27 その流されし神
淡嶋神社、和歌山加太の海近くにある神社である。人形供養や雛流し神事で知られている。 淡嶋神社は全国に二十社あまり、関連神社(淡島神社・栗島神社・淡路神社など)を含めるとその数、千を超えるという。加太の淡嶋神社はその総本山である。
淡嶋神社の主祭神は少彦名命である。婦人病・安産・縫製など、女性に関連したご利益があるとして古くから信仰されている。社伝は言う。かつて神功皇后が三韓征伐からの帰途、激しい嵐に見舞われた。沈みそうになる船の中で、彼女は必死に神に祈りを捧げた。すると、「船の苫(屋根)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ」とお告げがあった。
彼女はお告げの通りにした。すると友ヶ島に漂着し、彼女ら一行は命を繋ぐことが出来た。そしてその友ヶ島に奉られていたのが少彦名命と大己貴命(大国主命)であった。
後に神功皇后の孫の仁徳天皇が、友ヶ島を狩りで訪れた。その際、神功皇后のそのいきさつを聞いた。彼は、このような島では不便であろうと考え、お社を対岸に移した。それが加太淡嶋神社の起こりと伝えられる。
「淡嶋」の名は、友ヶ島(群島)のうち流れ着いた島が、淡嶋と呼ばれていたことに由来する。
藤倉の頭の中では、無意識的に次のような推論がなされていた。少彦名命は、蛭子神、恵比寿神、淡島神ら三柱と同一視されることが多い。その共通点は「流された神」「漂流する神」である。
『古事記』『日本書紀』は言う、伊弉諾尊と伊弉冉尊の第二子として淡島が生まれたと。しかし淡島は『成りに成りて、成らざる処ひとところ有り』、つまり身体の一部が不足した状態で誕生した。このため、二柱は淡島を流したのである。
(淡路から紀伊、不遇なるものが流された道…… 太古からある人の想いの積み重なった確かなる回廊……)
また『日本書紀』や『伯耆国風土記』では少彦名命が和歌山から粟島(淡路島・淡嶋)を経て常世国に至る話を記している。すなわち、
『其後、少彦名命行至熊野之御碕、遂適於常世郷矣。亦曰、至淡嶋、而縁粟茎者、則弾渡而至常世郷矣』
『この後、少彦名命は熊野の岬に至り、そこから常世の国へ行った。淡嶋に至り、粟の茎につかまったところ、はじかれて常世の国へ渡ったと』
『日本書紀』神代下第八段一書六
(……伊豆と熊野…… 海と地脈、そして伝承のつながり…… 地龍の通りし道はこれか……)
藤倉の脳内では、「役小角」「空海」「徐福」「龍」「龍脈」「伊豆」「海の道」「和歌山」「漂流」「漂着」「淡嶋神社」「女性守護」「少彦名命」「蛭子神」「淡島神」「淡路」「南海トラフ」「相模トラフ」「黒潮」「海の道」などの知識が駆け巡り、一気に有機的につながっていった。
淡路から加太への古の道。淡路から流された淡島伝説。人々の信じるその伝承の道。玉藻に脅威を感じ、玲奈を吞み込んで逃走を図った闇坂村の邪気。
邪気が玉藻の脅威から逃れるためのとっさの判断で、淡路から加太へつながる古の道をたどった、そう藤倉は考えたのである。
(邪気は玉藻さんから距離をとるため、とっさに古の回廊に身を投じ、紀伊に逃れた。だが、それでもまだ恐れていた…… 九尾の影を…… だからさらに身を隠す場所が必要だと考えた。そして見つけたんだ。地脈に通じる深く暗い洞窟を――戸津井鍾乳洞を。そこを、邪気は絶好の隠れ家とした…… そしてそれを嗅ぎつけた地龍は地脈の道で紀州にいたり、篠の道に剣奈ちゃんを導いた…)
藤倉は改めて熟考した結果、己の直感に間違いはないと確信した。
玲奈の消失から、八か月がたとうとしていた。そして今…… ついにその邪気の尻尾を見つけた。藤倉はそう確信した。
彼は高ぶる気持ちを抑え、静かに海を見ていた。
ザザァ
海はただ、静かに潮騒の音を響かせていた。藤倉の耳に、かすかに歌が聞こえた。そんな気がした。




