夢か現か幻か
逃げる。走る。扉をすり抜け、壁をすり抜け、あの場所から少しでも遠くへ。胸の底からわきあがる衝動のままに、私はただ駆けていた。私を阻むものはなにもなかった。
まだ日の高い時間だ、途中人とすれ違うこともあっただろう。しかし私はそれを一切認識できなかった。見えている筈なのに何も見えない。聞こえている筈なのに何も聞こえない。
やがて、自分が走っているのかどうかすら、わからなくなった。進めば進むほど己の存在が希薄になっていく。まるで空気と化したような錯覚。……頭が、痛い。
「お前といい、エルといい、ちょっと入れ込みすぎじゃねえの?」
唐突に、何の前触れもなく、その声の主は私の前に現れた。呆れたような、からかうような口調は聞き覚えのないものだった。そうだろうな、と私はぼんやりと思う。声の主である男――色白騎士は、私の前ではろくに口を開かなかったのだから。必要に駆られて喋るときがあっても、いっそ慇懃無礼なまでに丁寧な態度を崩さず、私にとっては本当に、ただ居るだけの人という印象が強い。
「……入れ込む、とは、違うと思うが」
「その様でか? よく言う」
応える声があった。瞬きの間に視界が開け、いつの間にか見知らぬ部屋に立っていることに気付く。目の前に色白騎士、その傍には、黒い人が寝台の上で横たわっている。今朝、他の任務につくといって別れたばかりの彼はひどく、そう、ひどく疲れているように見えた。声を出すのも幾ばくか億劫そうだ。
「だいたい、いくら守護符の効きがよくても限度があるだろ。ぶっ倒れる前に交代しろっつったよな?」
「…………」
「……」
しばし、沈黙が流れた。無言のやりとりはどちらに軍配が上がったのか。やがて黒い人が疑わしそうに口を開く。
「…………。あの状況で、お前ひとりに任せられると思うのか」
「はっ、信用ねぇなあ」
「そういう意味じゃない」
わかっているだろう、と。私には理解できない会話を交わしながら、黒い人は目を眇め、色白騎士はどこか冷ややかに笑う。
彼らを相手にして、本当にこの距離まで近づいたなら気付かれないなんてことはありえない。二度目という前提がなければ早々に夢だと判断しただろう。もっとも、夢ではないと断言はできないが。
ただ、これが現実だとしても、盗み聞きの趣味などない。今すぐに立ち去るべきだと頭ではわかっているのに、私の足は地に縫い止められたように動かなかった。二人の騎士の語らいが嫌でも耳に入ってくる。
「深入りするなと忠告はしてたさ。それでもあいつは踏み込んだ。いつも通りに」
あのとんでもないお人好しは死んでも治らない、と色白騎士は言った。
「状況があれで、相手も特殊で、なかなか上手くやってた方だろ。性急に距離を詰めすぎたってのは、あるか。でも結局はあの王子が下手やらかしたのが悪い」
「――――」
「ったく、とんだとばっちりだ。馬鹿連中がやったことをどうしてあいつが被る? この国の問題であって、あいつには何の関係もねえだろうが」
「フラウト。……それは、彼女にはわからない」
「だから?」
冷たく吐き捨てられた言葉。
「わからない? 知らない? だから何だ。それがエルを傷つけていい理由になるとでも?」
はっきりと苛立ちが滲むその声に、思わず身を竦めた。彼らはいったい何の話をしているのか。私はそれが、『わからない』。
「そもそも俺は、最初っから気に入らなかったけどな。ああいう大人しくて物分かりのいいふりしてる奴は、大抵腹ん中になんか隠してる。で、いざ事が起こったら一気に爆発して、暴走して。まるで今まで黙って耐えてました、みたいな顔してさあ――。どう考えても脅迫だろ、あれ。全部意識的にやってるとしたら、っはは、相当なもんだぜ?」
『わからない』のに、なぜ、胸が苦しくなるのだろう。
「そういう言い方はよせ。彼女はただ、自分を守っているだけだ」
「お前こそ、その言い方が入れ込んでるっつうんだよ。護衛対象に肩入れしてどうする」
「だから、していないと言っている」
うまく呼吸ができない。喉が引き攣る。軽く眩暈がして、私はその場に座り込んだ。じわじわと悪化する身体の不調とは裏腹に、冷静さを失わない頭の片隅でふと思い出すことがあった。
私がここから拉致――というか、強引に連れ出され、ひとつ向こうの町で朝を迎えたあの時のことだ。倒れこんで悶絶するほどではないし、言葉がわからなくなることもない。しかし、どうもこの苦しさはあの状況を彷彿とさせる。
「それに、肩入れと言うならシュルツの方だろう」
「あー……。確かに、あの変わり身はやばいよな。流石の宰相補佐官殿も連日の激務でついに頭が、……いや、待て」
黒い人は、倒れたのだという。守護符、という単語から察するに、彼は夜の影響を受けて体調を崩したのは間違いない。実を言うと、私は少し、衝撃を受けていた。どうやら色白騎士にあまり良い感情を持たれていないこと――では、なく。
(倒れた? この人が?)
