第4話 最初に直すべきは、積み順です
差し出された書状を、私は両手で開いた。
紙は上質だった。けれど、飾りの多い王宮の書式とは違い、余白が広すぎることも、文章が遠回しすぎることもない。
依頼者。
北方辺境公ユリウス・ヴァン・ノルデン。
依頼内容。
北方騎士団冬越し補給計画の確認、および必要箇所の修正。
責任所在。
依頼に基づく確認作業の責任は、ノルデン家が負う。
王宮を介さないこと。
私が最初に確認した項目も、明記されていた。
「かなり整っています」
思ったままを口にすると、ユリウス閣下はわずかに頷いた。
「足りないところはありますか」
「あります」
応接室の空気が、少しだけ止まった。
壁際に控えていたローデン家の侍女が、私と閣下を見比べる。ノルデン家の騎士は動かなかった。主が驚かなかったからだろう。
「伺います」
閣下は言った。
私は書状の下段を指した。
「王宮から照会が来た場合、誰が回答するのかが書かれていません。私が直接返せば、王宮との職務関係が生じます。ノルデン家を通してください」
「追記します」
「それから、私が確認できるのは、提示された写しとノルデン家が保有する記録に限ります。王宮原本の真正については保証できません」
「当然です」
「契約期間の終わりも必要です。冬越し補給の最終便到着までなのか、雪解け後の精算までなのかで、確認すべき帳簿が変わります」
そこで、閣下は初めて少しだけ考える顔をした。
「雪解け後の精算までお願いします」
「では、報酬もそこまでの期間で計算してください」
「分かりました」
彼は振り向き、控えていた騎士へ短く告げた。
「追記を」
「はっ」
騎士が携帯用の書板を開く。よく訓練された動きだった。王宮の文官たちのように、誰かの顔色をうかがってから紙を探すことがない。
私は書状を閉じた。
「確認は以上です」
「では」
「はい。条件が追記されるなら、お受けします」
言ってから、手元の紙を見た。
お受けします。
その一言を自分の口で言ったのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。王宮では、仕事はいつも置かれていた。命じられ、差し戻され、急がされるものだった。
受けるかどうかを尋ねられることは、ほとんどなかった。
廊下の向こうで、慌ただしい足音がした。
家令の声がする。
「だ、旦那様。今はお嬢様が大切なお客様と」
「北方辺境公がお越しなら、当主である私が挨拶せねばなるまい」
父の声だった。
扉が開き、ローデン伯爵が応接室に入ってくる。朝から顔を合わせていなかった父は、濃い緑の上着に着替えていた。髪も整えている。来客の格に合わせたのだろう。
「ノルデン閣下。娘が失礼をしておりませんか」
父は笑顔で礼をした。
閣下も礼を返す。
「失礼はありません。エリシア嬢に正式な依頼をしているところです」
「娘に、でございますか」
父の視線が、私の手元の書状へ落ちた。
「娘は昨夜、王宮から戻ったばかりでして。詳しい事情はまだ家でも把握しておりません。契約の話であれば、父である私を通して」
「契約者は、エリシア・ローデン嬢です」
閣下は静かに言った。
父の笑みが、ほんの少し固まる。
「もちろん、未婚の娘ですから、家としての確認は」
「必要であれば、家への通知は別に出します。ですが、依頼はご本人にしています」
父はすぐには返さなかった。
私は書状を机に置き、父を見た。
「お父様。私は内容を確認しています」
「エリシア、お前は昨夜のことで疲れているだろう。こういう話は」
「疲れているかどうかは、契約の要件ではありません」
父の口が閉じた。
言い方が冷たかったかもしれない。
けれど、曖昧にすると、また誰かが私の代わりに返事をする。
閣下は何も言わず、私が父を見るのを待っていた。
その沈黙が、少しだけ助けになった。
追記を終えた騎士が、書状を差し出す。私は一行ずつ確認した。
王宮からの照会には、ノルデン家が回答する。
作業範囲は提示資料とノルデン家保有記録に限る。
契約期間は雪解け後の精算完了まで。
報酬は期間に応じて支払う。
「問題ありません」
私はペンを取った。
署名欄には、すでに私の名が書かれている。
その下に、自分の手で署名した。
エリシア・ローデン。
王宮の書類に代筆したときより、少しだけ字が硬くなった。
閣下は受け取ると、同じ紙に署名を重ねた。
これで、成立した。
「それでは、すぐに確認したいものがあります」
私は言った。
「第三補給便の積み荷一覧、隊列表、倉庫の出庫印、各荷札の写し。ありますか」
閣下は騎士へ視線を向ける。
「クラウス」
「こちらに」
クラウスと呼ばれた騎士が、革鞄から紙束を取り出した。
ただの護衛ではないらしい。書類の扱いに慣れている。紙束は紐で分けられ、濡れないよう油紙に包まれていた。
「北門には副官を残しています。第三便は王都倉庫から出庫しましたが、隊列と積載の確認はこれからです」
「分かりました」
私は頷いた。
「机をお借りしても?」
私が父を見ると、父は少し遅れて頷いた。
「もちろんだ」
応接室の卓に紙を広げる。
第三補給便積載一覧。
