第9話 フィンという名と光の涙(1.失われた午後の鐘篇)
忘却王
柳の木が揺れていた。
風は吹いていない。
それなのに。
何百もの鐘が激しく鳴っている。
ちりりりりりりん。
ちりりりりりりん。
悲鳴みたいな音だった。
柳の頂上。
そこに忘却王はいた。
巨大だった。
黒い影でできた体。
空を覆うほど大きな腕。
夜そのものみたいな姿。
そして胸には。
砕けた鐘。
大きな亀裂。
そこだけがぽっかり空いている。
「近づくな!」
名前を忘れた少年が叫ぶ。
「全部忘れられる!」
忘却王が動く。
ゆっくり。
だが山が歩くみたいだった。
どしん。
大地が揺れる。
どしん。
鐘が砕ける。
一つ。
また一つ。
谷の光が消えていく。
ぱっ。
ぱっ。
ぱっ。
空の星が消えるみたいに。
コットの勇気
コットは震えていた。
耳も尻尾も震えていた。
膝まで震えていた。
「怖い。」
正直に言った。
「うん。」
MYUも言う。
「帰りたい。」
「うん。」
「おうちでクッキー食べたい。」
「うん。」
コットはMYUを見た。
そして。
小さく笑った。
「でもさ。」
「うん。」
「MYUが行くなら僕も行く。」
MYUは驚いた。
コットはいつも陽気だった。
ふざけていた。
転んでいた。
おやつばかり考えていた。
でも今は違った。
MYUの隣に立っている。
ちゃんと。
友達として。
忘却王の声
忘却王が二人を見た。
黒い瞳。
底のない穴みたいな目。
そして。
話した。
「なぜ。」
声は遠雷だった。
「なぜ守る。」
鐘が鳴る。
ちりん。
忘却王の声が続く。
「忘れることは終わりではない。」
「眠りだ。」
「痛みの消失だ。」
「悲しみの消失だ。」
空の光がまた一つ消える。
「忘れれば苦しくない。」
MYUは黙っていた。
その言葉は少し分かったから。
悲しいこと。
嫌なこと。
忘れられたら楽だ。
本当に。
少しだけ。
羨ましい。
少年の涙
その時。
名前を忘れた少年が呟いた。
「違う。」
忘却王が止まる。
少年は震えていた。
「僕は全部忘れた。」
風が吹く。
「名前も。」
「家族も。」
「好きだったものも。」
「全部。」
少年は拳を握る。
「でも。」
声が震える。
「楽じゃなかった。」
MYUは見た。
少年の目から涙が落ちていた。
「何も残らなかった。」
ぽたり。
涙が光になる。
その瞬間だった。
少年の袋から、
一つの光が飛び出した。
金色。
暖かい光。
空へ舞い上がる。
そして。
少年の胸へ戻った。
名前
少年は固まった。
目を見開く。
「思い出した。」
MYUが息を呑む。
「なにを?」
少年は笑った。
今までで一番自然に。
「名前。」
光が少年を包む。
鐘が鳴る。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
「フィン。」
それが彼の名前だった。
忘れていた名前。
ずっと探していた名前。
影の獣が嬉しそうに鼻を鳴らした。
ふうん。
まるで。
「やっとか。」
と言っているみたいだった。
MYUの答え
忘却王が静かになる。
巨大な影。
動かない。
MYUは前へ出た。
赤いリストバンドを握る。
コットも同じように握る。
おそろいの赤いベルベット。
二人を繋ぐ証。
MYUは言った。
「忘れたいこともある。」
忘却王は見ている。
「悲しいことも。」
「寂しいことも。」
「怖いことも。」
少しだけ息を吸う。
そして続けた。
「でも。」
「楽しかったことまで忘れたくない。」
コットを見る。
コットも頷く。
「冒険したこと。」
「笑ったこと。」
「友達になったこと。」
「全部。」
鐘が光る。
一本。
また一本。
柳の木が輝き始める。
忘却王の胸の亀裂も。
淡く光り始めた。
本当の正体
忘却王は動かなかった。
ただ。
小さな声で言った。
「そうか。」
その声は。
もう怖くなかった。
寂しかった。
とても。
とても寂しかった。
「私は。」
巨大な影が揺れる。
「忘れられたかったのだ。」
誰にも。
何にも。
覚えられないほど。
苦しい記憶を抱えて。
永遠に。
眠りたかったのだ。
MYUは理解した。
忘却王は怪物じゃない。
忘れたい気持ちそのものだった。
(第9話・終わり)




