第3話 その補給計画を書いた者を出せ
北方辺境公ユリウス・ヴァン・ノルデンが王宮に入ったとき、廊下の空気が変わった。
大声を上げたわけではない。
誰かを押しのけたわけでもない。
ただ、濃紺の外套についた雪を払う間もなく、彼はまっすぐ文官庁へ向かった。従う騎士は二人だけ。どちらも無言だったが、腰の剣と革手袋についた霜が、王宮の飾りとは違う場所から来た者だと示していた。
文官庁の扉の前で、侍従が慌てて頭を下げる。
「ノルデン閣下。こちらは文官庁でございます。殿下へのお取次ぎは――」
「第三補給便の責任者はここにいると聞いた」
声は低かった。
侍従は返事に詰まる。
ユリウスは待たなかった。
扉が開かれると、部屋の中にいた者たちが一斉に振り返った。バルツァー文官長は机の前で立ち尽くしている。机の上には、青い紐で綴じられた帳簿と、封の切られた文箱が広がっていた。
北方騎士団の伝令が、弾かれたように姿勢を正す。
「閣下」
「便は出たか」
「まだです」
ユリウスの目が、文官長へ向いた。
それだけで、バルツァー卿の喉が動いた。
「ノルデン閣下。現在、必要書類の確認を進めておりまして」
「刻限は過ぎている」
「承知しております。ただ、書類の一部に不備が」
「不備ではない」
ユリウスは机の上の帳簿を見た。
手袋を外し、青い紐の束を一冊だけ取る。数枚めくったところで、彼の指が止まった。
「照合順が分からないだけだ」
バルツァー卿の顔が強張る。
「それは、現在こちらで」
「王都倉庫の在庫推移、北方支出枠、昨年の飼料差額。この三つを合わせなければ、追加飼料契約の欄は埋まらない。なぜ最初に慈善事業費の差し戻しを開いている」
部屋の中が静まった。
侍従が、そっと視線を落とす。
書記官の一人は、机の端に置かれた冬布代の紙束を見ていた。
バルツァー卿は唇を引き結ぶ。
「殿下より、そちらも急ぎとのお達しがありまして」
「北方の馬より、王都の冬布が先か」
「そういう意味では」
「そう聞こえた」
短い言葉だった。
ユリウスは帳簿をもう一枚めくった。
「この計画を書いた者は誰だ」
バルツァー卿がわずかに顔を上げる。
「文官庁で作成したものです」
「違う」
即答だった。
「これは、机だけを見ている者の書き方ではない」
ユリウスは欄外の細い字を指で押さえた。
「第三便だけを赤印優先にしている。王都の倉庫番が均等に出そうとすることまで見越している」
伝令が、小さく息を呑んだ。
「昨冬、北方で馬を潰したのは餌の不足だけではない。混ぜられた粗悪な干し草だ。これを書いた者は、それを知っている」
彼は顔を上げた。
「もう一度聞く。この補給計画を書いた者は誰だ」
誰も答えなかった。
その沈黙の中へ、さらに足音が重なる。
王太子アレクシス殿下だった。
急いで来たのだろう。礼装ではないが、昨夜と同じ上着を羽織っている。後ろには王太子付きの侍従が二人ついていた。
「ノルデン公。朝からずいぶんな騒ぎだな」
「補給便が止まっています」
「その件は文官庁に処理させている」
ユリウスは机の上を見た。
「処理できていない」
殿下の眉が動く。
「王宮の手続きに、辺境公が口を出すことではない」
「北方国境の補給です。王宮の机上で止められては困る」
「言葉を慎め」
「兵を冬に殺さないためなら、慎む順番は後です」
室内の空気が張った。
バルツァー卿が慌てて口を挟む。
「殿下、ノルデン閣下は第三補給便のことで」
「分かっている」
殿下は不快そうに言い、ユリウスへ向き直った。
「必要な書類は揃っている。多少の遅れで騒ぎすぎだ」
「多少かどうかは、現場が決めます」
ユリウスは帳簿を閉じなかった。
「殿下。この計画を書いた者を出してください」
「文官庁で作ったと言っているだろう」
「なら、今ここで照合欄を埋めればいい」
殿下の視線が、バルツァー卿へ移る。
バルツァー卿はすぐに目を伏せた。
その一瞬で、答えは出た。
ユリウスは静かに言った。
「ローデン嬢ですか」
殿下の顔がこわばる。
「その名をどこで」
「昨年の北方補給計画にも、同じ筆跡の注記がありました。署名はありませんでしたが、会計院の控えに照合者名が残っている」
「エリシアは昨夜、王宮を去った」
「なぜです」
「婚約を破棄した。不正と、ミレーヌへの嫌がらせがあった」
ユリウスは、そこで初めて完全に殿下を見た。
「証拠は」
「大広間で申し渡した。本人も反論しなかった」
「反論しなければ、有罪になるのですか」
殿下の頬に赤みが差した。
「お前は何が言いたい」
「そのような扱いを受けた者に、今朝になって補給書類だけ助けろと命じるなら、正式な命令書が必要です。罪人として処分したのか、職務者として呼ぶのか。王宮は、どちらの記録で動くのです」
バルツァー卿の肩が揺れた。
殿下は言葉を探すように口を開き、閉じた。
その間に、ユリウスは自分の騎士へ短く命じた。
「ノルデンの臨時保証印を出せ」
「はっ」
騎士が革の筒から小さな印箱を取り出す。
バルツァー卿が慌てて声を上げた。
「閣下、王都倉庫の出庫に辺境公家の保証印を用いるのは」
「本来は王宮の認可が先です」
ユリウスは遮らずに言った。
「ですが、国境防衛に関わる緊急出庫には、受領側の一時保証が認められている。遅延による損害は、ノルデン家が負います」
「しかし、会計院が」
「会計院へは私が説明する」
ユリウスは青い紐の帳簿を開いたまま、必要な紙を三枚だけ抜き出した。
