45 谷間の声と第一の神隠し 甘さの代償
パキッ
ヒュン
「な、なに?」
枝を踏んだ感触と共に、何かが跳んできた。それは雅の腿をかすめて、木に突き刺さった。
「アマッポや!」
「アマッポ?なんなん、それ」
「けもの道に仕掛けてる罠や。そう呼ぶらしいんよ。木の葉や枝に板、隠すんや。ほんで、うっかり踏んだら、矢がピシャッて飛んでくるんやて。村境で人の立入警告に使うことあるって、昔おばあちゃんから聞いたことあるんよ」
「えっ?でもウチら、ちゃんと案内どおり右、来てたやんな」
「どっかの分かれ道で、間違えたんやろか?村の人は案内板なくても、道よう知っとるやろし」
「ほんなら誤解やん!戻ろか……」
雅はそう言いながら、さっき刺さった矢を、さりげなく自分の背中に隠した。部長の責任として、みんなを怖がらせない配慮からだった。しかし、その背中は震えていた。
「あかん!あちこち罠、仕掛けられとるかもしれへん。下手に動いたら危ないし」
慎重で臆病な京子が、声を震わせて叫んだ。
「どないしたらええん?」
「アマッポ仕掛けられとるってことは、誰かおるっちゅうことやん。大声出して、助け呼んだほうがええんちゃう?」
行動力のあるオタク娘、遥はそう言うやいなや、大声で叫んだ。
「すんませ〜ん!」
「誰かおらん〜?」
雅と京子が叫んだ。
「「すんませ〜ん!」」
「どないした〜」
男の声がした。
「よかった〜」
ガサッ ガサッ
「えっ!?」
現れた男たちは、明らかにおかしかった。ナタを持ち、顔はニヤニヤしていた。こちらを好色そうな嫌な目つきで品定めしているようだった。少女たちは本能的に身の危険を感じた。
「逃げよ!」
京子が叫び、すぐに逃げ出した。三人もそれにつられて動き出した。雅は振り向きざまに、遥と静の手首をぐいっとつかんだ。
「はよ!ついといで。離れんときや!」
男は獲物たちが逃走するのを見て、泥の詰まった爪で鼻の下を掻いた。男の鼻腔に土と鉄、そして油の匂いが充満した。男はニヤリと凶暴そうな歯をむき出して笑い、舌で上唇をペロリと舐めた。
「獲物、逃げ出してもたやんら。お前、ニヤニヤわろとったからあかんかったんやろ」
「いやいや、お前こそ欲丸出しの鬼みたいな顔しとったやんか」
「ははは、しゃあないやろ」
「なんやあれ?」
「私らのこと獲物いうてるやん」
「いやや、なんや気持ち悪いわ」
京子は本能的に生理的嫌悪に見舞われ、必死に足を動かした。
「ほれほれ、どこまで逃げんよんねん?」
「ほらほら、もっとちゃんと逃げぇ。追いついてまうで?」
「女の子ら、そないに走ったかて無駄やけどなぁ」
「「はははははは」」
男たちはニヤニヤ笑いながら追いかけていた。少女たちは懸命に走った。獣道を、男たちから遠ざかる方向に。しかし、前方から別の男たちの声が聞こえてきた。
「獲物、逃げとるみたいやで」
「まだるっこしい。追い詰めてまえや」
「なんやのあれ?なんで私らのこと捕まえなあかんの?」
「そら、よそもんやからやろ」
「なんでよそもんやったら捕まえんの?」
「知られたら困る秘密あるんちゃうん?」
「はあはあ、もうあかん……」
少女たちは必死で逃げた。しかし体力のないお嬢さんたちである。すぐに息が切れてきた。
「こっち、声聞こえよるで」
「はよ捕まえたれや。びっくりしとる顔、見もんやで」
「ほんまやな。はははは」
男たちの声が前方から聞こえてきえた。少女たちは立ち止まった。そして周りを見回した。必死で。逃げ隠れできそうな場所を探して。
