第5話 王宮ではなく、北方へ向かいます
王宮から二通目の書状が届いたのは、二日後の朝だった。
その二日のあいだに、第三補給便は北門を出立した。
ノルデン家の騎士が届けた報告によれば、南砦分は前二台、中継砦分は中央、霜見砦分は後方二台に積み直されたらしい。蹄薬も幌の内側に移され、北門で失った時間は、まだ取り戻せる範囲に収まったという。
報告書の最後には、クラウス様の短い字でこう添えられていた。
赤印を積載先頭と誤認。
修正済み。
第三補給便、出立確認。
私はその三行を読み、紙を閉じた。
荷は、動いた。
それだけのことなのに、指先が少しだけ紙から離れなかった。
ローデン伯爵家の中は、昨日から静かだった。
静かすぎるほどだった。
侍女たちは私に丁寧に接するようになった。朝食の盆には、前より少し温かいスープがつく。けれど、誰も余計なことは言わない。父も、昨日の応接室以降、私に何かを尋ねることはなかった。
責められているわけではない。
ただ、この家の中で、私は扱いを決めかねられている。
王宮から戻された娘なのか。
北方辺境公に依頼された者なのか。
家にとって都合の悪い荷なのか。
名前をつけるまで、人はずいぶん慎重になる。
二通目の書状は、朝食のあとに届いた。
家令が銀盆に載せて運んできた封筒には、王太子付きの印と、文官長バルツァー卿の副署があった。
一通目より、形式は整っている。
父はしばらく封筒を見下ろしていた。
「エリシア」
「はい」
「読むか」
昨日までなら、父が先に開いていたはずだった。
私は立ち上がり、書状を受け取った。
封を切る。中の紙は、王宮の正式用紙だった。文字も整っている。少なくとも、慌てて書いたものではない。
北方補給引き継ぎに関する一時出頭許可。
王宮東棟への出入りを、当日限り認める。
文官長の監督下において、必要事項の説明を行うこと。
王太子殿下の命により、速やかに応じること。
私は最後まで読んだ。
それから、もう一度、最初に戻った。
父は私の顔を見ていた。
「どうだ」
「これは命令書ではありません」
父の眉が少し動く。
「王太子殿下の印と、文官長の副署がある」
「呼び出し状です」
私は紙を机に置いた。
「出入りを認める、と書かれています。けれど、私に何を任せるのかが書かれていません。説明を行うこと、とありますが、その説明に対する責任者も、記録の扱いも、報酬も、罪状の撤回もありません」
父は何も言わなかった。
私は続けた。
「それに、当日限りとあります。王宮へ入る権利は一日だけ戻す。けれど、私が説明した内容は、その後も王宮に残ります。もし誤って記録されれば、訂正する権限は私にはありません」
「では、どうすれば命令書になる」
父の声は、低かった。
責めているのではない。
確かめている声だった。
「誰が、何を、どの責任で命じるのか。それが書かれていれば」
私は書状の空白を指で押さえた。
「私に王宮職務を一時的に戻すなら、その範囲。北方補給に限るなら、その範囲。私の説明を誰が記録し、誰が責任を負うのか。王宮への出入り禁止をどう扱うのか。少なくとも、それがなければ動けません」
父は、書状を見た。
そこに書かれているものではなく、書かれていないものを見ようとしているようだった。
「お前は、王太子殿下に逆らっているつもりなのか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「書かれていないことには、従えないだけです」
父の指が、机の縁を軽く叩いた。
一度。
それきりだった。
「返答は」
「ノルデン家との正式契約に基づく作業中です。照会は依頼者であるノルデン家を通すように、と」
「昨日と同じか」
「はい」
父は少しだけ息を吐いた。
「同じなら、同じように返すしかないな」
その言い方は、味方のものではなかった。
けれど、少なくとも私の返答を取り上げるものでもなかった。
私が返答を書き終えるころ、門の方で馬車の音がした。
家令が再び入ってくる。今度は、先ほどよりもずっと背筋が伸びていた。
「旦那様。ノルデン家より、正式な使者がお見えです」
父が顔を上げる。
「ノルデン家から?」
「はい。クラウス卿とお名乗りです」
通されたクラウス様は、昨日と同じく無駄のない礼をした。外套には旅の埃があり、革手袋の縫い目に乾いた泥が残っている。王宮の廊下より、北門や馬車列のそばにいた時間の方が長かったのだろう。
「ローデン伯爵。エリシア・ローデン嬢」
「クラウス様。第三補給便は」
私が先に尋ねると、彼は少しだけ表情を和らげた。
「北門を出立しました。南砦までは予定内に入れます」
「そうですか」
「蹄薬の位置も、指示通りに直しました。副官から、霜見砦分の荷札も再確認済みと報告が来ています」
私は頷いた。
今度は、手を止めずに紙を閉じられた。
クラウス様は革筒から一通の書状を取り出した。
封には、ノルデン家の紋章が押されている。
「ユリウス閣下より、正式な招請状をお預かりしております」
父はその書状を受け取りかけて、途中で手を止めた。
そして、私を見た。
「これは、お前宛てだ」
一拍、遅れた。
「はい」
父は書状を私へ渡した。
「なら、お前が読みなさい」
