第6話 補給は、出したあとも続きます
王都の北門は、王宮の廊下よりずっと騒がしかった。
馬の鼻息。
車輪の軋む音。
荷台を叩く手の音。
門番が通行札を読み上げる声。
馬車の窓から外を見ると、王都の石畳はそこで途切れ、北へ伸びる街道が冬前の白い空の下へ続いていた。
ここから先は、書類の上だけで見ていた道だった。
クラウス様が馬車の外から声をかける。
「ローデン嬢。少し北門の補給詰所に寄ります。第三便の出立記録と、次便の控えを確認していただきたいとのことです」
「承知しました」
私は膝の上の書類をそろえた。
ノルデン家との契約書の控え。
北方補給の写し。
第三補給便の指示書の控え。
馬車が止まると、扉が開いた。
外の空気は、王都の中より少し冷たい。風が布地の隙間を探すように入ってくる。
降りる前に、クラウス様が大きな包みを差し出した。
「こちらを」
包みの中には、厚手の外套が入っていた。濃紺の生地で、裏には柔らかい毛皮が縫い込まれている。襟元と袖口は風が入りにくいよう絞られ、留め具は手袋のままでも扱える形だった。
飾りはほとんどない。
けれど、よく考えられている。
「ノルデン家より、職務用の防寒具です」
「備品ですね」
「はい。備品です」
クラウス様は、少しだけ真面目な顔で頷いた。
私は外套を受け取った。
王宮の夜会で着る外套は、いつも薄く、刺繍と飾り紐ばかりが重かった。これは違う。肩にかけると重さはあるが、身体を守るための重さだった。
馬車を降りる。
北門の詰所では、すでに何人もの騎士と荷役が動いていた。門の外には、出立を待つ馬車列がいくつか並んでいる。第三補給便はもう見えない。けれど、車輪の跡が街道の泥に深く残っていた。
詰所の入口に、ユリウス閣下が立っていた。
王宮で見たときと同じ濃紺の外套。けれど、ここではその姿が浮いて見えなかった。むしろ王宮の廊下にいたときの方が、異物だったのだと分かる。
「ローデン嬢」
「ユリウス閣下」
「寄っていただき、感謝します。第三便は出立しました」
「クラウス様から報告を受けました」
「あなたの指示がなければ、南砦で止まっていたでしょう」
そう言われても、すぐには返事が出なかった。
感謝の言葉には、まだ慣れていない。
けれど、今はそれより確認すべきものがある。
「出立記録を拝見できますか」
閣下はわずかに頷いた。
「こちらへ」
詰所の中は、王宮の文官室とはまるで違った。
机は古く、紙の角は少し丸まっている。壁には街道図が貼られ、砦ごとの距離と、峠の積雪見込みが赤い線で書き込まれていた。火鉢のそばには濡れた手袋が吊られ、床には泥の跡がある。
けれど、紙は濡れていない。
必要な地図は、すぐ手の届く場所にある。
出入りの多い部屋なのに、動線は乱れていなかった。
現場の部屋だった。
机の前にいた男が、こちらを見る。
年は四十前後だろうか。日焼けした顔に、短く刈った髪。文官ではなく、兵站に慣れた騎士の体つきだった。
「ローデン嬢、こちらは補給副長のマルクです」
ユリウス閣下が紹介する。
「第三便の積み替えを指揮しました」
「マルク・ヘルナーです」
男は短く礼をした。
礼は正確だったが、目にはまだ測るような色があった。
無理もない。
昨日まで王宮にいた令嬢が、いきなり補給の帳面を見ると言われれば、誰でもそうなる。
「第三補給便は、ローデン嬢の指示通り積み替えました」
マルク副長は机の上の紙を差し出した。
「南砦分を前二台、中継砦分を中央、霜見砦分を後方二台。蹄薬は幌内側。出立は予定より半刻遅れましたが、南砦到着には間に合う見込みです」
「ありがとうございます」
私は記録を受け取った。
出立時刻。
馬車番号。
積載変更。
荷札の再確認。
各砦の受領予定。
字は少し荒いが、必要なことは書かれている。
私は二枚目へ進んだ。
「戻り馬車の指定はどちらですか」
マルク副長が、わずかに動きを止めた。
