6.順調ということにした
「なんか最近、上手くいきすぎてる気がする」
リーゼは首を傾げた。ここ何日か、エドゥアールが、あまりに柔らかい目で見てくることが増えた。すまし顔はほとんど変わらないくせに、視線の温度だけがじわりじわりと上がっているような、そんな気がした。
「私をす、す、好きになってるってこと?! これって上手くいってるのよね? でもなんで……?」
失敗ばかりしている、なのに、なぜかうまくいっている。
リーゼは戸惑っていた。
リーゼの十五歳の誕生日は、すなわち成人を祝う日でもある。流石にこの日が近づくと、リーゼも行儀作法やダンスの練習で遊んでいられなくなった。エドゥアールと組んで踊るので、失敗はしたくなかったのだ。
この日、同伴役として現れたエドゥアールは、いつもとは違っていた。衣装は成人の儀に相応しい、控えめだがきちんと仕立てられた上質なものを身につけていた。髪型はすっきりと整えられ、額を出している。それだけで、エドゥアールはいつもよりもさらに大人に見えた。
——お、同い年、精神的には同い年……!
リーゼはどうにか自分に言い聞かせてみたが、なかなか難しそうだった。
「……お綺麗ですよ、リーゼ姫」
「は、はひ……」
エドゥアールは、着飾ったリーゼを見て柔らかく笑った。社交用の、完璧な微笑みだ。褒め言葉も、社交辞令らしからぬ甘い響きに聞こえて、リーゼは気が遠くなりそうだった。
あまりに気もそぞろになってしまったせいか、リーゼは大事な挨拶の口上が飛びかけてしまった。
——前の時は飛んじゃったんだから、それよりはマシ!
がっくりしながらも、リーゼはなんとか自分を慰める。けれど、父からの返答がリーゼにさらに追い打ちをかけた。
「……それから、よく勉学に励むように。頑張りなさい」
「は、はい……」
——またこれ! うぇぇん!
寿ぎの言葉の最後に付け加えられたのは、さりげないお小言だった。リーゼは内心で泣いた。
最初のダンスは、緊張のあまりとても優雅とは言い難い出来だった。だが、なんとか足を踏まずにこなせた。エドゥアールがうまくリードしてくれたおかげだ。
壁際に身を寄せ、リーゼはエドゥアールに礼を言った。
「助けてくれてありがとうございます。私、もう、緊張しちゃって……」
「そうみたいですね。でも、ステップは間違ってなかったですよ」
「本当ですか?」
よかったぁ、と胸を撫で下ろす。けれどリーゼは、すぐにしゅん、とした顔になった。
「また父上からお勉強のことを言われちゃいました……」
「お勉強、苦手なんですね」
「はい……」
リーゼは恥ずかしくなって俯いた。苦手な勉強も二回目の人生なら上手くいく、なんて訳はなかった。なんなら、エドゥアールにかまけまくっているせいで前より成績は良くない始末だ。
「作法や古典のお勉強だけでも大変だったのに、最近は歴史と文化の授業も増えて大変です……先生からはいつも良い顔をしてもらえないんです」
「今度、お手伝いしましょうか?」
「えっ、いいのですか?」
「はい、俺でよければ」
「とっても嬉しいです! 殿下はお勉強得意なんですね」
「……はい。他にすることもなかったので」
「……?」
エドゥアールが、少し暗い顔になった。リーゼは首を傾げ、それから明るく言った。
「殿下とご一緒できるなら、お勉強も頑張れそうです」
にこにこしたリーゼを、エドゥアールがじっと見つめた。透き通るような視線がリーゼに注がれる。リーゼは、次第に顔が赤くなっていくのを感じてまた俯いた。
ちょうど、音楽が途切れた。華麗に踊っていた人たちが互いに一礼する。二人も壁際から拍手を贈った。
一拍おいて、次は緩やかな音楽が始まる。
「……姫さま、この速さなら、慌てずに楽しく踊れるのでは?」
「あ……はい」
エドゥアールから、スッと手を差し出される。ごく自然な仕草に、リーゼは足元が浮くような気持ちになった。
