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黒女の哭音が聞こえる ~拐かしの隠れ里~  作者: 夏風
二部一章 椛乃と伝承会 戦後復興の街から隠れ里へ

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39 紀ノ川 禰宜 軍医と巫女

 ヒュウ

「寒っ!」


 一銭橋にたどり着いた椛乃の髪を、まだ寒い如月の風が撫でていった。椛乃は一銭橋から見た紀ノ川の風景が好きだった。海からの風が春の兆しを運んでいた。

 

 川面は冬の陽射しを受け、静かに夕暮れのあかね色に染まっていた。時おり冷たい風が吹き、水面に細やかなさざ波を立てた。川岸には、枯れた葦と冬木立が並んでいた。遠くに、和歌山城が見えた。


「ん~ いいよね。この景色、ボク、好きだな」 

『じゃのう。何とも平和な眺めじゃ』 

「この景色を、ボクらで守らなきゃならないんだよね」 

『そうじゃ』

 椛乃の言葉に、邪斬が力強く答えた。椛乃はこぶしをぎゅっと握り、使命感に心を燃やした。


 ビュウ


「寒っ!お腹すいたっ!帰ろっか」 

『うむ』

 熱い使命感も、現実の寒風には敵わなかったようである。椛乃、残念。


 椛乃は一銭橋南詰のバス停に向かった。紀ノ川の上流方向に、霞んだ山並みが見えた。川の向こうには田畑が広がり、夕餉の煙がほのかに棚引いていた。


 ブロロロロ ゴーッ


 ディーゼルエンジン特有の低く重いエンジン音が近づいてきた。椛乃は音のする方に目を向けた。クリーム色の車体に、朱色のラインの入った和歌山バスが近づいてきた。


 ブロロロ プシュー

 ギギィ ガタガタ


 バスが停車し、ドアが開いた。椛乃は車掌から整理券を受け取り、和歌山バスに乗り込んだ。丸みのある天井に、裸電球が揺れていた。車内は学校帰りの生徒らで埋まっていた。椛乃は車窓から見える、のどかな町並みと田畑を眺めた。やがてバスが禰宜に到着し、椛乃はバスを降りた。


「ありがとうございました」 

「気ぃ付けてな」

 にこやかにバスの運転手にあいさつした椛乃は、和佐街道(県道一七三号線)を西に進んだ。道路脇に用水路が通り、田畑が広がっていた。椛乃はしばらく歩いた後、和佐小学校の方向に道を曲がった。


 しばらく道を進むと、土蔵造りの旧家が立ち並ぶ屋敷街になった。白壁と黒い瓦屋根が夕暮れの光に色づいていた。椛乃の家、雛川家も夕日に照らされていた。


「ただいまー」 

「お帰りなさい」

 椛乃の母、巫女の流れをくむ真智世(まちよ)が明るく出迎えた。椛乃の実家は、医院兼剣術道場である。椛乃の父、武進(たけのぶ)は、医師であり、剣術師範でもあった。

 

 武進は大阪の国立大医学部を卒業後、従軍することになった。陸軍軍医中尉として、前線や後方の衛生部隊に配属された。作戦や戦闘で、負傷兵の治療に従事した。また剣術の腕を買われ、基地や収容所で、将兵の武術指導も任されていた。

 

 彼は戦場で数多くの命を救ったが、多くの部下や仲間たちを失った。武進は復員後、深い責任と哀悼を胸に抱えて暮らすようになった。復員してしばらくは和歌山市内の病院で勤務していたが、今は実家で雛川医院を開き、地域のかかりつけ医になっていた。剣術師範として、地元青少年の育成も献身的に行っていた。


 椛乃が夜中にふと目を覚ますと、父が誰もいない道場の真ん中で、黙って正座していることが時々あった。その背中は椛乃の脳裏に焼きついている。

 

 武進は慎重かつ厳格な性格だったが、戦争を経て、弱き者や苦しむ人を助けたいと願うヒューマニズムを強く持つようになった。その厳しさとやさしさ、ヒューマニズムが、椛乃の精神的支柱となった。

 

 椛乃は小さいころから、厳しく行儀作法を叩き込まれた。剣術指南も受けた。女だからといって、勉強の手抜きも許されなかった。椛乃は強く、賢く、そして優しく成長した。


 一人称の「ボク」は、男子にまじって剣術修行を行っているうち、自然と用いるようになった。母は「私」と言うようにしつけなおした。椛乃は、家の中ではそれに従った。しかし家の外では、頑として「ボク」の呼称を曲げなかった。

 

 椛乃自身にも、そのこだわりの理由はわかっていない。ただ「私」と自分で言うのが、しっくりこなかったのである。両親はそれを知っていたが、そのうち直るだろうと、半ばあきらめ、うるさく言わなかった。


「食事の支度するわよ。手伝いなさい」 

「はーい」

 椛乃は自室にカバンとコートを投げ込むと、セーラー服の上からエプロンを身に着けた。そして手を洗い、母の食事支度を手伝った。


「学校はどうだった?」 

「うん、今日は国語の授業で、和歌山の昔話をみんなで読んだんよ。先生が淡嶋の話や、和歌山城のことも教えてくれた。みんな面白がってたし、わたしも地元の民話はすごく好き」

 

「そう。それはよかったわね。みんなとは仲良くやってる?」 

「うん、みんなとも仲良くやってるし、先生もやさしいよ。もうすぐひな祭りもあるし、楽しみ」

「そうやね。淡嶋さんの雛流し、もうすぐやね」 

「そうなんよ。わたし、ほんま楽しみなんや」

 

「雛流しは、昔から女の子が元気に過ごせるよう、神さんにお願いする大事な行事やさかいな。お雛さんに、病いとかイヤなもんとか移してな、ほんで海に流すんや。ほしたらきれいな心と体で春を迎えられるんやで」 

「そうなんや、大事な行事なんやなぁ」

 

「せやで。白木の舟にお雛さん乗せて流すとき、海の向こうに願いが届く気ぃするんよ。桃の花とか菜の花を一緒に流して、お祓いするんや。春の海に千羽鶴も舞うさかい、ほんまにきれいやで」 

「うんうん、楽しみやわ!」


 真智世と椛乃が楽しそうに淡嶋神社の雛流しについて談笑していた。この時、椛乃はまさか淡嶋と自分を巡って、あんな大きな事件に巻き込まれるとは、予想だにしていなかった。

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