第1話 婚約破棄されたので、預かっていた帳簿を返納します
「エリシア・ローデン。お前との婚約を、今日この場で破棄する」
王太子アレクシス殿下の声が、大広間の天井に跳ねた。
楽団の弓が止まる。
銀盆を持った給仕が、壁際で足を止める。
今しがたまで談笑していた貴族たちの視線が、ひとつ残らず私へ向いた。
殿下の隣には、聖女候補のミレーヌ様がいた。
白いドレスの胸元に両手を重ね、いかにも震えているように見える。けれど、こちらを見る目だけは濡れていなかった。
「お前はミレーヌに嫌がらせをした。彼女の慈善事業を妨げ、王宮予算を私的に動かし、未来の王妃にあるまじき振る舞いを重ねた」
慈善事業。
その言葉で、昨日差し戻した申請書の数字が浮かんだ。
孤児院の冬布代として上がっていた額は、相場の三倍。納入業者はミレーヌ様の後見人が抱える商会。添えられていた見積書には、数量の欄だけが空白だった。
私はその書類を、今朝、文官長バルツァー卿の机に置いた。
「申し開きはあるか」
殿下は、私に弁明を許したつもりなのだろう。
昨日、北方騎士団の補給許可書に署名したときと同じ顔だった。中身は読まず、自分の名が書かれる場所だけを確認していた顔。
「ございません」
小さな波のように、広間がざわめいた。
殿下の口元が、わずかに緩む。
「認めるのだな」
「いいえ」
私は膝を折り、一礼した。
「殿下が私を不要と判断なさったことを、承知いたしました」
笑みは、そこで止まった。
ミレーヌ様が殿下の袖をきゅっと握る。
「アレクシス様、怖いです。エリシア様はいつもそうやって、何も感じていないようなお顔で……」
「案ずるな、ミレーヌ。今日で終わりだ」
殿下は彼女を庇うように一歩前へ出た。
その仕草に、何人かの令嬢がうっとりと息を漏らす。美しい場面に見えたのだろう。可憐な聖女候補を守る、若き王太子。そこに置かれた悪役は、地味な灰青のドレスを着た私だった。
「エリシア、お前は昔から可愛げがなかった。婚約者でありながら、夜会では帳簿の話ばかり。茶会では税の話。ミレーヌのように人を和ませることもできない」
「その点については、申し訳なく存じます」
「謝って済む段階は過ぎた。お前はローデン伯爵家へ戻れ。追って正式な破棄状を送る。王宮への出入りも、今夜限り禁ずる」
今夜限り。
その言葉を聞いて、私は初めて殿下の後ろを見た。
王妃陛下はいない。けれど、バルツァー文官長は柱のそばに立っていた。手には葡萄酒の杯。目が合うと、彼は気まずそうに視線を逸らした。
やはり、知っていたのだ。
少なくとも、今夜この場で何が起きるかは。
「承知いたしました」
私はもう一度、深く礼をした。
「では、王宮よりお預かりしていたものを返納いたします」
「預かっていたもの?」
殿下が眉をひそめる。
「婚約者として、また王妃教育の一環として、私に管理を命じられていた書類と権限です」
私は袖口から、小さな銀の鍵束を取り出した。
鍵が触れ合い、細い音を立てる。広間の空気が、ほんの少し変わった。
「東棟記録室、第三書庫、補給契約控えの保管庫、認可印箱の副鍵。以上はこの場で王宮へお返しいたします」
バルツァー卿の手元で、杯がわずかに傾いた。
赤い葡萄酒が、指にかかったのが見えた。
「また、私室に保管している帳簿類は、明朝までに封をして王宮へ返納いたします。北方騎士団の冬越し補給計画、軍馬飼料の三年契約控え、各地の租税照合表、王都倉庫の在庫推移表、港湾関税の未照合分、騎士団給与の修正台帳」
言いながら、私はひとつずつ頭の中で棚を閉じていった。
三段目の左端。青い紐で綴じた北方分。
机の下段。未署名の追加飼料契約。
文箱の底。王太子殿下の署名漏れを補うための差し戻し一覧。
もう、私の仕事ではない。
「待て」
声を上げたのは、バルツァー卿だった。
殿下が振り向く。
