エピローグとプロローグ 河野輝美①
エピローグとプロローグ 河野輝美
店じまいをしていると、いぶきが「ととと」と小走りでやってきた。
いぶきは昔から暇さえあれば店を手伝いたがる。と言っても、モーニングが主な収入源のこの店で、いぶきの入る夕方に仕事などさしてありもしないのだが。
「忘れ物。タバコとライター」
いぶきの手には、可憐な少女に似つかわしくないそれらが握られていた。
「常連のじいさんだろ、カウンターの見やすいところにでも置いておけ」
私が言うといぶきは
「はーい」
と言って、言われた通りにタバコとライターをカウンターに置いた。
グラスを布巾で拭いていると、いぶきがカウンターを拭きながら、上目使いで私を見ていた。
「なんだ?」
と問いかけると、いぶきはからかうように
「取りに来なかったら輝美さんが吸っちゃえば?」
と言った。
「はあ?」
「輝美さん昔タバコ吸ってたんでしょ?」
私は驚いた。私はいぶきの前で喫煙したことなど一度もないはずだ。
「旦那から聞いたのか?」
「ううん」といぶき。「はじめて会ったときタバコ臭かった」
頭痛がするようだった。里親の面談にタバコのにおいをまき散らしてやってくる馬鹿がいるか。私は過去の自分の非常識さに頭を抱えた。
はじめていぶきと出会ったのは、児童相談所の一室だった。
「はじめまして、私は川島いぶきと言います」
職員から私を紹介されるなり、川島いぶきはソファーから立ち上がって、深々と頭を下げた。裏返りかけた声に緊張はあったが、父子家庭と聞いていたわりにはしつけの行き届いた仕草だった。
いぶきは顔を上げた。
「あの、お料理はお父さんに禁止されていましたけど、それ以外の家事ならお手伝いできます」
美しい切れ長の目が、怯えた様子で私の反応をうかがっていた。
思っていたより、普通の少女だったことに、私は少し驚いていた。彼女に降り注いだ、残酷な事情、そして彼女の取った行動は聞いている。私はもっと大人の皮を被った気丈な子供を想像していた。だが目の前に現れたのは、これから見ず知らずの大人に預けられる運命にある、ただの怯えた子供だった。
「はじめまして」私は一人の大人として彼女と接した。「河野輝美です。あなたの里親に名乗り出ました」
「ありがとうございます。お父さんも安心します」
そう言っていぶきはソファーに腰を下ろした。
父のことを簡単に口にするのも意外だった。私はここに来るまで、彼女は父親を恐れ、口に出すのもためらうものだと思っていた。だが実際、いぶきの発する「お父さん」というワードに、恐れや怒りといった感情をまるで感じ取れなかった。代わりにあったのは、父を責めるどころか、その不幸をいたわり、憐れむような、慈愛に満ちた精神だった。
その健気なまでの崇高さに、私は心奪われた。
私は言った。
「私も里子を受け入れるのははじめてなんだ。もしうちに来てくれるのなら、至らないところもあるだろうけど、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」いぶきは一礼した。「……あの、ご夫婦だって聞いていたんですけど、今日は旦那さんはいないんですか?」
「ええ、都合が合わなくて。次回の面談には同席するつもりよ」
私は嘘をついた。旦那の欠席は、相談所の職員とも協議した判断だった。彼女自身の認識はどうあれ、性被害を受けた少女に、いきなり男を会わせるのか慎重になったのだ。そして、それはおそらく杞憂だった。
「旦那さんとも早くお会いしたいです」
まっすぐな瞳でいぶきは言った。まるでこちらの嘘など見透かされているかのようだった。
「次は必ず連れてくるよ、クマのような大男だけど」
彼女は
「クマ好きですよ」
と笑った。
私は続けた。
「それから私たちはあなた以外にも里子を取ろうと思ってる。いつかね。まだいつになるかはわからないし、どんな子かもわからないけど。もちろんそのときはあなたとの相性を考えるし、相談もするけど、同居人が増える可能性についてはどう思う?」
「大丈夫です」
いぶきは考える間もなく即答した。
「最初はもっと大勢の施設に入ることになると思っていましたから。でも私は一人っ子なので少し楽しみです」
私は電話をかけてくると断って、建物の外の喫煙スペースで、タバコに火を着けた。梅雨の前の最後の悪あがきのような暑い春の日差しが、紫の煙を大気のスクリーンに浮かび上がらせていた。
愛おしさはある。だが同時に、これから里親になろうとする者として失格かもしれないが、いぶきの得体の知れなさに、私は少々怖気づいていた。大人の皮をかぶった子供ならこれまで散々見てきたが、私から見たいぶきの印象は、子供の皮を被った子供でいられなくなったなにかだった。
互いの人生のために、彼女は自ら父との別離を選んだ。それは覚悟だ、人生の選択だ。その覚悟で、いぶきはどこでだってうまくやるだろう。
私は母親面して彼女を抱きしめてやりたかった。
