第7話 霜見砦は、帳簿の上では存在しません
王宮からの照会は、ノルデン家の受付簿に記録された。
第一号。
王宮照会。
北方補給と慈善事業費の混在につき、分割要求のうえ返戻。
私の机に直接届くことは、もうない。
その一行を確認してから、私はペンを置いた。
翌朝、ノルデン家の馬車は王都を出た。
王都の北門を抜けると、道の色が変わる。石畳は少しずつ減り、硬く踏み固められた土と、小石の多い街道が続いた。遠くに見える山の線は、紙の地図で見ていたものよりずっと濃い。
三日目の昼過ぎ、最初の雪が降った。
粒は小さく、地面に落ちる前に消えていく。それでも、御者台のクラウス様は外套の襟を少し上げた。
「峠に入るころには、もう少し増えます」
「第三補給便は、この道を通ったのですね」
「はい。南砦までは予定内に入りました。そこから先は、霜見砦分が昨夜出ています」
霜見砦。
書類の上で何度も見た名前だった。
王都の帳簿では、いつも端に追いやられる。けれど、北方の報告書では冬になるたびに必ず現れる。積雪。監視兵。馬薬。蹄鉄。乾燥豆。灯油。
紙の上で細く残っていた砦が、道の先にある。
そのことが、まだ少し不思議だった。
北方本城に着いたのは、夕刻前だった。
城と呼ばれてはいるが、王都の宮殿とはまるで違う。高い塔や飾り窓よりも、厚い壁と広い門が目立つ。馬車が入るための通路は広く、荷を下ろす場所には屋根があった。
ここもまた、見せるためではなく、動かすための建物だった。
馬車を降りると、冷たい空気が頬に当たった。
王都の寒さとは違う。薄く刺すような冷えではなく、身体の外側から静かに重くなる寒さだった。ノルデン家の外套は、風を通さなかった。
「ローデン顧問」
門の内側で、マルク副長が待っていた。
北門の詰所で見たときよりも、表情が硬い。彼の手には、油紙に包まれた数枚の書類があった。
「到着早々で申し訳ありません」
「急ぎですか」
「霜見砦の件です」
ユリウス閣下が、私の隣で足を止めた。
「第三便か」
「はい。南砦、中継砦までは予定通りです。霜見砦にも荷は向かっています。ただ、受領記録の扱いで問題が出ました」
「扱い?」
マルク副長は油紙を開き、一枚の控えを差し出した。
「王宮台帳に、今年の霜見砦の記載がありません」
風の音が、一瞬だけ遠くなった。
私はその紙を受け取る。
王宮会計院の台帳写し。
北方防衛補給、冬季配分。
南砦。中継砦。氷見橋詰所。北倉庫。
そこに、霜見砦の名はなかった。
「霜見砦は、帳簿の上では存在しません」
マルク副長の声は低かった。
「しかし、兵はいます。荷も必要です。受領証をどの費目に綴じればよいのか、現場で止まっています」
私は台帳の端を押さえた。
やはり。
「昨年と同じです」
マルク副長が顔を上げる。
「ご存じだったのですか」
「はい」
私は王宮台帳の写しを机に置いた。
門のそばで話す内容ではない。ユリウス閣下も同じ判断だったらしく、短く言った。
「補給室へ」
案内された補給室は、本城の一階奥にあった。
壁には北方全域の地図が掛かっている。各砦へ伸びる道に、赤と黒の紐が留められていた。机の上には、王都から届いた台帳写しと、ノルデン家側の受領記録が広げられている。
ノルデン家側の記録には、霜見砦の名前があった。
霜見砦。
冬季監視兵、十二名。
馬、四頭。
補給受領責任者、ガルム兵曹。
人数は少ない。
けれど、存在している。
「王宮の台帳では、霜見砦は廃砦予定のままです」
私は言った。
「数年前に縮小対象に入れられました。そのあと、北方騎士団から冬季維持報告は出ています。けれど、会計台帳の更新が止まったままになっている」
「なぜ直されていない」
ユリウス閣下の声は静かだった。
「直すには、王宮側で正式な費目を復活させる必要があります。砦として戻すのか、冬季監視所として扱うのか。それを決める申請が必要です」
マルク副長が、机に手を置いた。
「では、なぜ昨年は荷が届いたのですか」
私は少しだけ黙った。
この説明は、言い方を間違えてはいけない。
「不正に送ったわけではありません」
「もちろん、そのような意味では」
「分かっています」
私はノルデン家側の記録を引き寄せた。
「北方騎士団の維持報告には霜見砦がありました。王宮台帳にはない。だから昨年は、北方防衛補給の臨時配分として処理しました。名目は『冬季監視点補助』です」
「監視点」
「はい。砦としての費目は存在しない。けれど、冬季監視点への補助配分なら、北方防衛補給内で処理できます」
私は台帳の余白に書き込まれた小さな記号を指した。
「赤印は、霜見砦分を倉庫から引き出すためでもありました。ただし、受領証は霜見砦名ではなく、北方騎士団冬季監視点補助に綴じます。そうしなければ、会計院で『存在しない砦への支出』として止まります」
マルク副長は、しばらく黙っていた。
怒っているのではない。
計算している顔だった。
「つまり、霜見砦は存在する。だが王宮の帳簿では、砦としては存在しない」
「はい」
「だから、砦宛てに送ると止まる。冬季監視点補助としてなら通る」
「今年の冬は、それで通すしかありません」
