37 赤児の声
「おぎゃあおぎゃあ」
和歌山県立医大附属病院の分娩室に、力強い産声が響いた。白いタイルの壁が、声を冷たく反射していた。
「はい、産まれましたよ。元気な男の子ですよ」
若い女に声をかけながら、助産婦は手早くへその緒をクランプで挟み、鋏で切り離した。助産婦は白くふやけた赤ん坊の小さな身体を両手でしっかりと受け止めると、銀色のトレイの上にそっと移した。
「よしよし」
彼女は温かい濡れタオルで羊水をぬぐった。赤ん坊の胸が、小刻みに上下していた。赤ん坊の喉の奥からまた、元気な泣き声が響いた。
「体温よし、呼吸よし」
隣で医師がカルテに鉛筆を走らせていた。分娩台の上で、若い女は力の抜けた全身をぐったりとベッドに投げ出していた。白いシーツの上に黒い髪が広がっていた。額に汗がにじんでいた。産科医が女の下腹部と子宮の収縮具合を確認した。
「お母さん、よく頑張りました」
そう声をかけられた女は、ぼうっと放心しているようだった。彼女の耳には、何かの大きな音が反響していた。それが自分の胸の鼓動なのか、赤ん坊の産声なのか、それとも大勢の男たちの声なのか、隣で泣き叫ぶ女の声なのか、自分でもよくわからなかった。ただ、全身を貫いていた痛みの波が、徐々におさまりつつあるのだけは感じていた。
「赤ちゃん、抱いてみましょか」
助産婦が、温められた薄い布にくるんだ赤ん坊をそっと女にわたした。湿った黒髪が赤ん坊の額にはりついていた。しわだらけの小さな手が空を掴むように動いていた。
柔らかい重みが、女の胸もとに落ち着いた。
「あ……」
声にならない声が漏れた。女は恐る恐る両腕を動かし、小さな赤ん坊の身体を落とさないように包み込んだ。指先がかすかに震えていた。赤ん坊の体温がじんわりと伝わってきた。胸の真ん中にぽっかりとあいた穴を埋めるような温かさがわき起こってくるのを感じた。
(この子が……)
赤ん坊を見た時、女は胸が締め付けられるような痛みを感じた。時が止まった…… 彼女の脳裏に、あの夜の、男たちの笑い声が響き渡った。粘つく土の匂い、縄の擦れる音、隣で悲鳴をあげる少女の声、潮騒の音。忘れ去りたい夜の記憶が胸にこみ上げた。涙が溢れそうになった。その時、腕の中で赤子が大きな泣き声をあげた。
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「私の…… 私の子……」
女はかすれた声でそう呟いた。自分でも驚くほど、言葉がまっすぐに心から出ていた。あの夜がどんなものだったとしても、この命は今、自分の胸の上で確かに息をしている。
(この子の温かい命、泣き声。この子に罪は一切ない)
女はそう思い、そっと我が子を抱いた。分娩室の外、ガラス窓の向こうで、両親がじっと立っていた。
「無事、元気な男の子がうまれましたよ」
「そうですか……」
女の母は、看護婦に出産を告げられ、胸に手を当て、小さく息を吐いた。安堵と同時に、どうしようもない重さが、彼女の胸に残った。父は黙ってうなずいた。
(この子に何の罪もない。そやけど、あの事件のこと思たら、正直、どう受け止めたらええんか分からん……)
二人の視線は、分娩室の向こうの扉に向けられたままだった。娘を守りきれなかった悔しさと、産まれてきた命への安堵が、胸の内で綱引きをしていた。どんな言葉をかければいいのか、わからなかった。
喜びや祝いの気持ちはわかなかった。しかし、怒りをぶつける相手もおらず、娘に蔑みを向けるわけにもいかなかった。いたわりの言葉をかけるべきなのは分かっていた。しかし、口にすれば嫌な言葉を言いそうで、二人は口をつぐんでいた。
分娩室の中で、女はそっと赤子の頬に自分の頬を寄せた。涙が一筋、女の横顔をつたった。赤ん坊のあたたかな肌にその雫がぽたりと落ちた。
(誰の子でもええ。この子は、私が守る)
女は、心の中で、静かにそう決意した。海の洞で、名も知らぬ誰かに奪われた夜の記憶——一生消えない傷。けれど、それをこの子に背負わせるわけにはいかない。そう思った。
「おぎゃあ」
赤ん坊は、女の胸の中で小さく口を開け、また力強く泣いた。彼女は愛おしく、そっと我が子を抱いた。
――――
女は赤ん坊を懸命に育てた。赤ん坊はすくすくと育った。しかしその子が三歳になったとき、その子は忽然と姿を消した……
呆然とする女は、残された手紙を強く握りしめていた。そこには、こう書かれてあった……
『久継闇原のもんは、久継闇原へ還る――』
風が吹いていた。ルララララ…… かすかに不思議な旋律が聞こえた。そんな気がした。




