36 謎の声 雛流し神事の夕暮れ
夕暮れ過ぎの加太の海に、舟に乗った色とりどりの雛が漂流していた。参道の石灯籠にともされた小さな炎が、潮風にゆらゆらと揺れていた。
拝殿に、全国から集められた雛人形が並んでいた。緋毛氈の上に、美しく着飾ったひな人形たちが並んでいた。それぞれの個性をもった人形たちが、夕暮れの社で静かに向き合っていた。人形の瞳が、ふとこちらをみたように見えて、雅は思わず息をのんだ。
正午から行われる行事であるが、今日は昼前から大粒の雨が降っていた。横風も激しく、中止が検討されたが、夕方には雨が止むとの予報もあり、開始時間が遅らされたのである。
「陰の気が濃うなってくるさけ、やめといたほうがええと思うで」
誰かがぽそりとつぶやく声が聞こえた。
拝殿前で、宮司が小舟に紙の形代と雛人形を積み込んでいた。形代には、さまざまな筆跡で願い事が書かれていた。健康、良縁、病気平癒、無病息災、子授け、安産、家内安全、学業成就、心願成就、厄除け……
そんな中、ひっそりと祈願文が埋もれていた。
『連れ去られた子が、幸せな人生を歩んでいますように……』
波打ち際に向かう石段は、ほの暗かった。提灯を持った氏子たちが列をつくり、小舟をかついで静かに降りていった。雛人形たちが静かに揺れていた。海から吹き上げる風に袖がふわりと震えた。草履の底が石段をこする音と、砕ける波の音が静かに響いていた。
砂浜には、夕暮れの海が広く広がっていた。沈みかけた太陽が、橙と紅に空を染めていた。空の色は高みにいくほど薄い群青に変わり、静かなグラデュエーションを描いていた。
先ほどまでの風雨が嘘のように静かだった。波は小さく、静かに寄せていた。濡れた砂が、陽に照らされてきらめいていた。
遠くに漁船の灯りが一つ二つともりはじめていた。赤く輝く水平線の上で、あかりが小さく瞬いていた。風は冷たく、潮の匂いを運んだ。
空と海と砂浜の境目があいまいになり、世界がゆっくりと同じ色に溶けていった。津村雅は、移り行く景色の美しさを、じっと見続けていた。
掛けまくも綾に畏き
淡嶋の大前に坐します
少彦名命 大己貴命 息長足姫命の大御前に
慎み敬い畏み畏み白さく
今しここに雛人形を捧げ持ち参集れる女人らの
身にまとわりし諸々の禍事・罪・穢れをば
この人形にことごとく移し託し奉らしめ
海原の彼方 底の国の果てまで
速やかに流し去り給ひて
子らが健やかに育ち行き
病なき身にて日々を送り
良き縁に恵まれ 家内安らかに
笑みと共に齢重ね行くを
平けく安らけく守り導き給へと
恐み恐み白す
宮司の祝詞が低く響いた。祝詞が終わると、巫女たちが桃の花、菜の花を小舟に挿していった。花びらが夕暮れの中で輝き、雛人形の顔は赤く染まった。
「それでは雛をお流しします」
巫女の声とともに、太鼓が大きく、ドン、と打ち鳴らされた。舟が一艘ずつ海に流された。砂をこする鈍い音、そして舟が波に乗り、木のきしむ音が聞こえた。
潮の流れに乗った舟は、ゆっくりと岸から離れはじめた。雛たちは潮風にそよいぎ、気持ちよさげに海の彼方を眺めていた。赤みを増す陽に照らされ、何十もの顔が、まるで意志を持って船出しているように見えた。
「現世の穢れ、災厄を、人形に託し、私たちは祈りを込めて海に流します……」
宮司が説明していた言葉を思い出しながら、雅は海を見つめた。舟が二つ、三つ、夕日に染まる海面に並び、ゆっくりと沖へ向かっていった。かすかな潮の匂いと、湿った冷気が頬をなでた。
『其後少彦名命、行至熊野之御碕。遂適於常世郷矣。亦曰、至淡島、而縁粟茎者、則弾渡而至常世郷矣……』(日本書紀神代上・第八段・第六の一書)
『そののち、少彦名命は熊野の御崎へと行き、ついには常世の国へと赴かれた。また淡島に至り、粟の茎によじ登ったところ、その茎にはじき飛ばされて、常世の国へと渡られたのだ、とも伝わる』
(そんな話を昔聞いたわね。消えたあの子は常世の国に行ったのかしら?そして幸せに暮らしているのかしら?)
ザザァ
突然大きな波が立ち、舟が勢いよく沖に流された。波の衝撃で、舟の上の雛のひとつが、ぐらりと首をかしげた。落ちかけた顔が、雅のほうを向いた気がした。
風が止んだ。波音が遠のいていった。境内からのざわめきも、いつの間にか消えていた。暗くなりゆく海、遠くの漁火、沖へ流れていく白い舟。世界が二重にぶれた気がした。あの時の感覚が呼び起こされるようだった。
「お母さん……」ルララララ
かすかにそんな声、そして不思議な旋律が聞こえた気がした。
振り返った雅の目にはただ、淡嶋神社の朱色の柱と去り行く人たちが見えるのみだった。
加太の風が静かに吹き抜けた。祭りは終わり、静寂が訪れていた。雅の心には、先ほどの情景と、小さな声、そしていつか聞いたような旋律が、いつまでも残っていた。