気温、天気に関係なく常に黒尽くめなところは理解できないし、いつも何を考えているかわからないくせに、主に私を馬鹿にする方向で、たまに感情表現豊かになるところはとても癇に障る。常に冷静沈着で、荒事に慣れていて、結構筋肉質で……ああ、何と言えばいいのだろう。彼を完璧超人などと思っていたわけではない。ない、けれど。
「まさかあいつ、惚れたんじゃ――」
「……」
「…………」
「……フラウト」
「悪い。何か寒気してきた」
寝込んでいた私に昼夜問わずずっとつきっきりでいたから? あるいはそれ以前に、私に付き合ってほぼ毎日、夜の神子の祈りの間へ近づいているから? どちらにせよ、彼自身いつかこうなることをわかっていただろうことが解せない。いったいなぜ。何のために。そこまで我慢することに何の意味が?
(頭が――痛い……)
ずきり、とひと際強い痛みが私を襲う。反射的に目を閉じると、室内とはいえ昼間だというのにすっと暗闇が訪れ、そして。
「つまり、未だに双方を狙っている、と?」
耳に飛び込んできた別の声に、私は数秒経たずに目を開けた。
騎士団の執務室、だ。目の前に広がる光景がかつて足を踏み入れたことがある場所だとわかり、僅かだが私は落ち着きを取り戻した。黒い人と色白騎士の姿はない。そのかわり先ほどの声の主である騎士団長と、もうひとり、つるりとした後頭部が眩しい男性が立っていた。その見事なまでの禿げ頭に見覚えがある。いつだったか、この城のどこかで見かけた。
「そう結論付けるのが妥当でしょうな。我が部下の報告によれば、複数ばら撒いた囮のうち、仕掛けをしたものだけに動きがあったとのこと。この間の騒動で、内通者ともども一掃し残党はいない筈だが……今回の連中も恐らく、標的の姿形をほぼ正確に把握しているかと」
現状を理解できないまでも、幽体離脱の次は瞬間移動かとどこか緊張感のない考えが頭を過ぎり、私は一瞬苦しさを忘れた。それは油断であったのだろうし、迂闊であったと言うべきなのだろう。
「参ったな。巫女殿だけならまだわかる。選定直後ということもあって、公務で人前に出られることは多い。ただ、候補殿も、となると――」
「確か限られた場所から一切出ない上、会う人間もごく限られているのでしたか。ううむ、これでまた身内の犯行とは考えたくないが……」
騎士団長の言う“候補殿”が、私自身を指すということを理解して、すぐ。
「あるいは――『選ばれる』前に目を付けられていたか、だな」
禿げ頭の騎士が言い淀むのをよそに、騎士団長が下した結論。その言葉の響きにぞっとした。気が緩んだその隙間をぬうように、追い打ちをかけるように、私の心を押し潰してくる。
あるいは、などという仮定的な表現をしておきながら、彼は確信しているようだった。もちろん私は本当に選ばれたわけではないが、次期巫女候補という設定上そう表すのは正しい。では、選ばれる前とはいつのことか。
「すぐに店を調べよう。客、いや、店側の人間か……。巫女殿と違って、候補殿は接客をしていないと聞いている」
「ならば、住んでいたところも調査を。家主にも話を聞く必要がありそうですな」
「店は任せてくれ。そちらは頼む。別件の聞き取り調査を装い、可能な限り少人数で動くように」
「――はっ」
畏まった返事を最後に、禿げ頭の騎士は足早に部屋を出ていった。私は力なく座り込んだままその背を見送ることもできない。残された騎士団長は、静かに、憂うように目を伏せた。
「なんとかここで、終わらせなくては……」
頭が――痛い。