7.選択の日
成人の儀から半年後、エドゥアールの父が崩御したとの知らせが入った。エドゥアールは、葬儀のために一時帰国することとなった。
前も、同じことが起きた。成人の儀が終わって、正式な婚姻の準備を進めていた。しかしエドゥアールの父上が亡くなったことで慶事は先延ばしになった。そうして喪に服し終えた一年後、王太子の即位式の後に政変が起きたのだった。
「ど、どうしよう……」
リーゼは、いよいよその時が迫ってきたのだと焦りを募らせた。何より今、一時とはいえエドゥアールが国に帰る事そのものが恐ろしく感じる。リーゼは、いつになく強い不安に襲われていた。
——もしかしたら葬儀で国に帰ったことで、故国への思いが強くなってしまうのかも
——でもでも、お父様が亡くなってるんだから、引き留めるなんてできない……
「姫、リーゼ姫、聞いてますか?」
「あ、ご、ごめんなさい」
気もそぞろのリーゼだったが、今はエドゥアールと一緒に並んで宿題を見てもらっているのだった。仕方なさそうにエドゥアールがため息をつくが、リーゼはなかなか集中できない。
「あの、殿下、帰国の準備は……」
「もうできました。ほんの数日ですから、たいして準備もないので」
「そう、ですか……」
また戻ってきてくれるはずだ、と思う。だが、不安が際限なく大きくなる。
前の時、葬儀の後から王子は一層無口になり、うかない顔をすることが増えた。父上が亡くなったのだから、気落ちするのは当然だと思っていたが、もしかしたらもっと違う理由があったのかもしれない。だが何かあったかどうか、あの頃はうまく聞き出すことなんてできなかった。何を聞いてもエドゥアールは、あのすました顔で「大丈夫です」としか返してくれないのだ。そうするとリーゼはもう何も言えなくなった。
——そうだ、前のエドゥアールは本当に、笑わない人だった
今こうして隣にいる人とは大違いだ。エドゥアールは、目が合うだけでそっと口元を緩めるような柔らかい微笑みを向けてくれる。
前のエドゥアールが笑ったのは、後にも先にも、最期の瞬間だけだった——
「……っ」
全てを諦めた微笑みが、今のエドゥアールに重なる。ゾッとしてリーゼはペンを取り落とした。
「か、帰らないで……」
「え?」
「帰ってはだめです、殿下」
「えっと、ごめん、そういうわけには」
「だめなんです!」
リーゼは立ち上がった。だがなんと言えばいいかわからなかった。まだ大丈夫、あの日はまだ先だ。けれども、本当に? いまはかつての未来と違う。もう違う道を歩んでいる。もし、もしも……
「故郷のことは忘れて!! ここで私と暮らしましょう殿下!!!」
混乱する頭のままリーゼが言い放つ。しん、とした空気が二人の間に流れた。しまった、と思ってももう遅かった。
「……ええと、それは?」
エドゥアールが戸惑った声を出す。リーゼは消え入りたくなった。
「はぇ……な、なんでもないです……」
失敗した、大失敗もいいところだ。
落ち込んだリーゼは、宿題もそこそこにエドゥアールの離宮をあとにした。
結局、エドゥアールが出立する日もリーゼは見送りすらできなかった。いってらっしゃい、ということすら途方もなく怖かったのだ。
ベッドの上で、リーゼはただひたすらにメソメソしていた。
——このまま処刑の日まで一直線になったらどうしよう。もし、帰還命令がまた出たとして、エドゥアール殿下が帰ると言ったら……
もしまた同じ未来になったら、今度もまたリーゼは全力で群衆を押し退けていくしかない。
——もっとたくさん大声を出す練習をすればよかった。人を押し退けられるくらい体を鍛えればよかった。父上をもっと早く説得できるくらい賢くなれば……そのためにもお勉強をしっかりすればよかった……
エドゥアールと仲良くなることに全力を出しすぎて、なんの準備もしてこなかった。
——どうしよう、殿下がまた、帰ってしまったら
頭の中で、刃の落ちる音がこだまする。何度も。
「……っ!」
それを考えただけで、リーゼの目からは止めどなく涙が溢れた。
数日後、王子が帰還した。そう知らされてもリーゼは無邪気に会いに行けなかった。
エドゥアールの方から訪ねてきたのは、翌日になってからだった。
「姫さま?」
扉の向こうから声をかけられ、リーゼは慌ててベッドの陰に隠れた。会いたくない気持ちだったのだ。会って、エドゥアールが何か変わっていたらどうしよう。やっぱり故国は良かった、なんて言われたら、どうしたら。
侍女が戸を開けたのだろう、エドゥアールが入ってくる音がした。
「元気がないと聞きました」
「……」
リーゼは、座り込んだまま膝に顔を埋めた。
