後編
結局みんなそう。
私の言葉なんて、誰も信じない。
飛び散ったガラスを掃除する気なんか到底起きない。
まだ朝だけど、ベッドに潜り込んだ。
――誰が?
ねえ、誰が。
誰が、自分の愛しいイラストを穢すようなことをするものか!
1pxの小さな穴をちびちびと埋めていく、あの単調な作業。
いつ終わるとも果てない、木々の葉っぱを描き足していくだけの時間。
キャラを描くだけが全てじゃない。楽しいだけの時間じゃない。
肩が凝って、目が疲れて、手はだるくなって。
それでも最後まで描き上げたい、と眠い目を擦って続ける全てを。
汚らわしい疑惑で、塗りつぶされた。
「……死にたい」
ベッドの中、ぽつり、と枕に雫が落ちた。
誰も私を信じていない。
イラストって私にとって何だった?
一番楽しいはずじゃなかったのか?
趣味の範囲で、こうまで貶められて、続ける意味があるのか?
ぽたぽたと頬を流れる水が、かさついた唇に流れ込んだ。
しょっぱい。
そもそも、ここが世界の縮図なのだとしたら。
生きてる意味なんてあるのだろうか……。
いっそ、遺書でも残して死んでしまおうか。
「●●●というイラストサイトで、無実の嫌疑をかけられたので、死にます」なんて。
ネットのいじめで心を壊した女子大生、自殺。なんて。
コメントを書き込んだ奴等は、それを見て反省するだろうか。
証拠もないのに騒ぎすぎたって?
自分達がやりすぎたって?
「……はは、有り得ないよね……」
人の自殺なんてありふれてる。
ましてや、ネットの関係に疲れたなんて……小学生ならまだしも、私が死んでもニュースにもなりゃしない。
ここまでのコメントの論調から、彼らが自分の正義を信じ切っていることは確かだ。
彼らが私の死のニュースを聞くことがあったとしたら、悼むのではなく、快哉を叫ぶだろう。
正義の名のもとに、汚れたイラストを排除した。
今や現実ではほとんど見られない、完璧な勧善懲悪。
それは。
排除される悪者が、私でさえなければ。
そして、私が無実でさえなければ。
事実、完璧だったのに。
無実を主張しても無駄。
放置しておいても無駄。
そして、死んでさえも。
一度被せられた嫌疑は、決して晴れない――。
せめて、この心臓を抉り取って、ネットの中に撒き散らしてやりたかった。
今の私の苦しみを、痛みを。
あなたと同じ赤い血が流れていることを!
真っ黒に染まった疑惑を、赤く塗りつぶしたい。
お願い。私の無実を、誰か――。
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XXXX/XX/XXXX 15:19:45 不明
パクリ野郎、答えろ
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XXXX/XX/XXXX 16:37:34 不明
むしかよ
泣いてるくせに
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目を覚ました時には、既に日が落ちていた。
最近眠りが浅かったせいか、えらくぐっすり眠り込んだらしい。
ぐぐぅ、とお腹が鳴ったので、また生の食パンを齧ろうとして……止めた。
ダイニングの惨状は眠る前と全く同じ。
飛び散ったガラスで足の踏み場もない。
ここでご飯を食べるのは諦めた方が良い。
暗い内に掃除しようとすれば、怪我をするかもしれない。
明日、日が昇ってから掃除機をかけよう。
今夜はどうしようか、と少しだけ悩んで。
とりあえず、パソコンを立ち上げた。
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XXXX/XX/XXXX 18:33:26 不明
日本語読めるか
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XXXX/XX/XXXX 20:04:07 不明
むしかよ
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……バカバカしくなった。
否定的なコメント投稿の時間が、えらく空き始めてる。
どうやら、向こうもバカバカしくなったらしい。
……飽きたんだろうな。
結局、私の過去のイラストを全部ほじくり返してしまえば、これ以上の新ネタもない。
IP特定班、なんて言ってたのも大嘘で、私のプライベート情報なんてピック出来なかったんだ。
このサイトの中で暴露した私生活なんてないから、コレ以上の突付きどころもない。
しかも何を言っても私は反応しないから――つまらなくなったんだろう。
死にかけの小鳥を嬲るネコと同じ。
