29 紀伊の暗闇 久継村
ある朝、畑仕事を終えた老人が歩いていた。
「おはようございます。このあたりの伝承を調べているのですが」
そう言いながら、藤倉が名刺を差し出した。
「ほほう。鶴甲大学の先生さんね。ちょうど朝の仕事終えたところだで。ワシの昔話でも聞いていくかね?」
「はい。ぜひ!」
藤倉らは老人の後に続いた。老人は古びた民家に入っていった。一息ついた老人が縁側に座って話を始めた。剣奈が目をキラキラさせながら老人を見つめていた。
老人は、かわいい美少女に見つめられ、気分を良くして話し続けた。玉藻は金狐の姿で剣奈の膝でくるまっていた。白蛇はこっそり、剣奈の服に潜り込んでいた。
「ほんま、この戸津井鍾乳洞もな、ワシがまだガキのころやったわ。今やったら誰でも観光に来るけど、昔は気味の悪いとこでな。村のもんでさえ、日が暮れたら近づかんかったんじゃ。あれはな…… ワシがよう遊びに行ってた夏休みのことやった。戸津井の奥から、時々知らん顔した男と女が洞窟に入っていくのが見えたんよ。どこから来たんかも、誰の親戚かもわからんかった。それが、毎日でも行ったり来たりしてな、村のもんも内心気味悪がっとった。なんやな、歌みたいなんが、ずーっと聞こえちゃぁるんじょ。ワシはの、好奇心だけは人一倍やった。ほんで、ある日こっそりあとをつけてみたんよ。男と女は洞窟出てから、山の方へ細い獣道みたいな道を進みよった。ほんで、急に深い林の中で、ふいっと消えたんや。ほんまに、目ぇ離さんかったのに、どこ探してもおらへんかった。ただ、悲鳴みたいなんがな、ずっと聞こえちゃぁったんじょ。けったいな感じして、身体がぞわぞわしてな。その晩からや…… ワシ、熱出して寝込んでしもた。三日も四日も、うわ言みたいなこと口ずさんでたって、婆ちゃんが言うとった。夢の中でな、暗ーい山の奥で、真っ黒い神さんが村を守っとる。なんがぼんやり見えた気がしたわ。なんでもそれは裏高野の久継闇原村いうんやそうな。今思えば、あれは闇神さんと黒女さんやったんやないかな。ほんま、昔の村には誰にも言えん秘密があったんや……」
老人が語りを終えた。しんとした静寂が訪れた。藤倉は老人の話を頭の中で整理した。
(有田川をさかのぼったところに、不思議な村がある。その村人たちは何度も戸津井鍾乳洞に出入りしていた。老人が子供のころ、彼らの後をつけた。彼らは山の中で忽然と消えてしまった。歌のような声がずっと聞こえてきていた。悲鳴のようなものも聞こえてきた。その後、少年は何日も熱でうなされた。そして少年の祖母が、彼らは暗い山の奥で、真っ黒い神と黒女を奉っている話をした……)
藤倉はさらに考えた。そして思い出した。有田川上流に「隠れ里伝説」があったことを。そしてそれは杉野原と呼ばれる山村だったことを。また、有田川上流の集落地は裏高野と呼ばれる別称で呼ばれていたことを。
(高野の裏、すなわち聖なる地の裏。それは…… 邪を暗示していないか…… その久継闇原村、そして歌と黒女。間違いなくそこに玲奈はいる)
「お爺さん、ありがとうございます!とっても興味深いお話でした」
藤倉が老人に礼を言った。
「いやいや。こんな昔話がなんか参考になるんかの。もしかしてこれ、本かなんかになるんかいの?」
老人は少し期待したような顔を藤倉に向けた。
「いえ、今はまだお話を集めているだけですので、まだまだその段階では。これは少ないですがお話のお礼に」
藤倉が一万円を封筒に入れて差し出した。老人はニコニコしながらそれを受け取った。
「ありがとう!お爺さん!」
剣奈が笑顔でお礼を言った。藤倉たちが民家を出た。
「手掛かり見つかったね!」
剣奈が期待に満ちた顔で藤倉を見上げた。
「ああ。行くよ!」
藤倉が決意を込めた顔で言った。太陽は明るく藤倉たちを照らしていた。




