第2話 王宮が止まっても、私はもう戻れません
翌朝、私はローデン伯爵家の客間で目を覚ました。
婚約者として王宮に部屋を与えられてから、ここで眠るのは久しぶりだった。壁紙も寝台も昔のままなのに、窓辺の小卓だけが新しくなっている。私が使っていた机は、いつの間にか別の部屋へ移されたらしい。
左手の薬指には、昨日外した指輪の跡がまだ残っていた。
軽く曲げる。
何も嵌まっていないのに、そこだけ少し重い。
身支度を終えるころ、侍女が封書を運んできた。
「王宮より、お届け物でございます」
白い封筒には、文官庁の印が押されている。
中に入っていたのは、私が夜明け前に返納した帳簿類の受領書だった。
王宮預かり帳簿一式。
契約控え一式。
補給関連書類一式。
認可印箱副鍵。
記録室および保管庫副鍵。
受領者の欄には、バルツァー文官長の名があった。
これで、本当に終わった。
そう思ったはずなのに、視線は窓の外へ向いていた。冬前の空は薄く白い。
第三補給便は、もう王都倉庫を出ただろうか。
そこまで考えて、私は手を止めた。
違う。
もう、私が数えることではない。
今朝の刻限に出せなければ、雪の前に峠を越えられない。北方の馬は冬に弱い。粗悪な干し草を混ぜれば、まず脚を悪くする。脚を悪くした馬は、春まで使えない。
思い出すことはできる。
戻すことは、できない。
受領書を封筒へ戻したとき、玄関の方が騒がしくなった。
馬のいななき。
硬い靴音。
門番の押し殺した声。
侍女が客間の扉を開ける。
「お嬢様。王宮より、使いの方が」
「どなたですか」
「文官庁の書記官様です。お急ぎのご様子で」
王宮からの使者が来るには、早すぎる。
受領書が届いてから、まだ半刻も経っていない。
応接室へ向かうと、そこには若い書記官が立っていた。見覚えのある顔だった。北方分の写しを取りに、何度か私の部屋へ来たことがある。
上着の肩には、朝露が黒く残っていた。髪は乱れ、袖口にインクがついている。礼を取ろうとして、彼は一瞬、どちらの足を引くべきか迷った。
王宮の書記官としてか。
昨日まで王太子の婚約者だった令嬢に対してか。
それとも、今はもうどちらでもない女に対してか。
「ローデン嬢」
彼は深く頭を下げた。
「朝早くに失礼いたします」
「ご用件を」
「北方騎士団の第三補給便について、確認したいことがございます」
やはり。
私は窓の外を見なかった。
「帳簿類は、今朝までにすべて王宮へ返納しました。受領書もいただいています」
「承知しております。ですが、追加飼料契約の照合欄が空いておりまして」
「会計院の北方支出枠、王都倉庫の在庫推移、昨年分の飼料差額を見れば分かります」
言ってから、私は口を閉じた。
書記官の顔が、かすかに明るくなる。
その変化が見えたからこそ、私は続けた。
「今のは、私が昨日まで知っていた一般的な手順です。今日の王宮で、どの書類が有効かは存じません」
「ですが、その三つを見れば」
「私には確認する権限がありません」
書記官は唇を噛んだ。
まだ若い。責任者ではない。おそらく、文官長に言われて走らされたのだろう。
「ローデン嬢、手順だけでもお教えいただけませんか」
「正式な命令書はお持ちですか」
「いえ」
「王太子殿下、王妃陛下、あるいは文官長の署名入りの依頼状は」
「ございません。ただ、急ぎでして」
「では、お答えできません」
書記官の指が、帽子の縁を握った。
「北方の使者が王宮で待っています。第三補給便は、今朝出なければ峠に間に合わないと」
「そうでしょうね」
自分でも、声が少し冷たく聞こえた。
けれど、ここで声を柔らかくしても、何も変わらない。
「分かっておられるなら、なぜ」
「私が口を出せば、今度は越権です。昨日、殿下はそれを私の罪のひとつになさいました」
書記官は何も言わなかった。
廊下の向こうで、ローデン家の侍女が息をひそめている気配がした。
「王宮予算を私的に動かした。未来の王妃にあるまじき振る舞いをした。そう言われた者が、翌朝になって王宮の補給書類に口を出せば、どう記録されますか」