「戻り、ですか」
「はい。南砦で下ろしたあとの馬車を、どの順で戻すかです」
彼は別の紙束を探した。
「戻りは、各砦の判断で」
「それでは、第四便が足りません」
部屋の音が、少しだけ変わった。
マルク副長は眉を寄せた。
「第四便の馬車は、王都側で別に用意する予定です」
「予定では足りません。王都倉庫の貸馬車は、今週末から穀物商会に戻ります。第三便で使った馬車のうち、少なくとも二台は第四便へ戻す計算になっています」
私は控えの表を開いた。
「南砦で空になる二台を、そのまま奥へ進ませないでください。荷を下ろしたら、王都へ戻します」
「しかし、奥で車輪を傷めた場合の予備が」
「予備は一台で足ります」
私は隊列表の端を指した。
「中継砦で一台を待機させれば、霜見砦行きの補助には足ります。前二台まで奥へ入れると、第四便を組む馬車が足りません」
マルク副長は黙った。
納得していないというより、頭の中で馬車の位置を動かしている顔だった。
私は言った。
「第三便だけなら、出せました。でも、補給は、出したあとも続きます」
マルク副長の視線が、表へ落ちる。
ユリウス閣下は黙って聞いていた。
「荷は片道では終わりません。戻る馬車まで含めて、次の便です」
マルク副長は短く息を吐いた。
「復路表を作ります。確認をお願いできますか」
私は一拍置いた。
それは、命令ではなかった。
都合のいい穴埋めでもなかった。
確認をお願いできますか。
そう言われた。
「拝見します」
私が答えると、マルク副長は机の向こうから椅子を引いた。
「お掛けください、ローデン顧問」
ペンを持つ指が、そこで一度止まった。
ローデン顧問。
呼び直されるまで、返事を忘れていた。
「……拝見します」
私は椅子に座り、差し出された復路表を受け取った。
北方の備品は、思っていたよりも暖かかった。
書類を広げると、マルク副長が復路表を書き始める。クラウス様は扉のそばに立ち、ユリウス閣下は地図の前で街道を見ていた。
「ローデン顧問」
マルク副長が紙を差し出す。
「こちらでどうでしょうか」
私は表を見る。
南砦前二台の戻り。
中継砦の待機位置。
霜見砦まで入る馬車の番号。
第四便への再割当。
「南砦の戻りを、半刻だけ遅らせてください」
「なぜです」
「荷下ろし直後の馬をすぐ戻すと、南坂で脚を痛めます。飼葉と水を入れる時間が必要です」
マルク副長は、すぐに書き直した。
「他は」
「ありません。これで出せます」
彼は、今度はすぐに頷いた。
「急使を出します」
ユリウス閣下が言う。
「南砦まで追わせます」
「はっ」
騎士が一人、指示書を受け取って飛び出した。
詰所の扉が開き、冷たい風が入る。すぐに馬の蹄音が遠ざかった。
マルク副長は、まだ机の上を見ていた。
「ローデン顧問」
「はい」
「第三便の積み順だけではなかったのですね」
「はい」
私は表をそろえた。
「荷が届くまでに使った馬車は、次の荷を運ぶためにも必要です。片道だけなら、帳簿は簡単です」
「片道だけなら、ですか」
「はい」
マルク副長は、短く頭を下げた。
「失礼しました」
それは謝罪というより、認識を改めるための礼だった。
詰所の扉が再び開いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
今度は、北門の門番だった。手には王宮の封書を持っている。
「ノルデン閣下。王宮より急ぎの照会です」
ユリウス閣下が受け取る。
宛名を見る前に、門番はちらりと私を見た。
「ローデン嬢にも、とのことで」
私は手を止めた。
ユリウス閣下は封を開かずに言った。
「ノルデン家宛てですか」
門番は封筒を見直す。
「王太子付きより、ローデン嬢へ」
「では、宛先が違います」
声は低くも高くもなかった。
「ローデン嬢は現在、ノルデン家との契約に基づき作業中です。北方補給に関する照会は、ノルデン家へ送るよう、すでに返答しています」
