第15話 戻せば済む話ではありません
慈善事業妨害。
根拠不十分。
会計上の差し戻しとして処理。
罪状としては保留。
記録官がその行を書き終えたあと、王太子アレクシス殿下は、しばらく席を立てなかった。
ミレーヌ様は、侍女に支えられて部屋を出ていった。白い肩掛けの端が、扉の向こうへ消える。
残ったのは、王妃陛下と記録官。
バルツァー卿。
そして、会計院の差し戻し通知。
赤い印が、まだ乾ききっていなかった。
「母上」
殿下は、ようやく口を開いた。
「このままでは、ミレーヌの名誉が」
「名誉の話は、今していません」
王妃陛下は、書類から目を離さずに答えた。
「では、エリシアはどうなるのです」
そこで初めて、王妃陛下の視線が息子へ向いた。
「どうなる、とは」
「罪状が保留なら、正式に呼び戻して説明を求めればよいのではありませんか。北方補給も、慈善事業費も、結局エリシアが見ていたのでしょう」
バルツァー卿が小さく息を呑んだ。
殿下はそれに気づかなかった。
「なら、彼女を王宮に戻せば済む話です」
王妃陛下は、すぐには答えなかった。
殿下の言葉だけが、部屋に残った。
「戻す、とは」
王妃陛下は静かに尋ねた。
「婚約者としてですか。罪人としてですか。職務者としてですか。それとも、証人としてですか」
殿下の口が止まる。
「それは、状況に応じて」
「状況ではなく、記録です」
記録官の筆先が、紙の上で止まっていた。
王妃陛下は続ける。
「王宮は、ローデン嬢との婚約破棄状をまだ出していません。罪状書もありません。出入り禁止処分通知もありません。一方で、彼女はノルデン家との契約に基づき、北方補給臨時顧問として職務に就いています」
殿下は顔をしかめた。
「母上は、私の命令よりノルデン家の契約を重く見るのですか」
「命令は、宛先と権限があって初めて命令です」
王妃陛下は、会計院の差し戻し通知を閉じた。
「感情で書いた紙を、命令書とは呼びません」
その言葉に、殿下は返事をしなかった。
だが、納得した顔でもなかった。
王妃陛下が退出したあと、アレクシス殿下は自室へ戻った。
扉が閉まると同時に、彼は侍従長へ命じた。
「紙を」
侍従長は一瞬、動きを止めた。
「殿下」
「紙を持ってこい」
「ローデン嬢に関する書状は、王妃府を通すようにとの」
「私は王太子だ」
その声は低かった。
侍従長は深く頭を下げ、書記用の紙を机に置いた。
殿下は自らペンを取る。
王太子命令書。
その表題を書いたところで、少しだけ手が止まった。
それから、続ける。
エリシア・ローデンへ。
北方補給および王宮内帳簿の確認のため、直ちに王宮へ出頭せよ。
過去の職務に関する説明を求める。
なお、王宮への出入りは本命令に限り許可する。
侍従長は、横から文面を見て顔を曇らせた。
「殿下、宛先が」
「何だ」
「現在、ローデン嬢は北方辺境公家の臨時顧問です。北方補給に関する照会であれば、ノルデン家宛てに」
「これは王宮内帳簿の確認だ」
「それでしたら、文官庁または王妃府から正式照会として出すべきかと」
殿下のペン先が、紙の上で強く止まった。
「また王妃府か」
侍従長は口を閉じた。
殿下は王太子印を押した。
「出せ」
「どちらへ」
「ローデン伯爵家へ」
「ローデン嬢は、北方本城においでです」
「なら、北方へ送れ」
侍従長は顔を上げた。
「王妃府を通さず、でございますか」
「王太子命令書だ」
それ以上、侍従長は言わなかった。
言わなかったが、控えを一部取った。
王太子付き侍従室発送記録。
宛先、エリシア・ローデン。
送付先、北方辺境公家。
件名、王宮出頭命令。
王妃府確認、なし。
最後の一行を書くとき、侍従長の手は少しだけ遅れた。
北方本城にその書状が届いたのは、三日後の午後だった。
補給室では、黒松見張所と北尾根信号小屋の整理表に、追加資料を添えているところだった。
クラウス様が封筒を持って入ってくる。
「ローデン顧問。王宮より書状です」
私は顔を上げた。
「王妃府からですか」
「いいえ」
クラウス様の声が、少しだけ硬い。
「王太子付き侍従室からです。宛先は、エリシア・ローデン様個人」
補給室の紙の音が止まった。
ユリウス閣下が、机の向こうから手を伸ばす。
「確認します」
封筒の表を見て、彼の眉がわずかに動いた。
「王妃府印がありません」
「件名は」
クラウス様が読む。
「王宮出頭命令」
私は、ペンを置いた。
命令。
その言葉は、王宮にいたころなら、ただ従うべきものだった。
けれど今は、まず見るべきところがある。
「受付記録をお願いします」
クラウス様はすぐに書板を開いた。
「差出人、王太子付き侍従室。宛先、エリシア・ローデン個人。送付先、北方辺境公家。王妃府確認印なし。会計院連名なし。文官庁連名なし」
「開封は」
ユリウス閣下が私を見る。
「ノルデン家に届いた以上、閣下の判断でお願いします」