ユリウス閣下が私を見る。
「今年の冬は、ですか」
「はい」
私はペンを取った。
「今年は応急処理です。雪が近すぎます。今から王宮台帳を直そうとすれば、その間に荷が止まります」
「来年は」
「このままでは、また同じことになります」
私は新しい紙を引き寄せた。
「来年の予算申請で、霜見砦を正式に帳簿へ戻します。砦として戻すのか、冬季監視所として登録するのかは、ノルデン家の判断が必要です」
マルク副長が言った。
「それは、できるのですか」
「申請書は書けます。ただし、承認者が必要です」
私が顔を上げると、ユリウス閣下はすでにこちらを見ていた。
「私が出します」
「申請者としてではありません」
「責任者として、ですね」
「はい」
私が言う前に、彼は答えた。
「北方辺境公として、霜見砦の冬季維持を必要と認める。その責任で申請する。そう書いてください」
私は一拍置いた。
「よろしいのですか」
「そこに兵がいるなら、帳簿もそこに合わせるべきです」
短い言葉だった。
けれど、その一言で、机の上にあった霜見砦の名前が少しだけ重くなった。
私は頷いた。
「では、まず今年分を止めない処理をします」
今年の処理。
来年の申請。
二つを分けなければならない。
同じ紙に入れると、王宮は必ず都合の悪い方だけを読む。
私は今年分の指示書を書いた。
霜見砦向け第三補給便受領証について。
本年度王宮台帳上、同砦は廃砦予定扱いのため、砦費目への直接綴じ込みは不可。
本冬期分は、北方防衛補給内「冬季監視点補助」として処理。
受領証写しをノルデン家補給記録へ添付。
原本は北方騎士団保管。
王宮提出時は、監視点補助配分として写しを添えること。
私は署名前に、いつものように手を止めた。
「この処理は、ノルデン家の責任で行う必要があります」
「承認します」
ユリウス閣下はすぐにペンを取った。
だが、署名の前に一度だけ、文面を読み返した。
それがよかった。
何も見ずに信じられるより、読まれた方がいい。
責任を負う人は、責任を負う紙を読むべきだから。
彼は最後まで読み、署名した。
ユリウス・ヴァン・ノルデン。
印が押される。
マルク副長は、指示書を受け取るとすぐに動き出した。
「霜見砦への伝令を出します。受領証の宛名は、北方騎士団冬季監視点補助。控えはノルデン家へ」
「お願いします」
「それと」
彼は足を止めた。
「霜見砦には、兵が十二名います」
「はい」
「王宮の帳簿には、いないことになっている」
「今は」
マルク副長の目が、少しだけ険しくなった。
「その十二名は、冬のあいだも北を見ています」
私は何も言わなかった。
言われなくても分かっています、と答えるのは違う。
分かっていたとしても、彼がそれを口にすることには意味がある。
だから私は、ただ頷いた。
「来年の帳簿には、入れます」
マルク副長は短く礼をして、補給室を出ていった。
扉が閉まると、室内に紙の音だけが残った。
ユリウス閣下は地図の前に立ち、霜見砦の位置を見ていた。北の端。街道から少し外れた、細い線の先。
「王宮では、この状態を知っていた者は」
「少なくとも、記録室には残っていました。北方騎士団からの冬季維持報告も届いています」
「読まれていなかった」
「読む棚に、入っていなかったのだと思います」
私はそう答えた。
「ローデン顧問」
ユリウス閣下が言った。
「はい」
「霜見砦を、来年の帳簿に戻してください」
命令ではなかった。
依頼でもある。
責任の引き受けでもある。
私は新しい紙を一枚取った。
「まず、確認書から作ります」
「確認書」
「はい。申請書の前に、存在確認が必要です。ノルデン家として、霜見砦に冬季監視兵が配置されていること。補給を受領していること。受領責任者がいること。それを記録にします」
「必要なものは」
「第三補給便の受領証。霜見砦の兵員名簿。冬季配置命令。過去三年分の維持報告。あとは、廃砦予定になったときの王宮決裁写しです」
「クラウスに集めさせます」
「お願いします」
私は紙の上部に、題を書いた。
霜見砦冬季維持確認書。
その下に、一行目を書く。
霜見砦、冬季監視点として現存。
ペン先が、紙の上で少しだけ止まった。
現存。
その二文字が、思っていたより重かった。
夕刻、霜見砦から早馬が戻った。
第三補給便、受領。
馬薬、蹄鉄、乾燥豆、灯油、確認済み。
冬季監視兵十二名、欠員なし。
受領責任者、ガルム兵曹。
マルク副長がその報告を読み上げたとき、補給室にいた者たちは少しだけ息を吐いた。
荷は届いた。
帳簿の上では存在しなかった砦に。
ユリウス閣下は、報告書を私へ渡した。
「写しを」
「はい」
私は受領証の写しを取り、確認書の下に添えた。
霜見砦、冬季監視点として現存。
第三補給便、受領記録添付。
そこまで書いて、ようやくペンを置く。
王宮の帳簿には、まだこの砦はない。
けれど、ノルデン家の机の上には、名前がある。
受領証がある。
そこにいる兵の数がある。
私は確認書の端をそろえた。
帳簿の上で存在しなかった砦に、荷は届いた。
なら次は、帳簿の方を直す番だった。