門番は困ったように封筒を持ち直した。
「しかし、王宮から急ぎと」
「急ぎなら、なおさら宛先を直してください」
ユリウス閣下は、封筒を受け取らなかった。
私は机の上の復路表を見た。
南砦前二台。
中継砦待機。
第四便への再割当。
いま手を止めれば、また誰かが荷を待つ。
「ローデン顧問」
マルク副長が、低く言った。
「続けても?」
私は顔を上げた。
「はい。続けます」
ユリウス閣下は門番へ向き直る。
「王宮には、北方補給詰所ではなく、ノルデン家王都屋敷へ正式照会を送るよう伝えてください」
「承知しました」
門番は頭を下げ、封書を持ったまま出ていった。
封は、開かれなかった。
私は復路表に視線を戻した。
王宮の印は、まだ紙の外にある。
ここで動いているのは、ノルデン家の署名と、北方の荷だった。
夕刻近く、南砦へ向かった急使から戻りの伝令が来た。
第三補給便は、積載順を保ったまま南砦へ入る見込み。
前二台は荷下ろし後、飼葉と水を入れて王都へ戻す。
霜見砦分の荷札も再確認済み。
報告を聞いたマルク副長は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「間に合いました」
私は頷いた。
「まだ南砦です。霜見砦に届くまでは、間に合ったとは言えません」
「厳しいですね」
「冬は、荷札を読んでくれませんから」
言ってから、少しだけ自分の言葉が硬かったかもしれないと思った。
けれどマルク副長は、なぜか小さく笑った。
「確かに」
笑われたのではない。
同意されたのだと、少し遅れて分かった。
ユリウス閣下が地図の前からこちらを見る。
「本日はここまでにしましょう。ローデン嬢、馬車へ」
「まだ第四便の」
「続きは、王都屋敷で」
「招請状では王都屋敷を経由できるとありましたが、私は不要と判断しました」
「事情が変わりました」
ユリウス閣下は、開かれずに戻された王宮の封書が去った扉を見る。
「王宮からの照会が、北門やローデン家へ直接届き始めています。出立前に、ノルデン家王都屋敷で正式な受付窓口を立てます」
「受付窓口」
「はい。王宮からの書状が、あなた個人や補給詰所へ直接届かないようにします」
私は机の上の復路表を見た。
「それは、必要です」
「では、今夜は王都屋敷へ。明朝、北方へ向かいます」
私は頷いた。
「承知しました」
マルク副長が、復路表の控えを丁寧に揃える。
「ローデン顧問。こちらの控えは」
「一部は詰所に。もう一部はノルデン家王都屋敷へ。私の控えは写しで構いません」
「承知しました」
顧問。
三度目に呼ばれても、まだ少しだけ耳に残った。
詰所を出ると、北門の外は夕方の色になっていた。街道には、第三補給便の車輪の跡がまだ残っている。王都の内側から見れば、ただの泥の筋に見えるだろう。
けれど、あの跡の先に荷がある。
馬がいる。
砦がある。
待っている人がいる。
私は外套の前を留め直した。
北方の備品は、風を通さなかった。
馬車に乗る前に、ユリウス閣下が言った。
「ローデン顧問」
「はい」
「明朝、北方へ向かいます。それまでに必要なものがあれば、遠慮なく言ってください」
私は少し考えた。
「紙を」
閣下の眉が、わずかに動く。
「紙ですか」
「はい。北方の砦ごとに、荷下ろし順と戻り馬車の表を作ります。王宮の書式ではなく、現場で読める大きさの紙が必要です」
ユリウス閣下は、かすかに口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
けれど、王宮で見た誰の表情とも違った。
「分かりました。紙を用意します」
「ありがとうございます」
馬車に乗る。
膝の上には、契約書ではなく、復路表の写しを置いた。
王宮への返答は、まだ封の中にある。
北方の荷は、もう道の上にあった。