隊列表。
王都倉庫出庫印。
赤印優先荷札写し。
南砦、中継砦、霜見砦の受領予定。
私は最初に隊列表を見た。
次に、荷札の写しを見る。
最後に、積載一覧へ戻った。
「出庫は間に合いましたね」
「はい」
クラウスが答える。
「閣下の保証印で、倉庫からは出せました。今は王都北門の外で隊列を組み直しています」
「組み直し?」
「倉庫番が、赤印のものを前から積ませたようです。急ぎの荷を先頭に」
私は手を止めた。
「それは違います」
クラウスの眉が動く。
「違う、とは」
「赤印は出庫優先です。積み順ではありません」
私は新しい紙を引き寄せた。
「今は説明より、指示を先に出します」
第三補給便、積載順変更。
赤印は出庫優先、積載先頭にあらず。
南砦分を前二台へ。
中継砦分を中央へ。
霜見砦分は後方二台。
蹄薬は幌内側。
署名の前で、一度手が止まった。
この指示は、誰の権限で動くのか。
私は閣下を見た。
「この指示に、ノルデン家の承認をいただけますか」
「もちろんです」
「口頭ではなく、追署を」
閣下はペンを取った。
私の指示書の下に、迷わず署名する。
ユリウス・ヴァン・ノルデン。
そして、印を押した。
「クラウス。北門へ」
「はっ」
クラウスは紙を受け取ると、礼もそこそこに応接室を出ていった。廊下を走る音が遠ざかる。
父は、目の前で起きたことをまだ飲み込めていないようだった。
「エリシア、お前は……いまのを、見ただけで」
「見ただけではありません」
私は残った荷札の写しを三枚、卓上に並べた。
「南砦で下ろすもの。中継砦で下ろすもの。霜見砦まで運ぶもの。赤印がついているのは、最奥の霜見砦分です」
閣下の視線が、荷札に落ちる。
「霜見砦」
「はい。雪のあと、最初に孤立します。馬薬と蹄鉄、乾燥豆はこちらが優先です。ただ、前に積むと南砦で荷を下ろすときに邪魔になります。積み替えが起きる。積み替えが起きれば、北門で取り戻した半刻が消えます」
「では、この隊列で出れば」
「南砦で止まります」
私は隊列表を指した。
「荷はあります。馬車もあります。けれど、降ろす順が抜けています」
父は何か言いかけて、やめた。
閣下は卓上の隊列表を見ていた。
「赤印は出庫優先。積載先頭ではない」
「王都の倉庫では、よく混同されます」
「この印は、あなたが?」
「はい。昨年、倉庫番が霜見砦分を後回しにしたので」
「だから赤印を」
「倉庫から出すためです。北方へ届かせるためには、別の順番が必要です」
閣下はしばらく黙っていた。
その沈黙は、王宮で向けられたものとは違った。責めるための沈黙ではない。考えるための沈黙だった。
「ローデン嬢」
「はい」
「北方に来ていただきたい」
父が小さく息を呑む。
私はすぐには返事をしなかった。
「書類の確認だけなら、王都でもできます」
「はい」
閣下は頷いた。
「ですが、あなたが見ているものを、こちらの者に覚えさせたい。荷札の意味、降ろす順、倉庫番がどこで間違えるか。紙だけでは足りません」
「北方へ行くとなれば、ローデン家との調整が必要です」
父が、ようやく口を挟んだ。
「その通りです」
閣下は父へ向き直る。
「ですので、正式な招請状を出します。身分、滞在先、護衛、報酬、同行者の有無を明記します。ご本人が望まない場合は、無理にとは申しません」
父は黙った。
私は、卓上の指示書の控えを見た。
そこには私の名前がある。
その下に、ノルデン閣下の署名と印がある。
「まずは第三補給便が北門を出立できるか、確認をお願いします」
私が言うと、閣下は少しだけ目を細めた。
「分かりました」
そのとき、玄関の方からまた足音が近づいた。
今度は、ローデン家の家令が扉を叩いた。
「旦那様。王宮より、急ぎの書状が届いております」
父が顔を上げる。
「王宮から?」
家令は封書を差し出した。
白い封筒。
王太子付きの印。
昨日までなら、私が最初に開くことはなかった。
父が封を切り、文面に目を走らせる。読み進めるほどに、その顔が曇っていった。
「エリシア」
父は、書状を私へ差し出した。
「王太子殿下よりだ。北方補給に関する引き継ぎのため、ただちに王宮へ戻るように、と」
私は書状を受け取った。
そこには確かに、王宮への出頭命令が書かれていた。
けれど、罪状の撤回はない。
王宮への出入り禁止を解く文言もない。
誰の責任で私を呼ぶのかも、書かれていない。
私は静かに封筒へ戻した。
「お父様。これは命令書ではありません」
「だが、王太子殿下の印が」
「私に何の権限を戻すのか、何の責任で呼ぶのかが書かれていません」
父の手が止まる。
私は、卓上に置いたノルデン家の書状を見た。
こちらには、依頼者も、責任も、報酬も、期間も書かれている。
「返答を」
父が言った。
私は頷いた。
「ノルデン家との正式契約に基づく作業中につき、応じかねます。必要な照会は、依頼者であるノルデン家を通してください」
父は何か言いかけて、結局、口を閉じた。
ユリウス閣下は何も言わなかった。
ただ、私が返事を書き終えるまで、黙って待っていた。
私の名前は、誰かの罪ではなく、荷を動かすための欄に書かれた。