死にかけでもがいてるから楽しいんであって、死んでしまえばただのモノなんだ。
「あはは……」
乾いた笑いが漏れる。
結局、私なんか、ネットの中の誰かのおもちゃ。
誰も生きているとは思っていない、ただのネコじゃらしなんだ。
「はは……は、は……」
理由の分からない涙が流れてきた。
今朝までのようなじりじりする焦燥や悔しさじゃない。
恐怖も消えている。
ただ……バカバカしい。
「はは……何か、すっきりすることないかな……」
ぐるり、と部屋を見回して――ふと、思いついた。
皆がこれほどハマるくらいなんだから、さ。
人を断罪するっていうのは、きっと面白いんだろうね。
例えば……
「KAZUKOKKOKOさん、この人。前からウザかったんだよね……」
同じ構図のイラストを、色だけ変えて30枚も上げてくる。
それもいっぺんに、じゃない。
1日1枚、1ヶ月。新しく上げられたイラストは、総合TOPに「新着イラスト」として表示されるから、目立ちやすくしてるんじゃないだろうか。
その行為自体は、このサイトの規約から外れてはいないらしい。
確かに、色違いのイラストを上げてはいけない、なんてどこにも書いてないし。
「……だけどさ、ちょっとズルい、よね……?」
例えばどうだろう。
この人のイラストに、ログアウトした状態でコメントを書き込む。
『本当の新着イラストを見たい人の、邪魔になると思わないんですか?』
『計画的なズルですよね』
『そんな卑劣な行為をしていて人間として恥ずかしくないですか?』
……なんて。
そうすれば。
今日から、私が『不明』さんだ。
涙の乾いた頬がぱりぱりとひび割れてる。
胸のどこかが、ぞくりとする喜びを感じた。
そうだ。いっぱいいっぱい書き込んでやれ。
どうせ誰も彼も。
真実なんてどうでも良い。
疑わしきは、被告人の罪。
ほんの少しの疑惑や失敗で『炎上』出来るんだから――
ごくり、と息を呑んで、キーボードに向かった。
瞬間に。
――だんだんだん、と玄関扉が鳴った。
「アヤちゃん! 開けて! アヤちゃん!」
扉の向こう、興奮して叫んでる聞き慣れた声。
「……ユミコ?」
ぞくり、と身が震える。
忘れてた、このサイトと現実をつなぐたった1人。
まさか、わざわざ私を追い詰めに来た?
ついうっかりと声を出した瞬間に、扉を叩く音は激しくなった。
「アヤちゃん、いるんだね! 開けて、ここを開けて!」
開けたくない。
このまま無視しようか――と、思ってから。
「……あ、鍵かけるの忘れてた」
間抜けたことに気付いて、しかもそのことを口に出してしまった。
一瞬置いてから、ガチャリ、とノブが回る。
いっぱいに開いた扉から姿をあらわしたのは、ふわりとしたショートボブ、うるうると瞳に涙を溜めたユミコだった。
「――アヤちゃん! ごめんねぇ!」
泣き顔の向こう、今夜の月は満月。
月の光に柔らかい髪を透き通らせて、私の名を呼ぶユミコは――なんて綺麗な。
すごい。
きらきら光る涙が、宝石のように飛び散ってる。
月光を背中に背負って光るセーターの一本一本。
ねぇ、羽が生えててもおかしくないよ、この子。
呆然とする私に気付かないまま、駆け寄ってきたユミコが、座っている私の胸に抱きついた。
「アヤちゃん、わたし、アヤちゃんに酷いこと言っちゃった!」
いつぞやのように、ぐいぐいと顔を押し付けられて、私のシャツの肩がじんわりと湿っていく。
「アヤちゃんはわたしを助けようとしてくれたのに! アヤちゃんがパクリなんてする訳ないの知ってるのに! ごめんね、ごめんね……わたしやっぱりおかしかったよ、ずっと誰かに叫びたくて仕方なかったの」
「ユミコ……どうして……」
「今日、アヤちゃんに電話した後、大学行って学生課で相談して、帰ってごはん食べて1回寝て起きたらちょっと落ち着いて……やっぱりわたしが間違ってたと思って……でも、電話しても電源切れてるし、大学のみんなはアヤちゃんはもう何日も来てないって言うし……」
しゃくりあげる声は懐かしい。
その声を、支離滅裂な話の展開を聞いているだけで、そっと心が落ち着いてきた。
攻撃的な気分だったのは、私だって同じ。
なのに、私と言ったら、ユミコのこと思い出しもしなかった。
そんなときに、ユミコは、私の心配をしていてくれたんだね……。
私の無実を信じてくれる人が、たった1人、ここにいるということが。
とてつもなく。
思わず抱き締めそうになって、慌てて力を緩めた。
そんな私を見上げてから、ユミコは身体を離す。
「あのねでもね、大学の学生課の人も言ってた。アヤちゃんの言ってたこと、正しかったんだよ!」
「私の言ってたこと……?」
私、何か言ったっけ?
