2、NULL
午前零時五分。
黒瀬レンは、窓の前から動けずにいた。
「……今の声」
部屋には誰もいない。
机。
ベッド。
本棚。
閉じたカーテン。
どこにも人の気配はなかった。
「空耳……?」
そう呟いた瞬間。
――ピコン。
端末がもう一度鳴った。
レンは恐る恐る画面を見る。
《Eden SYSTEM》
《緊急メンテナンスを開始します》
「……メンテナンス?」
そんな予定は聞いていない。
さらに通知が続く。
《全プレイヤーの接続を終了します》
《対象:ALL》
《残存接続者:1》
レンの眉が動いた。
「残存……一人?」
嫌な予感がした。
その直後。
画面に名前が表示された。
**PLAYER:KUROSE REN**
「……俺?」
その下に、奇妙な表示。
《ERROR》
《PLAYER DATA NOT FOUND》
レンは息を呑んだ。
「データが……ない?」
自分は今まで普通にEdenをプレイしていた。
レベル48。
アイテム。
フレンド。
戦績。
全部存在していたはずだ。
なのに。
**今のEdenには、自分のデータが存在しない。**
レンは端末を操作する。
「ログイン履歴……」
表示された履歴を開く。
そこには――
《最終ログイン》
**5年前**
「……え?」
レンの手が止まった。
5年前。
それはEdenが正式サービスを開始した年だった。
「そんなわけない」
レンは首を振る。
自分は今日も普通に学校へ行った。
友達と話して。
授業を受けて。
家に帰って。
そしてEdenにログインした。
それなのに。
「俺が最後にログインしたのが……5年前?」
突然。
頭の奥が痛んだ。
「っ……!」
視界が歪む。
何かの映像が浮かぶ。
白い部屋。
無数のモニター。
誰かが叫んでいる。
――「実験を中止してください!」
別の声。
――「もう止められない!」
そして。
小さな男の子。
黒い髪。
右手を握っている。
その隣には――
白髪の少女。
「……誰だ」
映像が消える。
レンは壁に手をついた。
「今の……俺?」
わからない。
何も思い出せない。
だが一つだけ。
確かなことがあった。
**あの少女は、自分を知っている。**
そのとき。
部屋の電気が消えた。
「……!」
完全な暗闇。
端末の光だけが残る。
そして。
窓の外。
街灯の下に――
一人の人間が立っていた。
黒いフード。
顔は見えない。
レンはカーテンを開けた。
「誰だ?」
人影は動かない。
数秒。
沈黙。
そして。
男が顔を上げた。
その目が――
赤く光った。
「黒瀬レン」
「……!」
「見つけた」
男が右手を上げる。
空気が震えた。
次の瞬間。
窓ガラスが一斉に砕け散った。
「うわっ!」
レンは後ろへ飛ぶ。
ガラス片が床へ落ちる。
男は窓から部屋へ入ってきた。
「お前は何者だ!」
「俺か?」
男が笑う。
「《ADMIN》だ」
その言葉と同時に。
男の周囲に無数の黒い文字が浮かび上がった。
**SYSTEM COMMAND**
レンの目が見開かれる。
「システム……コマンド?」
「そうだ」
男が指を鳴らす。
「この世界で俺たちに逆らえる奴はいない」
レンの身体が突然動かなくなった。
「な……!」
手も。
足も。
首も。
完全に固定されている。
「《Freeze》」
男が呟く。
「Edenの管理権限だ」
レンは必死に身体を動かそうとする。
動かない。
「くそ……!」
「安心しろ。殺すつもりはない」
男が近づいてくる。
「ただ、お前には戻ってきてもらう」
「どこへ……?」
「**実験室へ**」
その言葉を聞いた瞬間。
レンの頭の中で、再び映像が弾けた。
白い部屋。
ガラス越しの人間。
自分と同じくらいの年齢の少女。
そして――
少女が泣いている。
誰かが言う。
――「NULLは危険すぎる」
――「処分するしかない」
「……やめろ」
レンは頭を押さえる。
「何なんだよ……!」
男が首を傾げた。
「まだ記憶が戻っていないのか」
「記憶……?」
「やはり成功している」
男が笑う。
「記憶消去処理は正常だったようだ」
「……!」
レンの目が変わる。
「俺の……記憶を?」
「ああ」
「誰が?」
「お前自身だ」
「……は?」
男は告げた。
「5年前、お前は自分自身の記憶を消した」
レンは言葉を失った。
「そして、お前は自分を普通の高校生だと思い込んだ」
「嘘だ」
「そう思うなら――」
男が手を向ける。
「自分で確かめろ」
瞬間。
レンの身体を包んでいた拘束が消えた。
「……!」
レンは床を蹴った。
男の顔面へ拳を振り抜く。
しかし。
男は軽く身体を横へずらした。
「遅い」
レンの拳が空を切る。
男の手がレンの胸へ触れる。
「《Override》」
――ドン!!
レンの身体が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
痛い。
現実の痛みだった。
レンは驚いた。
「Edenじゃ……ない?」
男は答えない。
もう一度、手を向ける。
「終わりだ」
その瞬間。
――パリン。
空間が割れた。
「……!」
白い髪が舞う。
黒いコート。
赤い瞳。
少女が、二人の間に立っていた。
「遅かったね」
少女が言う。
男の表情が変わる。
「……NULL」
「久しぶり」
「お前は存在してはいけない」
「知ってる」
少女はレンを見る。
「だから――」
右手を上げた。
「私は、世界の外にいる」
空間が歪む。
男の身体が突然消えた。
「なっ――」
次の瞬間。
男は数十メートル先の道路へ叩き落とされた。
轟音。
レンは呆然とする。
「今……何をした?」
「場所を削除しただけ」
「……は?」
「あなたもできるよ」
「俺が?」
「うん」
少女はレンの右手を見る。
「あなたの《反転》は、まだ本当の能力じゃない」
レンは拳を握る。
「じゃあ……俺の本当の能力って何なんだ?」
少女は少しだけ黙った。
そして。
「**世界のルールを反転させる能力**」
レンは息を呑む。
「それが……《NULL》?」
「違う」
少女は首を横に振る。
「《NULL》は能力の名前じゃない」
「じゃあ何だ?」
「あなたの――」
少女がレンを見る。
「**存在そのものの名前**」
その瞬間。
街全体に警報が鳴り響いた。
『警告』
『未登録存在を二名確認』
『Eden管理システム、戦闘モードへ移行します』
空を見上げる。
無数の黒い影。
一体。
二体。
十体。
百体。
都市上空を埋め尽くすほどの数。
すべてが同じ黒い装甲を身につけている。
少女が呟いた。
「……来た」
「何が?」
「この世界の掃除屋」
影の一体がこちらを向く。
その胸部に刻まれた文字。
**ADMIN**
レンは拳を握った。
「……逃げるのか?」
少女は笑った。
「まさか」
少女の周囲に、黒い亀裂が走る。
「レン」
「何だ?」
「初めての本物の戦闘だよ」
レンの右手が淡く光った。
そして。
空から。
**百体のADMINが一斉に降下した。**
**――第二章・終**