「それは……」
「誰かが失敗したとき、私の名がまた使われます」
書記官の顔から、血の気が引いた。
その可能性に、いま気づいたのだろう。
「私は、書類も鍵も返しました。王宮への出入りも禁じられました。殿下は、文官の皆様で済むとおっしゃいました」
「ですが、済んでおりません」
その言葉は、ほとんど息のようだった。
私は、机の端に置かれた封筒を見た。
王宮の印は、もう閉じられている。
「ローデン嬢」
書記官は、もう一度頭を下げた。
「では、正式な命令書があれば」
「少なくとも、誰の責任で何を尋ねるのかが書かれていなければ、私は答えられません」
「分かりました」
書記官はうなずいたが、帽子の縁を握る指は緩まなかった。
「急ぐのであれば、文官長にお伝えください。北方分は、慈善事業費より先です」
書記官が顔を上げた。
「慈善事業費の件も、ご存じなのですか」
「昨日、差し戻しました」
「それも、今朝から」
彼は言葉を切った。
「失礼いたしました」
書記官は礼をして、応接室を出ていった。
玄関先で馬が動く音がする。蹄の音は、すぐに遠ざかっていった。
私は応接室に一人残された。
北方分は、慈善事業費より先。
卓上の花瓶には、季節外れの白い花が挿してある。水は替えられていたが、花弁の端が少しだけ透けている。
同じころ、王宮の文官庁では、三つの木箱が開かれていた。
バルツァー文官長の机の上には、青い紐で綴じられた帳簿が広がっている。追加飼料契約の控え、王都倉庫の在庫推移表、北方支出枠の照合表。
紙はある。
印もある。
鍵も戻っている。
だが、どの順で開き、どの数字を照合し、どの欄に誰の名を入れれば、会計院と倉庫番が荷を出すのか。
それを分かっている者がいなかった。
「文官長、ローデン嬢は」
戻ってきた書記官の声は、廊下からでも分かるほどかすれていた。
「正式な命令書がなければ、お答えできないと」
「何を偉そうに」
バルツァー卿は吐き捨てた。
「北方の使者は」
「まだお待ちです。第三補給便の出立刻限は、すでに過ぎています」
部屋の隅に立っていた北方騎士団の伝令が、一歩前に出た。
外套の肩には霜が残り、革手袋の先は白く乾いている。夜通し馬を走らせてきた者の顔だった。
「認可書をいただきたい」
「今、準備している」
「峠が閉じます」
短い言葉だった。
「今日出なければ、第三便は越えられません」
バルツァー卿の頬が赤くなる。
「緊急時なら、現地裁量で補えるはずだ」
「できないから、王都から送るのです」
誰も口を挟まなかった。
その沈黙の中へ、王太子付きの侍従が駆け込んできた。
「文官長。殿下がお呼びです」
「今は手が離せん」
「ミレーヌ様の慈善事業費について、会計院から差し戻しが来ております。殿下は、なぜ昨夜のうちに処理されていないのかと」
バルツァー卿は机の上の紙束を見た。
孤児院冬布代。
数量空白。単価過大。納入業者に利益相反の疑い。
エリシアの小さな字が、そこに残っている。
「殿下に申し上げろ」
バルツァー卿は言った。
「北方分を先に処理する。慈善事業費は後だ」
「ですが、殿下はミレーヌ様がひどく心を痛めていると」
「北方の馬が飢えるよりはいい」
言ってから、彼は自分の失言に気づいた。
伝令が、はっきりと顔を上げる。
「今、何とおっしゃいましたか」
「違う。言葉のあやだ」
「馬が飢える可能性があると、文官長は把握しておられるのですね」
「そういう意味ではない」
扉の外が騒がしくなった。
重い靴音が、廊下をまっすぐ近づいてくる。文官庁の者たちの足音ではない。金具の鳴る音が混じっていた。
侍従が青ざめた顔で振り返る。
「文官長」
「今度は何だ」
「北方辺境公が、王宮に到着なさいました」
部屋の空気が止まった。
侍従は一度唾を飲み、続けた。
「第三補給便について、直ちに責任者を出せと」
バルツァー卿は答えられなかった。
机の上では、青い紐で綴じられた帳簿が、朝の光を受けて静かに開いていた。




