過大。

納入業者に利益相反の疑い。

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