「……ねえ、俺、葬儀の間どこに寝泊まりしたと思います? 客間ですよ」
急に、エドゥアールは妙な話を始めた。リーゼは話が見えなくて、思わず顔を上げた。
「……?」
「俺はもう、あの国にとってはお客さんになってました。まぁ、もとより宮殿には俺の部屋なんてなかったんですけど」
「……」
リーゼはギュッと自分の膝を強く抱えた。エドゥアールは、いつでもこうしてあっさりとした口調で悲しいことを言い放つ。
「……それで、ここに戻ったら、いつもの部屋がちゃんとあって、なんだかほっとしました。散らかってて、本も出しっぱなしで、紙も、何枚も置きっぱなしでした。文鎮がなければ飛んでたかも」
「……っ」
「ゲーム盤、まだそのままにしてあるんです。次に続きからやりましょっていって、すっかり姫さまは忘れてらっしゃるから、片付けられなくて」
リーゼは、必死で嗚咽を堪えた。なのにエドゥアールの話す声は止まらない。柔らかな声が、ほんの少し笑いを含んでいた。
「俺の部屋、姫が下さったものでいっぱいで。知らないうちに、頑張って片付けなくちゃいけないくらい、物が溢れてましたよ」
どうしてこんなに、優しい声で話すんだろう。どうして。リーゼは、とうとう我慢できなくなってしまった。
「……殿下」
べそべそと泣いた顔のまま、リーゼはベッドの陰からのそのそと出てきた。猫の子を待つように、エドゥアールはしゃがんでいた。
エドゥアールは微笑んで、手を差し出した。
「戻りました、リーゼ姫」
その手を、リーゼは震えながら取った。今、喋ってもかっこ悪い涙声しか出ない。それでもリーゼは言いたかった。
「……おかえりなさい、エドゥアール殿下」
◇◇◇
エドゥアールが葬儀に出かけた日から、あっという間に一年が過ぎた。
政権の変わった隣国から、正式に王族の返還要求が届いたのは、数日前のことだ。今日はその回答期限だった。
エドゥアールは、リーゼの父と長く話しているようだった。いつまで経っても執務室から出てこないので、リーゼは心細くなってしまった。前の時は、もっとすぐに話し合いは終わっていた。今回は、どうしてなかなか出てこないのだろう。不安が、悪い方へ少しだけ心を傾ける。時計の針の音が気になって仕方ない。
部屋をうろうろしていたリーゼは、思い切って窓を開けた。
また夏の日が近づいている。窓から、リーゼを慰めるような柔らかな風が吹き込んだ。ほつれた髪が風に揺れる。リーゼの頭には、日差しを受けて金色に輝く髪飾りが、結った髪に沿うようにそっと挿してあった。それはエドゥアールから預かった、髪飾りだった。
ようやく戻ってきたエドゥアールは、リーゼの顔を見るなり口を開いた。
「陛下が、俺に『どうしたいか』と聞いてくださいました」
エドゥアールが、息を呑み立ち尽くすリーゼを見る。
「だから俺は、『帰るつもりはないです』と答えました」
あっさり軽い口調で告げたエドゥアールは、いつも通りすました顔だった。
「ただ継承権を放棄ってだけで、あんなに書類が必要なんですね。途中から手が痛くなりました。今日だけで一生分の署名をしましたよ」
「相続権も何もかも返上です。身一つになっちゃいました。まぁ、元々あそこに俺のものなんて一つもないからいいですけど」
「これって、俺の立場どうなっちゃうんでしょうね。姫さまとの婚約は和平のための礎だったのに。今やその意味も無くなってしまって」
「これからどうしよう。何か仕事とか、した方がいいんでしょうか」
つらつらと、珍しく多弁なエドゥアールが話し続ける。
リーゼは何か答えようとした。けれども、言葉よりも先に涙が溢れて止まらなくなってしまった。ぽたぽたと大粒の滴をこぼし続けるリーゼを前に、エドゥアールがわずかに目を見開く。大股で近寄ると、リーゼの手を取る。
「……そんなに、心配だった?」
焦りを浮かばせたエドゥアールに向かって、リーゼは何度も頷いた。エドゥアールは、困ったように眉根を寄せた。
「ごめん」
エドゥアールはリーゼの頬の涙をぎこちなく拭って、それから額にそっと唇を押し当てた。それでもリーゼの涙は止まらなかった。
「エドゥアール殿下……エドゥアールさま、お願いです、私とずっと一緒にいてください。もう離れないで」
リーゼはしゃくりあげながら言った。なりふりなんて構っていられなかった。
エドゥアールが、うん、と頷く。両手をとったまま、エドゥアールはリーゼの前に跪いた。
「リーゼ……何にも持ってない俺と、一緒に生きてくれる?」
「はい……はいっ! もちろんです!」
勢い込んだリーゼの返事に、エドゥアールはちょっとだけ吹き出して、それから、なによりも幸せそうに笑った。
それはずっとリーゼが見たかった笑顔だった。