「何だ、文官長」
「いえ、その……ローデン嬢。帳簿の返納はよいとして、引き継ぎには多少の時間が必要では」
「私は今夜限りで王宮への出入りを禁じられました」
「それは、殿下も言葉のあやで――」
「文官長」
殿下の声が低くなる。
「必要な引き継ぎは済んでいると、お前から聞いている」
バルツァー卿は口を閉ざした。
その沈黙だけで、十分だった。
殿下は私の仕事を知らない。
文官長は知っている。
そして、知っている人ほど、この場では黙る。
「エリシア」
殿下は吐き捨てるように言った。
「最後まで書類の話か。お前は本当に、場というものを弁えない女だな」
「申し訳ございません」
「そんなものは文官たちにやらせれば済む。お前ひとりが消えたところで、王宮は少しも困らない」
ミレーヌ様が小さく頷いた。
「そうですわ。エリシア様は、いつも難しい言葉で皆様を困らせていただけですもの」
彼女の声は柔らかかった。
柔らかい声で、人はずいぶん硬いものを投げられる。
「ミレーヌ様」
私は彼女へ向き直った。
「慈善事業の申請書について、ひとつだけ」
ミレーヌ様の肩が跳ねた。
殿下が即座に割って入る。
「まだミレーヌを責めるつもりか」
「いいえ。孤児院へ冬布を届けるのであれば、今月中に再申請なさってください。今の見積もりでは、会計院を通りません」
広間のどこかで、誰かが息を止めた。
ミレーヌ様は唇を開き、何も言わなかった。
殿下の顔が赤くなる。
「この期に及んで、まだそのような嫌味を」
「必要な手続きです」
「黙れ」
短い言葉だった。
私は口を閉じた。
怒鳴られたことより、途中で止まった申請書の方が先に浮かんだ。あのままでは孤児院に布は届かない。届くとしても、質の悪い薄布が数を偽って納められるだろう。
だが、それを正す権限はもう返す。
「エリシア・ローデン。今すぐこの場を去れ」
「かしこまりました」
鍵束を近くの侍従へ渡すと、彼は困ったように私と殿下を見比べた。
「受け取りなさい」
私が言うと、侍従は両手で鍵を受け取った。
その手が少し震えている。
私は左手の薬指から、王太子の婚約者に与えられていた指輪を外した。
思ったより、抜けにくかった。
長く嵌めていたせいで、皮膚に薄い跡が残っている。外したいと思ったことは、たぶん一度もなかった。それでも、外れた。
指輪を銀盆に置く。
乾いた音がした。
「これまでのご厚情に感謝申し上げます」
「二度と私の前に姿を見せるな」
「はい」
ミレーヌ様が殿下の腕に身を寄せる。周囲の貴族たちは、もう私ではなく二人を見ていた。物語の結末を見届けるような顔で。
私は背を向けた。
大広間の扉までの距離は、思っていたより長かった。
歩きながら、頭の中で明日の予定を消していく。
早朝、北方便の使者へ追加飼料契約の写しを渡す予定だった。あれが出なければ、第三補給便は王都の倉で止まる。雪の前に峠を越えられる、最後の荷だった。
昼前、王都倉庫の在庫差異について会計院と照合。
午後、第三騎士団の給与修正。
夕刻、港湾関税の未処理分をバルツァー卿へ提出。
どれも、もう私の手を離れた。
扉の前で、老侍従が私を見た。
王妃教育の初日から王宮にいる人だった。
彼は何か言いかけて、結局、深く頭を下げた。
私はそれに礼を返し、大広間を出た。
廊下は静かだった。
奥の窓から、冬前の冷えた風が入ってくる。王宮の灯りは明るく、磨かれた床には私の影が細く伸びていた。
胸元が少し軽い。
指輪がなくなったせいかもしれない。
あるいは、鍵束を手放したせいかもしれない。
王宮の外へ出る前に、私は一度だけ振り返った。
扉の向こうから、楽団の音が戻ってくる。婚約破棄の余興が済み、夜会は続くらしい。
殿下はまだ、北方の冬が帳簿の上で始まっていることを知らない。
それを教える役目も、もう私のものではなかった。




