エピローグとプロローグ 河野輝美②
大方の予想通り、いぶきは手のかからない子供だった。元々帰りの遅い父親を一人で待っていた子だけあって、一人の時間の過ごし方が上手かった。いぶきは最近の子にしてはテレビをよく見た。スマホやタブレットも持っていたが、どうやらテレビが好きらしい。どんな番組もよく見ていたが、特に下世話なバラエティを好み、声を上げてゲラゲラと笑っている姿をよく見かけた。芸人さんたちのジョークは、傷は癒してくれないが、後頭部をハンマーで頭を殴った時のように、頭をからっぽにしてくれる。笑っているいぶきは、そんなある意味「無の境地」に入って無為に時間を過ごしていた。
学校から帰ってきて、店が開いている時間、いぶきは約束通り給仕を買って出た。彼女のおままごとは、高齢者の多い店の客に好評だった。
旦那に対してもそうだが、いぶきが客の成人男性に対して嫌悪感や恐怖感を見せたことは一度もなかった。月に一度店にやってくる実の父親にも同様だった。私は内心、それはいぶきの意地のようなものではないかと疑っていた。彼女は自分が男性を怖がってはいないのだとアピールするため、積極的に男性と接する節があった。
私たちの歯車が少しづつ回りだしたのは、春美が入ってきてからだった。それまでの三人での生活も穏やかで悪くはなかった。ただその幸せにはセピア色の薄いベールがかかっていて、楽しく団欒していてもどこかに薄暗さをのぞかせた。それが春美の入ってきたその日から、電球に明かりが灯ったように、我が家は明るく色づいた。
春美は児童相談所時代によく見た、愛情に飢えた子供だった。人懐っこく、捨てられないように、私たち三人の誰とでもよく絡んだ。春美が懸け橋となり、私たちの円はぎゅっと縮まった。
私が大変助かったのは、いぶきが春美に懐いたことだった。春美は猫のように、あるいは着せ替え人形のように、いぶきを深く愛した。叱りつけたり、弱みを見せたりといった、私たち夫婦が踏み出せずにいた分野を、春美はいとも簡単に飛び越えてみせた。二人が本当の姉妹のように、仲良く喧嘩しているのを見て、私たち夫婦もひとつ肩の力が抜けて、段々とだらしない姿を見せられるようになっていった。
二年ほど経った、旦那が長期に渡る単身赴任に旅立つ日。玄関先で旦那に抱き付いた春美といぶきが泣いているのを見て、私は少し離れたところで涙をこらえた。
旅立っていく旦那には悪いが、私たち三人はこのときから本格的にうまく回り始めたのだ。
「私が来たからタバコ辞めたの?」
くりくりとした丸い瞳でいぶきは私にたずねた。
「元からやめるつもりだったよ。そりゃいいきっかけにはなったけど」
見透かされたことが妙に小っ恥ずかしく思えて、私はつい突っぱねるような言い方になった。
と「あ、やっぱりここに居たー」と言って、春美が勝手口の暖簾をくぐって現れた。
いぶきが「げ」と小さく言った。
春美はそのままいぶきの後頭部に抱き着き
「いぶきちゃーん。採寸するよー」
とその頭をこねくり回した。
過剰なスキンシップはいつものことだが、ここのところの春美は、いぶきのドレス作りのため、彼女を追い回していた。事件から四年、いぶきの父親は再婚という道を選んだ。その結婚式で着るドレスだった。いぶきは父の再婚に対して興味薄の姿勢を装っているが、彼女の中の止まっていた時計のひとつが動き出そうとしていているのがわかった。
「採寸なら前にしたじゃない」
いぶきは頭をぐちゃぐちゃにされながらも、抵抗しても無駄だと諦めているようで、カウンターを磨きながら、冷たく言った。
「成長期だからねー。今回は体のラインもはっきり出るし、正確にやらないとー」
春美の方もいぶきの態度などお構いなしの様子だった。
「まだ片付けてるので夜にしてください。ね、輝美さん」
いぶきが狙ったように私に話を振ると、春美は次に私をロックオンした。
「輝美さんも式出ればいいじゃん。招待状来てるんでしょ? ドレス作らせてよ。まだ間に合うからさあ」
「出ない」
と私は断言して、春美をシャットアウトすると、店の片付けに専念した。
店の鍵を閉めると、外は薄暗く、先走る街灯の強い明かりと、往来する車のライトが灰色の街を黄色く照らしていた。私はまだ暖かさの残る店内で背中を伸ばし、エプロンをカウンターに投げると階段を上がった。
以前なら夕食の献立を考え始める時間だが、みどりが来てからその時間も随分減った。本人が望んだこととはいえ、里子に飯炊きをさせているのは、やはり気が引ける。だがみどりにとって料理は精神安定剤のひとつで、それを取り上げることは躊躇われた。みどりはまな板に、鍋に、フライパンに激しい感情を叩きつけた。その姿には鬼気迫るものがあった。そして、一仕事終え、皿に料理を盛り付けている彼女の額には、きれいな汗が流れる。それを袖でぬぐい「おまたせ」と言う彼女は一種の神々しさを纏う。
私は「まかせる」のコマンドを選択し、彼女が台所に立てないときだけ、里親としての務めを果たした。そして、普段はリビングのソファーに横になって、怠惰な主婦のように、サブスクで映画やドラマを見て過ごした。




