9 男と女の出会い スナック夜風
あっという間に数年の月日が流れた。
ある日、竜作はいつものように、長田路地裏のスナック夜風に入った。ママの西川久美(五十歳)は、世話焼きで気さくな、気のいい女性だった。
彼女は、うるさくなく、かといって陰気でもなく。竜作の様子を見ながら、話しかけたり、ほおっておいてくれたりした。
彼女は、震災でつぶれた町工場に勤務していたことがあり、職人の扱いに慣れていた。竜作は、居心地の良い夜風が気に入り、なじみになっていた。
「あら、竜さんいらっしゃい」
「いらっしゃいませ」
「ああ…… 新人?」
「はい、真理子いいます」
「ほうか、よろしゅうな」
「ありがとうございます。こちらへどうぞ。お飲み物は、なんになさいます?」
「キープのボトルで、お湯割りつくってくれ。梅干しいれてな」
「はい」
真理子はグラスに焼酎を注ぎ、梅干しを入れ、お湯を注いだ。ふんわりと芋焼酎の匂いが広がった。
彼女は竜作の前に、ボトル、付け出し、乾きものを並べ、そっと焼酎のお湯割りを置いた。
「飲むか?」
「いいんですか?いただきます」
竜作がボトルに手をかけ、グラスに焼酎を注いだ。真理子がお湯を入れ、笑顔を見せた。
「いただきます。乾杯」
真理子がグラスを低くそっとあげた。彼女は、竜作のグラスの下側をかちりと鳴らした。
しばらく沈黙が続いた。真理子はグラスを指でなぞり、ふと目を伏せた。
「静かやな」
「あ、すいません。まだ慣れてなくて」
「入って新しいんか?」
「はい、つい先日、ママに拾っていただきました……」
真理子が苦笑していった。
―――― 先週 夕暮れ
久美は買い物を終え、店に戻る道すがら新湊川の御蔵橋を通っていた。
そこで、欄干に手をついて、川をぼんやり眺めている女性を見つけた。今にも消えてしまいそうだった。世話好きの久美は、女をほおっておけなかった。
「あんた、どないしたん?」
女はしばらく、黙って川面を見つめたままだった。通常であれば、気まずくなるところである。
だが久美は、こんな空気に慣れていた。女が、会話を返す気力もないほど、まいってしまっているのだと思った。久美は黙って女の横に立ち、一緒に川を眺めていた。
女は御蔵橋から新湊川の流れを、じっと見下ろしていた。夕焼けが水面に映っていた。川の流れる音が静かに響いていた。やさしい風が頬を撫でていった。
久美も女も川を見ながら同じことを思っていた。幼いころの思い出、震災の日々、それらは、この川とともにあったと。
水面に空の色の移ろいが映っていた。彼女らの揺れる心が、川面のさざ波に重なった。町の喧騒が、背中越しに聞こえた。二人は、じっとそれぞれの思いを胸に、佇んでいた。
女はハッとして、ぽつりと言葉を発した。
「ごめんなさい、ぼーっとして…… なんでもないです。すんません……」
女の声に、久美も意識を引き戻された。
「そやかてあんた、ひどい顔しとるで……?なんでもない顔ちゃうやん。なんか、しんどいことあるんちゃうの?」
女は小さく首を振った。
「……生きてても、何もならへん気がして……」
「まだ若いのになにいうてんねん」
「すんません……」
「あんた働いとんのか?」
「……昨日、スーパーを首になりました……」
「どないしたん?」
「レジで、手を握ってきたお客さんがいたんです。私、怖わなって、手を振り払ってしまいました。その方、おなじみさんやったんです。恥かかされたって、えらい腹立てはって……」
「あほらし…… そんなん、ちょっかいかけてきた方が悪いにきまっとるやん…… 店長は守ってくれへんかったん?」
「私をクビにするからと言って、その場を収めました……」
「はぁ?なんやねん、それ」
「それで…… 店を出て歩いてたら、その男が待ち伏せしてて、「首になったんやてな。申し訳ないことしたわ。わしが世話したろか?」、って…… 私、怖わなって、走って逃げました」
「なやそれ、キモいわ」
「それでそいつ……「そんなとんがってたら、どこもやとってくれんで」、って後ろから言い放ってきて……」
「クズやな……」
「それで私、働くとこもないし、明日からどないして生きてこかと……」
「なんや。そんなことかいな。うち、店やっとるんよ。スナック夜風いいよんねん。小っちゃい店やけどな。人手欲しい、思とってん。ちょっと来てみいひん?」
女は驚いて顔を上げた。陰気そうだが、美人だった。
「……私、人と話すん苦手で…… スナックなんて無理です……」
「そんなん、誰かて、はじめはおなじや。うちは静かな店やし。無理言う客おったら、うちがぶっ飛ばしたるし。無理せんでええから、ちょっとやってめえへん?」
女はしばらく川を見ていた。夕日を受けた顔が儚く、美しかった。女は迷ったあと、小さな声で返事をした。
「……じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「おおきに。あんた名前なんていうん?うちは久美や」
「真理子です。滝口真理子」
「結婚してんの?」
「いいえ。家族は誰もいません。震災でみんなおらんようなりました。うちは…… 一人ぼっちです……」
「ごめんな。悪いこと聞いたわ」
「いいえ、全然大丈夫です」
「おいで。お店の場所、紹介するわ。なんやったら、今日から働いてくれても、かまへんで」
久美の迫力に押され、真理子はとぼとぼと、久美の後ろを歩き始めた。
久美と真理子、震災に翻弄された二人の女は、川の風に吹かれながら、ゆっくり歩いていた。
スナック夜風に向かって。
―――― スナック夜風にて
「そうなんや。それは嫌な目えおうたな」
「いいえ」
「俺も震災で全部なくしてな。親も、仕事も、親方も、全部や」
「私もです」
「工場、持っとったときもあってんけどな」
「社長さんなんですね」
「いや、つぶしてもたわ」
「そうなんですか……」
真理子はそっと目を伏せた。薄暗いスナックのカウンター、目を伏せる薄幸そうな女。
竜作は真理子の横顔に、言い知れぬ影を感じた。明るい空気になじめない何かが、真理子を包み込んでいるように見えた。
この町で、震災の痛みを分かち合う同士…… 沈黙の中で漂う気配が、ふと竜作にそんなことを感じさせた。
真理子は、竜作を不可思議な物語の世界に、誘うようだった。窓から入った風が、店の空気を揺らした。
竜作は、たまらなく真理子が美しく見えた。