「では、開封します」
封が切られる。
文面は短かった。
王太子命令書。
エリシア・ローデンへ。
北方補給および王宮内帳簿の確認のため、直ちに王宮へ出頭せよ。
過去の職務に関する説明を求める。
なお、王宮への出入りは本命令に限り許可する。
私は最後まで読んだ。
読み終えても、何も言わなかった。
マルク副長が低く言う。
「これは、命令書なのですか」
「表題はそうなっています」
私が答えると、彼は少しだけ顔をしかめた。
「中身は」
私はもう一度、文面を見る。
宛先。
エリシア・ローデン個人。
送付先。
北方辺境公家。
命令者。
王太子アレクシス。
回答責任者。
記載なし。
出頭の職務上の根拠。
記載なし。
ノルデン家との契約に関する扱い。
記載なし。
王妃府の確認。
なし。
王宮出入り禁止処分との関係。
本命令に限り許可。
私はそこで手を止めた。
「受けられません」
ユリウス閣下が頷く。
「理由は」
「第一に、北方補給に関する照会であるなら、宛先が違います。私はノルデン家との契約に基づいて作業しています」
クラウス様が書き取る。
「第二に、王宮内帳簿の確認であるなら、王妃府または文官庁の正式照会が必要です。回答責任者も記載されていません」
「第三は」
「王宮への出入り禁止処分が正式記録として未整理のままです。本命令に限り許可、とありますが、元の処分記録がありません。解除でも一時許可でも、どちらの記録にもできません」
マルク副長が、ぽつりと言った。
「ないものを、一時的に許可することはできない」
「はい」
私は頷いた。
「第四に」
言いかけて、少しだけ迷った。
これは補給の問題ではない。
けれど、書かなければまた同じことが起きる。
「婚約破棄状、罪状書、処分通知が未送付のまま、過去の職務説明だけを求めています。私は、どの立場で出頭するのか判断できません」
クラウス様の筆が止まった。
ユリウス閣下は、静かに私を見ていた。
「それも書きましょう」
「よろしいのですか」
「必要です」
彼は言った。
「命令に従えない理由です」
私は頷いた。
「では、返戻文を作ります」
返戻。
その言葉は、以前なら冷たいものだと思っていた。
けれど、今は違う。
通らない紙を通さないことも、必要な仕事だった。
私は文面を整えた。
王太子付き侍従室御中。
貴室より送付された王太子命令書について、以下の理由により、北方辺境公家では未受理として返戻いたします。
一、当該書状はエリシア・ローデン個人宛てであるが、北方補給に関する照会は、同人の契約先である北方辺境公家宛てとすべきこと。
二、王宮内帳簿に関する説明を求める場合、王妃府または文官庁の正式照会として、回答責任者、照会範囲、回答期限を明記すべきこと。
三、王宮出入り禁止処分の正式記録が未整理であるため、「本命令に限り許可」の前提が確認できないこと。
四、婚約破棄状、罪状書、処分通知が未送付の状態で、同人をいかなる立場として出頭させるのか不明であること。
以上により、本書状は命令書として受理できません。
必要な照会は、王妃府、文官庁、会計院、または正式な責任者を明記したうえで、北方辺境公家宛てに送付ください。
私は最後に、控え番号を書いた。
ノルデン家受付簿。
王太子付き侍従室書状。
未受理返戻。
ユリウス閣下は文面を読んだ。
「このまま返します」
「はい」
「写しを王妃府へ」
私は顔を上げた。
「王妃府へも、ですか」
「王妃陛下は、直接照会を禁じていました」
閣下は短く言った。
「禁じられたものが届いた以上、記録を戻すべきです」
クラウス様が封筒を二つ用意する。
一つは、王太子付き侍従室へ。
もう一つは、王妃府記録官へ。
私は返戻文の控えを見た。
戻れ、ではなく。
出頭せよ、でもなく。
まず、どの立場で呼ぶのかを書いてください。
それだけのことだった。
王妃府に写しが届いたのは、王太子付き侍従室へ返戻が戻るより早かった。
記録官は封を開き、文面を読み、すぐに王妃陛下の執務室へ向かった。
王妃陛下は、庭の雪を見ていた。
「何です」
「北方辺境公家より、王太子付き侍従室書状の返戻写しです」
王妃陛下は、ゆっくり振り返った。
「王太子付き」
「はい。ローデン嬢個人宛ての王宮出頭命令です。王妃府確認印はありません」
王妃陛下は、文面を受け取った。
最後まで表情を変えずに読んだ。
「侍従長を呼びなさい」
「王太子殿下は」
「あとで」
王妃陛下は言った。
「まず、誰が発送したのかを記録で確認します」
王太子付き侍従長は、すぐに呼ばれた。
彼は入室すると同時に深く頭を下げた。
「王妃陛下」
「この書状を発送しましたね」
「はい」
「王妃府を通すよう指示していたはずです」
侍従長の額に汗が浮かぶ。
「殿下のご命令でございました」
「その記録は」
「発送記録に」
「見せなさい」
侍従長は、持参していた控えを差し出した。
