4 深山の音と希望の朝
音が聞こえる……
緑豊かな深山に
かすかに風の音に紛れるように……
黒女の慟哭が、黒女の唄が、
聞こえる……
————
ルララララ ルララララ
コポ、コポコポコポ
ザザァ
ナミノオトガキコエル……
ルララララ ルララララ
女の意識は、夢と現実の境を漂っていた。自我のないまま、唄を口ずさんでいた。いつ覚えた唄なのか、それすらも覚えていなかった。風のような唄だった。波のような唄だった。
女の意識が、ぼんやりと浮上してきた……
(気が遠くなるほど、この波の音を聞いてきた……)
数十億の波の音。寄せては返し、また寄せる。
女はその音を暗闇の中で、聞き続けていた。覚醒しては途絶える意識、体に絡みつくドロドロの黒い粘体。
女がこの状態になって、すでに数百年が経過していた。幾年ときが過ぎたのか…… 女の混濁した意識では、もはやわからなくなっていた……
うっ
また粘体が蠢いた。女の身体に寄生し続けている、おぞましき黒き邪気。邪気は再び、じわりじわりと女の生気をすすり吸った。女の意識がぼんやり遠のいていた。
(アタイどうしてたんだっけ…… なんか良い夢みてた気がする…… 何も良いことなんか、なかったはずのアタイなのに……)
ルララララ ルララララ
――――――
ジージージー
ミーンミンミン
藤倉がバイクで吉祥寺に到着した半年前。とある夏休みの朝、兵庫県宝塚市宝梅の久志本家(千剣破の実家)は、セミの鳴き声に包まれていた。日差しは強く降り注いでいた。のどかな朝だった。
もみじの青葉が風に揺れていた。剣奈は金狐や白蛇と戯れていた。庭では犬が嬉しそうに走っていた。
「平和ねぇ」
千剣破が冷えた麦茶のコップを手に、スマホでニュースを読んでいた。
タラララン タラララン
午前十時、スマホから呼び出し音が響いた。画面には電話の発信者の名前が映し出されていた。
神戸家庭裁判所 伊丹支部
剣奈は金狐のふさふさの毛を撫でながら、上機嫌に笑っていた。白蛇は剣奈の肩にのっかり、その様子をニヤニヤ見ていた。
「うふふ。きゅうちゃ、もふもふだよぉ」
キュウウ
「ごめん、剣奈、大事な電話」
「あ、はーい」
剣奈が乙女座りになって、金狐を抱きかかえた。千剣破は着信アイコンをスライドし、マイクをオンにした。
「はい、久志本でございます」
「こちら神戸家庭裁判所、伊丹支部、家事課でございます。先日お申し込みいただきました未成年者養子縁組の件について、ご連絡いたしました」
「お世話になっております」
「玲奈さまの書類審査が終了いたしました。家庭裁判所調査官による面談をお願いしたいと思います」
千剣破はぐっと右手を握りしめた。
「ありがとうございます。日にちはいつになりますか?」
「八月十九日午前十時からでいかがでしょうか。場所は伊丹支部の家庭裁判所相談室になります。一時間ほどの面談になります」
「はい。その日にちで大丈夫です」
「面談対象は申立人の久志本様と、対象者の玲奈さんです。必要でしたら、お嬢様の剣奈さんも同席いただけます」
剣奈が満面の笑顔になった。千剣破は手帳を開き、ペリカンの万年筆でスケジュールを記入した。
「ありがとうございます。当日、その三人で伺います。必要な書類などございますか?」
「家裁許可審判書謄本および被申請者の戸籍謄本をご持参ください。当日は調査官の高島が担当します。当日は神戸家庭裁判所、伊丹支部本館一階、家事相談室二号で行います。庁舎の入口から入り、一階の受付で「養子縁組の面談で来ました」とお伝えください。受付担当が家事相談室までご案内いたします」
「はい。承知いたしました」
「なにかご質問はありますか?」
「いいえ。大丈夫です。ありがとうございました」
プツリ
千剣破が電話を切った。スケジュールに必要事項をメモし終え、彼女は両手でガッツポーズをした。
「うわぁ!玲奈姉!」
剣奈は大喜びでリビングを飛び出し、玄関ホールの階段を上がっていった。
「玲奈姉!」
「んだ?剣奈。何かいいことでもあったのか?」
ドアが開いた。玲奈が寝ぼけた顔を覗かせた。髪はくしゃくしゃで、パジャマ姿のままだった。
「家裁から電話があったよ!十九日の午前十時、面談だって!」
剣奈は階段の踊り場から玲奈を見上げ、元気よく言った。玲奈は目をぎゅっと閉じた。そして想いを噛みしめたまま立ち尽くしていた。