私は封を切った。
紙面は整っていた。
招請者。
北方辺境公ユリウス・ヴァン・ノルデン。
招請対象。
エリシア・ローデン嬢。
身分。
北方騎士団冬越し補給臨時顧問。
滞在先。
王都滞在中はノルデン家王都屋敷。以後、本人の同意を得たうえで北方本城へ移動。
護衛。
ノルデン家騎士二名を常時配置。
同行者。
本人が望む者一名まで可。
旅費、衣類、防寒具、職務に必要な備品。
ノルデン家負担。
王宮からの照会。
ノルデン家が一括して受ける。
期間。
雪解け後の精算完了まで。
私は読み終え、書状を机に置いた。
王宮の書状と同じ紙の白さではない。
けれど、こちらには、私が動くために必要なものが書かれている。
父も黙って文面を読んだ。
しばらくして、低く言う。
「よく整った書状だ」
クラウス様は表情を変えない。
「閣下より、条件に不足があればその場で伺うよう命じられております」
「エリシア」
父が私を見た。
「どうする」
その問いを、少し前の私なら聞き落としていたかもしれない。
どうする。
行くか、行かないか。
王宮の顔色でも、ローデン家の都合でもなく、私に向けられた問いだった。
「行きます」
声は、自分で思っていたより静かだった。
「北方へ」
父の口元が、わずかに動いた。
止めようとしたのかもしれない。
何か別の言葉を探したのかもしれない。
結局、父は何も言わなかった。
クラウス様が頷く。
「出立は明朝でよろしいでしょうか。今夜は王都屋敷に部屋を用意できます」
「いえ」
私は首を横に振った。
「この家で支度をします。明朝、こちらから出ます」
「承知しました」
「持っていくものは多くありません。筆記具、私物の帳面、契約書の控え、衣類を数枚」
「防寒具はノルデン家で用意します」
クラウス様は即答した。
「北方の外套は、装飾ではなく備品です。仕事に必要なものとしてお受け取りください」
私は少しだけ目を伏せた。
「分かりました。備品として」
父がそこで、初めて小さく咳払いをした。
「同行者は」
「不要です」
「侍女を一人つけた方が」
「北方での職務に必要なら、現地でお願いします。ローデン家の侍女を連れていけば、家と職務の線が曖昧になります」
父はもう一度黙った。
今度の沈黙は、反論ではなく、考えるためのものに見えた。
クラウス様が書板を取り出す。
「同行者なし。防寒具、筆記具補充、王都屋敷を経由せずローデン伯爵邸より出立。以上を閣下へ伝えます」
「お願いします」
「王宮から追加の照会が来た場合は」
「ノルデン家を通してください」
私が言うと、クラウス様はわずかに頷いた。
「そのように」
クラウス様が帰ったあと、私は自室へ戻った。
荷造りはすぐに終わった。
衣類を三組。
筆記具。
小さな帳面。
ノルデン家との契約書の控え。
第三補給便の指示書の写し。
王宮で使っていた髪飾りは、箱に戻した。
夜会用の手袋も置いていく。王妃教育で使った古い礼法書は、しばらく眺めてから机の上に重ねた。北方の砦で必要になるとは思えなかった。
引き出しの奥に、小さな布袋があった。
中には何も入っていない。
王太子の指輪を入れていた袋だった。指輪はもう、王宮へ返した。跡だけが、まだ指に残っている。
私は布袋を引き出しへ戻した。
持っていくものではない。
代わりに、契約書の控えを鞄の一番上に置いた。
夜になって、父が部屋の前に来た。
扉越しに、少しだけ間があった。
「エリシア」
「はい」
「入ってもいいか」
私は扉を開けた。
父は部屋の中を見回した。ほとんど荷のない鞄と、机に置かれた王宮の礼法書。それから、私の手元に視線を落とす。
「本当に、それだけで行くのか」
「はい」
「北方は寒い」
「防寒具は、ノルデン家が備品として用意してくださるそうです」
父は困ったように眉を寄せた。
「そうか」
会話は、そこで途切れた。
けれど父は、扉のそばに立ったまま、もう一度口を開いた。
「王宮から、何か問われたら」
「ノルデン家を通してください」
「……そうだったな」
父は小さく頷いた。
「明朝、見送る」
「ありがとうございます」
礼を言うと、父は少しだけ顔を曇らせた。
それが何に対する表情なのか、私には分からなかった。
翌朝、ローデン伯爵家の門前には、ノルデン家の馬車が来ていた。
王宮の馬車より装飾は少ない。けれど車輪は太く、幌は厚い。従う騎士の外套にも、飾りより実用が多かった。
クラウス様が馬車のそばで待っている。
父は門の内側に立っていた。
「エリシア」
「はい」
「……行ってきなさい」
その言い方は、不器用だった。
許す、でもない。
命じる、でもない。
ただ、送り出す言葉だった。
「行ってまいります」
私は礼をした。
門を出る前に、一度だけ屋敷を振り返った。ここが嫌いだったわけではない。けれど、ここもまた、私が何者なのかを決めかねていた場所だった。
馬車に乗る。
鞄を膝の横へ置く。契約書の控えと、北方補給の写しを膝の上に置いた。
馬車が動き出す。
王宮へ向かう道と、北門へ向かう道は、途中まで同じだった。
広場の角で、道が分かれる。右へ行けば王宮。左へ行けば北門。
馬車は、左へ曲がった。
王宮への返答は封をした。
北方への書類は、膝の上に置いた。