王太子付き侍従室発送記録。
王宮出頭命令。
宛先、エリシア・ローデン。
送付先、北方辺境公家。
王妃府確認、なし。
王妃陛下は最後の一行で目を止めた。
「あなたは、王妃府確認なしと記録したうえで発送したのですね」
侍従長は答えられなかった。
「殿下のご命令で」
「命令に不備があるなら、止めるのも侍従長の職務です」
その声は荒くない。
しかし、侍従長の肩は小さく震えた。
「以後、ローデン嬢および北方補給に関する王太子付き書状は、王妃府記録官の確認なしに発送してはなりません」
「承知いたしました」
「すでに発送された控えを、すべて提出しなさい」
侍従長は、頭を下げたまま固まった。
「すべて、でございますか」
「すべてです」
王妃陛下は短く言った。
「直接書状が何通出たのか、確認します」
侍従長が退出したあと、ようやくアレクシス殿下が呼ばれた。
彼は、不機嫌を隠しきれていなかった。
「母上。私の命令書が返されたと聞きました」
「返される文面でした」
「王太子命令書です」
「表題はそうでした」
王妃陛下は机の上に返戻文を置いた。
「中身は、命令書ではありません」
殿下の顔が強張る。
「北方辺境公がそう言ったのですか」
「書いてあるのは、ローデン嬢の確認です」
「エリシアが」
殿下は、名前を呼ぶときだけ声が荒くなった。
「また、書類の理屈で拒んだのですか」
「理屈ではありません。手続きです」
「同じことです」
「違います」
王妃陛下は、初めてはっきりと遮った。
「理屈は言い逃れにも使えます。手続きは、責任の所在を示すものです」
殿下は返事をしなかった。
王妃陛下は、返戻文の四項目目を指した。
「あなたは、彼女をどの立場で呼んだのですか」
「元婚約者であり、過去の職務を知る者として」
「元婚約者という正式記録は、まだ整っていません」
殿下の唇が引き結ばれる。
「では、北方顧問として」
「それなら、宛先はノルデン家です」
「では、証人として」
「それなら、王妃府または会計院の照会です」
王妃陛下は、一つずつ、逃げ道を塞いだ。
「あなたの書状は、どれでもありません」
殿下は、しばらく黙っていた。
「王宮内帳簿の説明は、王宮が求めるべきものです。ノルデン家を通す必要はないはずです」
「ならば、文官庁名で照会しなさい」
王妃陛下はすぐに返した。
「王太子付き侍従室から、個人宛てに出すものではありません」
殿下は返事に詰まった。
それから低く言う。
「母上は、私を信用していないのですか」
「今回の書状については、信用できません」
答えは早かった。
アレクシス殿下は、まるで叩かれたような顔をした。
王妃陛下は続ける。
「あなたが誰を好み、誰を嫌うかは、ここでは問題ではありません。王太子として命令書を出すなら、命令書の形にしなさい」
「私は」
「できないなら、出してはなりません」
記録官が入室したのは、その直後だった。
「王妃陛下」
「何です」
「王太子付き侍従室から、過去の直接書状控えが届きました」
王妃陛下は受け取る。
一通目。
王宮出頭要求。
宛先、ローデン伯爵家。
件名なし。
二通目。
北方補給に関する至急確認。
宛先、エリシア・ローデン。
責任者なし。
三通目。
今回の王太子命令書。
すべて、王妃府を通っていない。
王妃陛下は、三枚を重ねた。
「記録官」
「はい」
「王太子付き侍従室によるローデン嬢関連書状について、発送停止措置を記録しなさい」
アレクシス殿下が顔を上げた。
「発送停止?」
「王妃府確認なしの書状についてです」
「私の書状を止めるのですか」
「不備のある書状を止めます」
王妃陛下はそう言った。
「必要な照会は、正しい宛先で出しなさい」
記録官が書き取る。
王太子付き侍従室。
ローデン嬢関連書状。
王妃府確認なしの発送を停止。
理由、宛先不適正および命令権限不明。
殿下は、その文字を見つめていた。
王太子の命令が、止められている。
感情ではない。
王妃の怒りでもない。
記録の上で、不備として止められている。
北方本城では、返戻文の控えが受付簿に綴じられた。
クラウス様が番号を書き込む。
王太子付き侍従室書状。
未受理返戻。
王妃府写し送付済み。
私はその一行を確認して、次の紙へ戻った。
黒松見張所。
北尾根信号小屋。
慈善事業費。
王妃府本人確認。
机の上には、まだ処理すべき紙がある。
けれど、王太子の命令書は、そこには混ざらなかった。
「ローデン顧問」
ユリウス閣下が言った。
「はい」
「戻る必要はありません」
私はペンを持ったまま、少しだけ顔を上げた。
「はい」
「戻る理由が、書かれていませんでしたから」
ユリウス閣下は、わずかに頷いた。
私は次の書類に目を落とした。
受付簿の端で、赤い印が乾いていく。
未受理。
その二文字は、王太子の命令を、初めて王宮の外で止めていた。