思い当たらない様子を見て、ユミコが自分のスマホを差し出した。
「見て」
見ればそれは、炎上していたユミコの例のイラストページ。
大量に付いていたはずのコメントの全てが、消えていた。
残っているのは、私のコメントも含めた名前がついてる幾つかのコメントだけ。
「……削除、したの?」
「違うの。『このサイトに登録されたユーザ以外は書き込み禁止』にしたの。そうしたら、ほとんどのコメントが消えてね、ついでに嫌な言い方してくるユーザからのコメントを受け付けない設定にしたら、ぱたっと新しいコメントが付くのも止んじゃった。やっぱり、あの『不明』さんとか何人かだけがしつこく書き込んでて、そういう人がいなければ誰も書こうと思わないんだよ、こんなこと」
「え、そんな機能あるの……?」
「あるんだよ。私も学生課の人に言われるまで気付かなくて、ちょっと分かりにくい設定画面なんだけど……えへへ。どうせアヤちゃんのことだから『不明』さんと正々堂々と戦うために、真正面からコメント返そうとしてたんでしょ」
えへ、と笑ったユミコはいかにも「ちゃっかりさん」な顔をしてる。
ああ、そうね。
そうだわ。別に正面から勝たなくても良いんだね……。
絶対に分かり合えない『不明』さんに、私の無実を知ってもらわなくても――。
「ね、アヤちゃんもそうしよう! もう良いよ、こんな人に付き合う必要ないよ!」
言って、私のパソコンを勝手知ったる様子で操作する。
さっきログインしたままのHOMEから、幾つか画面を切り替える。
進んだ先のページで「□ 登録されたユーザ以外のコメント書き込みを許可しない」選択肢を表示してから――もう一度私の方を見た。
「それとも、もう……イラスト描くの止めちゃう?」
その顔がいかにも寂しそうで、私は苦笑するしかない。
「……ユミコ、顔に『止めないで』って書いてあるよ」
「だってアヤちゃんが止めちゃうなんて寂しいから……あ、でももう懲り懲りだって言うなら、わたしは諦める。我慢するよ。だって絵を描くのが嫌になるくらい辛い気持ち、本当に良く分かるもの」
イラストを描くのを、止める……か。
確かにそれも1つの選択肢だ。
たとえこの後『不明』さんのコメントが全て消えたとしても、私に着せられた汚名が消える訳じゃない。
一度このサイトのアカウントを消したとしても、今までに描いたイラストは、インターネットのデータ上に色んな人の書いた『パクリ』のラベルとともに永遠に残る。
どこにも他に出せないものになってしまった。
勿論、この程度のイラストでプロになれるとか思ってる訳でもない。
他の人には落書きかもしれないけど、それでも莫大な時間と労力をかけた作品群が、もう二度と誰にも見せられないなんて。
それに。
さっき、この部屋に飛び込もうとしたユミコ。
あの姿――まるで天使みたいだった。
そう思った途端に。
ここ数日、デジタルでもアナログでも絵筆に触っていないことを思い出した。
描きたい。あの姿。
――そして、私にとって、描き上がったイラストを発表する場所は、ここしかない。
黙ったままの私から、そっと視線をそらしたユミコが呟く。
「……結局、ネットで公開するってこういうことなんだね。何を言われるのかもわかんない」
何を言うのも自由。
何を見るのも自由。
その自由はどんなネットユーザにもあって。
時に自由の名のもとに、人々の手で私刑は執行される。
怖い場所だ。
だけど。
私は、マウスを握ったままのユミコの手の上に、手を乗せた。
「――でも、描きたいものが、あるの」
爪の剥がれた中指で、カチリ、とチェックボックスをクリックする。
ユミコの白い指の上に、指先から流れた赤い血が滲んだ。
暗いお話ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。
またいつかどこかでお会い出来れば光栄です。