「今日の第三便だけは出せる。だが、これは応急です」
抜き出した三枚を、机に置く。
「次の便、雪解け前の配分、馬の入れ替えまでは読めない。組んだ者に確認しなければ、冬全体が崩れる」
彼は殿下へ視線を戻す。
「ローデン嬢の居所を伺いたい」
殿下の顔が、さらに険しくなる。
「何をするつもりだ」
「礼を言いに行きます」
「礼?」
「昨年、北方で兵を凍えさせず、馬を潰さずに済んだ。その計画を書いた者に、北方騎士団はまだ礼を言っていない」
王太子付きの侍従が、息を止めた。
文官庁の書記官たちは、誰も顔を上げられなかった。
ユリウスは帳簿を閉じる。
「それから、正式に依頼をします。王宮が不要とした仕事を、北方は必要としていますので」
殿下は、しばらく黙っていた。
だが第三補給便はまだ出ていない。
北方辺境公の保証印がなければ、今朝の失態はそのまま王宮の責任になる。
先に折れたのは、バルツァー卿だった。
「ローデン伯爵邸です」
殿下が睨む。
文官長は声を落とした。
「昨夜、戻られたはずです」
ユリウスは軽く頷いた。
「第三便を出せ。必要な写しを取る」
「閣下、原本は」
「文官庁に残せ。なくしたと言われては困る」
バルツァー卿は口を閉じた。
王宮を出る前に、ユリウスは青い紐の帳簿を閉じた。
必要な写しだけを騎士へ渡し、原本は文官庁の机に戻させる。
「ローデン伯爵邸へ向かう」
その声に、誰も異を唱えなかった。
ローデン伯爵邸に北方辺境公の馬車が着いたのは、昼前だった。
門番は来客の名を聞いた途端、顔色を変えた。玄関に出てきた家令も、何度も頭を下げるばかりで、応接室へ案内するまでに二度同じ廊下を曲がりかけた。
私は客間の窓辺にいた。
王宮からの使者が帰ってから、まだ一刻も経っていない。今日はこれ以上、何も起きないと思っていた。
侍女が扉の前で足を止める。
「お嬢様。北方辺境公、ノルデン閣下がご面会を求めておいでです」
その名は、書類の上で何度も見た。
北方騎士団総帥。
国境防衛責任者。
冬越し補給の最終受領者。
けれど、直接顔を合わせたことはない。
「私に、ですか」
「はい」
侍女は戸惑ったように頷いた。
「エリシア・ローデン様に、と」
応接室に入ると、濃紺の外套を脱いだ男性が立っていた。
背が高い。
王宮の貴族たちのように飾り立ててはいない。黒に近い銀髪を後ろで束ね、袖口には雪で濡れた跡が残っている。けれど立ち姿は乱れておらず、部屋の中でただ一人だけ、外の寒さを連れてきたように見えた。
彼は私を見ると、先に礼をした。
深く、正確な礼だった。
「エリシア・ローデン嬢」
「はい」
「北方辺境公、ユリウス・ヴァン・ノルデンです」
名乗られる前から分かっていたはずなのに、先に礼をされたことに、少しだけ呼吸が遅れた。
彼は顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「昨年の冬越し補給計画について、北方騎士団を代表して礼を申し上げます」
私は、すぐに返事ができなかった。
礼。
その言葉が、自分に向けられたものだと理解するまでに、一拍遅れた。
「私は、命じられた仕事をしただけです」
「命じられただけでは、あの計画にはなりません」
ユリウスは静かに言った。
「馬の脚を潰さず、兵を飢えさせず、王都の会計院に差し戻させない。三つを同時に満たしていた。あれで北方は助かりました」
返事をするまでに、一拍かかった。
王宮では、その計画はいつも書類の束だった。
厚すぎる。細かすぎる。
そう言われるものだった。
「本日、第三補給便はノルデン家の臨時保証で出しました」
「出たのですか」
思わず聞き返していた。
ユリウスの目が、ほんの少し和らぐ。
「はい。遅れましたが、まだ峠には間に合います」
「よかった」
言ってから、私は口を閉じた。
それは、もう私の仕事ではないはずだった。
ユリウスは、その一言を責めなかった。
「ローデン嬢。正式な依頼として伺います」
彼は一枚の書状を差し出した。
封は閉じられていない。表には、ノルデン家の紋章が押されている。
「北方騎士団の冬越し補給について、計画の確認と修正を依頼したい。責任はノルデン家が負います。あなたが王宮に戻る必要はありません」
「王宮に、戻らない」
「はい」
彼の声は変わらなかった。
「あなたの知識だけを都合よく借りるつもりはありません。必要な権限と報酬を明記します。断る権利も、もちろんあります」
私は差し出された書状を見た。
そこには、私の名が書かれていた。
エリシア・ローデン嬢。
王太子の婚約者でも、未来の王妃候補でもない。
罪を申し渡された女でもない。
ただ、私の名前だった。
けれど、私はすぐには受け取らなかった。
「確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「この依頼は、王宮を通したものではありませんか」
「違います。ノルデン家からの正式依頼です」
「私が確認した内容について、王宮側が後から責任を求めることは」
「ありません。責任は依頼者である私が負います。必要なら、書面に追記します」
私は書状の封蝋を見た。
ノルデン家の紋章。
王宮の印ではない。
「報酬と権限の範囲は」
「書状に明記しました。足りなければ、その場で直します」
そこで初めて、私は書状を受け取った。
紙は厚く、指先に冷たかった。
ユリウスは言った。
「北方は、あなたの仕事を必要としています」