「どないしよ」
「あかん、挟まれてもた」
「こっち、道あるで!」
雅が谷底方向に伸びる獣道を見つけた。後ろと前から男たち。彼女たちに選択の余地はなかった。
ガサッ
少女たちは谷に伸びる獣道に足を踏み入れた。先頭から雅、遥、静、京子の順で。
「はははは。こっちに逃げよったで」
「娘っ子さんよ、どこいくんかなぁ?」
「追いかけるでぇ」
谷の上の方から、男たちの声が聞こえた。少女たちは振り返る余裕もなく、一生懸命に逃げた。
「はあはあ」
その時である。限界まで走って息切れした京子がふらりとふらついた。
カタン
京子の足元で乾いた音がした。そして……
ビュン
「きゃあ!いやあ!」
京子が罠にかかった。彼女は足を捕らわれ、持ち上げられてしまった。空高く、逆さ吊りに……
「京子!」
くくり罠だった。静が京子に向かって手を伸ばした。しかし、つり上げられ、ぶら下がった京子の手に、静はあと少しのところで手が届かなかった。
静はさらに指先を伸ばそうと爪先立ちになった。懸命に手を伸ばした。しかし……
ズルッ グラッ
足場の悪い傾斜のついた獣道である。静は足を滑らせ、バランスを崩してしまった。そのまま、後ろ向きに倒れてしまう静である。雅、遥を巻き込んで…… 転がり落ちた……
ゴロゴロゴロゴロ
三人の少女は沢に向けて、転がり落ちてしまった。
「痛ぁ!はっ!京子っ!うっ!」
雅が落下でできた打撲や擦り傷の痛みを堪え、谷の上を見上げて声を上げた。しかし、木の陰に隠れてしまったのか、つり上げられた京子の姿は見えなかった。
「京子っ!はぁはぁ」
雅が痛む身体を引きずりながら、谷への獣道に戻り、坂を上がっていった。遥と静もその後を追った。雅は部長の責任として、己が身代わりになっても、京子を解放してもらうつもりだった。彼女は決死の覚悟で坂道を登っていった。
「このあたりやったはず」
雅は京子がくくり罠で逆さ吊りにされた辺りにたどり着いた。しかし、辺りの木を見ても、周りを見回しても、京子も、男たちも、まったく見えなかった。
それどころか、争ったあとも、草木が踏みしめられたあとも、痕跡はまったく見当たらなかったのである。
「うそやろ…… そんなあほな……」
雅は妖怪に化かされたような気持ちで辺りを見回した。周りは鬱蒼とした森が広がるばかりだった。
「そうや!看板!」
雅たちは獣道を戻った。道を戻りつつ、静は首をかしげた。通ったはずの地面をじっとにらんだ。
「足跡、全然見えへんわ…… 気持ち悪っ」
「ほんまや。前から人の声、聞こえてきてたのに」
雅と遥も、静の疑念に同意した。そして、一行はついに看板のある分岐にたどり着いた。しかし……
看板は…… なかった。それどころか、杭を刺したような跡も、穴を埋め戻したような跡も、全く見られなかった。
「私ら、一体何を見たんや?京子、どこ行ってしもたんや。あの男らは一体……」
「神隠し……」
雅の問いかけに、静がボソリとつぶやいた。その小さな声は、雅と遥の心にやけに大きく響いた。
ヒュウ
風が吹いた。木々がザワザワと音を立てた。三人の少女たちは二月の冷たい風に吹かれ、ただただ、呆然と立ち尽くしていた。
霧はいつの間にか、すっかり晴れ渡っていた。
コポリ…… ゲテ…… ルララララ
風に紛れて声がかすかに響いた。霧が晴れ渡る少し前、谷底に黒い影見えていた。しかし…… その姿は、誰にも見られることはなく、声も誰にも届かなかった。