彼女は受け入れるだろう。でもその完成された心にはきっと届かない。不意に振り出した小粒の通り雨のように、彼女は気にも留めず、ただ受け入れるのだ。
しかし、まあ、きっと手はかからないだろう。
紫の煙にまみれながら、私は少しだけ楽観的に考えることにした。
どのみち彼女の傷を癒すには、長い時間と、穏やかな空間が必要だ。固く結んだ紐をゆっくりとほどくように、ただ生活を共にしよう。私だけじゃない。旦那もいるし、学校の友達もいるだろう。これから里子になる誰かとうまくやってくれるかもしれない。
なんとかなるさ。
案ずるより産むがやすし、よ。
私はこの思いが冷めないうちに旦那に電話をかけた。
旦那は2コールで電話に出た。
「もしもし、どうよ?」
私よりは楽観主義の年季が違う旦那は、明るい声で言った。
「まだ途中。でも勝手なこと言っちゃうけど私はもう情が移っちゃったわ」
「おまえの方が多く時間を過ごすんだから、おまえが決めたなら俺はいいよ」
「そう、それだけ。また帰ったら話すから」
「うん。お疲れ」
それから旦那は、普段は滅多にいわないくせに、愛してるよと付け加えた。
部屋に戻るといぶきは職員と談笑していた。
私を見ると、いぶきは目を輝かせて言った。
「職員さんに聞いたんですけど、河野さんは喫茶店をやってるって本当ですか?」
「ええ」と答えて私はソファーに座った。「そうよ。私は喫茶店をやってる。あなたがうちに来ることになれば喫茶店の上の階に住むことになるわね」
私はスマホで店内の画像を彼女に見せた。そして、順番が前後してしまったが、彼女の住むであろう居住スペースの画像も。
「素敵ですね!」
彼女は身を乗り出してスマホの画面を覗き込んでいた。
「私、コーヒー淹れられるんですよ。お父さんが返ってくるのが遅いから、眠くならないように。インスタントじゃなくて、豆を挽いて、ドリップするんです。休みの日にはお父さんにも淹れてあげるんです」
「そうか、じゃあ、時々手伝ってもらおうかな」
「ぜひ!」
花の咲いたようなまぶしい笑顔が心からのものなのか、それとも子供のふりをしているのか、私にはわからなかった。
私は奥歯にものが挟まった気分で、事務的に話を進めた。
「もし、あなたがうちに来ることになったら、校区の関係で転校することになるのだけれど、それは大丈夫? つらくない?」
いぶきは目を細めた。どこぞの王族のような高貴なまなざしだった。鳥の羽のように開いたまつ毛が、目の下にギザギザした影を作った。
「かなしいことなんだと思います。でも、私、誰も私のことを知らないところに行きたいです。それに大丈夫です。先生から中学は私立の受験を勧められているんです。だからお別れが二年早くなるだけです」
「お友達とも離れ離れになるよ?」
「私、友情ってものに希薄なんです。同い年の子を少し見下してしまうんです。嫌な子ですよね」
「そんなことない。その年ごろならよくあることよ」
私はまた心にもないことを言った。傷を負った人を相手に真正面から反論するのは悪手だ。だが相手が子供というだけで、受け流すことが卑怯な行為に思えてしまう。ここで働くことを辞めたのも、つまるところそういったものの積み重ねだった。
私はまた猛烈にタバコを吸いたくなった。
「いぶきさん」
私は彼女の名前を呼んだ。彼女ばかりに心を開かせようとして、自分だけ胸襟を開かないのは、なんというかフェアじゃない気がした。これから形ばかりとはいえ家族としてやっていくのに、大人の対応ばかりしていてはなにも進まない。
「私は以前、この児童相談所で働いていたの。とてもつらかったわ。最初は子供たちを救うとか、崇高な意思で働いていたけど、いろんな子供や大人たちを見ているうちに耐えられなくなったの。不幸なんて言葉は本当は使うべきじゃないんだけど、いろんな不幸をいっぱい見た。それに押しつぶされた、本当は里親なんて名乗り出る資格なんてない人間かもしれない。いまあなたを迎えようとしているのは、そのときの後悔があるから。でも、旦那と話してね、もう一度形を変えてやりなおそうと思った。だから、お願いするのはこっちのほう。お願い、いぶきさん。もしよかったら私たちの里子になってくれませんか?」
車で運ばれていくいぶきを見送って、私はまた喫煙スペースに足を運んだ。
これからどんなことが起こるんだろう。どれだけ胸が締め付けられるのだろう。約束はもうしてしまった。親になるとはこうゆうことなのだろうか。
妊娠と出産というシステムは偉大だ。次第に大きくなるおなかと出産の痛みが、嫌でも自分を人の親だと覚悟させるのだろう。
しかし、それでも子を捨てたり、暴力をふるったり、透明人間にしてしまう親はいる。私はここでそれをいっぱい見てきた。
私がそうならない保証はどこにもない。
だが私は今日、ある意味、妊娠を経験した。これから生まれてくる小学五年生の少女を解読し、傷を癒さなければならない。
私は手始めにポケットのタバコの箱を、中身ごと握りつぶして、灰皿に捨てた。
喫煙は胎教に毒だからだ。