確かに緩やかなリズムは、リーゼでも心配せずに踊れる……ダンス以外に、気が逸れても大丈夫だった。だから、エドゥアールと間近で手を取り合い、抱き寄せられているのだとリーゼは気がついてしまった。
「……」
意識した途端、心音が跳ね上がった気がした。
周りを見れば、皆楽しそうにお喋りしながら踊っている。くるん、と回りながら、リーゼはエドゥアールの腕をギュッと掴んだ。
見上げた横顔は、相変わらずのすまし顔だ。どうしてこんなにもいつも通りでいられるのだろう。こんなにも近いのに。こんなにも、触れ合っているのに。
リーゼは、ぼうっとエドゥアールを見上げた。
見られている、と気づいたのだろう。エドゥアールは、なぜか少し困った顔になった。ゆったりとしたワルツに合わせてくるり、くるりと二人で回る。合間にそっと顔を寄せたエドゥアールが、ひそめた声で囁いた。
「そんな顔されると、キスしたくなるので困ります」
「……?!」
リーゼはひゅ、と息を呑んだ。足がもつれそうになるのを、すんでのところでエドゥアールが助けてくれた。半ばしがみつくような格好で踊りながら、リーゼはパクパクと口を開け閉めした。それからすました顔でよそを向いているエドゥアールを、キッと見据えた。
——やられっぱなしじゃないところを見せてやるわ! 今こそ精神年齢十八歳の威厳!
「わ、わわわわ私っ、今日から大人ですからっ! どうぞ?!」
めちゃくちゃに噛んだ。威厳などかけらもなかった。
「……ふふ」
エドゥアールが可笑しそうに笑った。ダンスの隙に、ちょこん、とおでこにキスを落とされた。
「……もう! 揶揄わないでください!」
リーゼが頬も鼻も真っ赤にしたまま怒る。すると、またエドゥアールが困った顔になった。ゆらり、と音楽に合わせて揺れながら、じっとリーゼを見る。一度目を逸らして、それから細く震えるような吐息をこぼした。
そして、エドゥアールは突然立ち止まった。
音楽だけが、緩やかに周りを流れていく。
「……殿下?」
「……」
リーゼも同じく足を止める。ふんわりとドレスの裾が揺れて、リーゼの足元に舞い戻ってきた。
真面目な顔のエドゥアールが、ふ、と目を伏せた。睫毛が揺れるのが良く見える。弧を描く瞼の縁取りが、とても綺麗で羨ましい、とリーゼは思った。瞼が震え、エドゥアールの瞳が再び現れた。静かで深い夜空のような濃い色の瞳がリーゼを見つめる。透き通るような、まっすぐな視線で。リーゼは、まるで吸い込まれそうな気分になった。
エドゥアールがそっと身をかがめる。
「……!」
唇に、ふわりと温かいものが触れた。羽のように軽く、ささやかなキスだった。
音楽も、雑踏も、周りの何もかもが聴こえなくなった、気がした。
「……だから、困るって言ったのに」
エドゥアールの耳朶は、いつかのように薔薇よりも赤く染まっている。今日はしっかりと髪を上げているからよく見えた。
ぼんやりとエドゥアールを見上げていたリーゼは、ハッと気がついた。舞踏会の真ん中で止まってしまうなんて。
慌てて周りを見ると、妙にニマニマした笑顔で見守られていた。周りで踊る人たちも、楽団も、来賓も、母も兄上たちも姉上も。父だけは、複雑な、変な顔になっていた。そして隣に座る母から、肘で小突かれていた。
——は、恥ずかしい……!
先ほどよりもさらに顔を赤くして、リーゼはエドゥアールの腕をぎゅうっとつかむ。見上げると、エドゥアールも同じような顔をしてそっぽをむいていた。それからエドゥアールにぐい、と腕を引かれ、リーゼはダンスの輪の中から離れた。コソコソと壁際に逃げる背後で、まだ皆の生暖かい視線が追いかけてくるような気がしてならない。
ようやく壁に背を預けて二人同時に息を吐く。パッと顔を上げると目が合って、また二人同時にそっぽを向いた。
「……」
「……」
だけど離れがたくて、ダンスの時のように手を取り合ったまま、音楽が終わるまで隣に立っていた。




