25 荒ぶる川に風ぞ吹く
(誤解を解けば、両親と玲奈の和解は可能か?)
千剣破はその可能性を考えた。何度も何度も考え抜いた。人様の子を奪うのである。血のつながりを断つのである。生半可な覚悟ではできない。
千剣破は夜の静けさのなか、何度も何度も、椅子に坐って天井を仰いだ。どれほど思い悩み、どれほど理屈を重ねても、答えは出なかった。
血の絆、真の親子、和解、加虐、身体的暴力、精神的暴力、性的暴行、心の傷、愛情、慈しみ、信頼、裏切り、許し、放免、喪失、断絶、理解、無理解、孤独、救済、トラウマ、癒し、選択、意思。
さまざまな問いが頭に思い浮かんだ。それらが千剣破の脳内を去来し、ぐるぐる巡った。心は重く沈んだ。答えは…… 見つからなかった。「人様の子を引き離す」、その決断が、途方もなく無慈悲に思えた。
しかし、しかしである。玲奈の壊れた魂、両親による暴力と性的虐待の影が、幾度も繰り返し脳裏に浮かんだ。心と身体を引き裂かれるような苦しみは、時を経ても癒されることはない。しかも禁断の間柄である。明らかに一線を踏み外した鬼畜、狂気の沙汰である。血を分けた両親。もしかすれば、すべてが行き違いの果てだったのかもしれない。善良であろうとした二人。娘の誕生に、確かな希望を抱いたはずだった。しかし我が子を幸せにするはずのその手で、その子を絶望に突き落としたのである。
(誤解を解けば、時が癒せば、傷はふさがるのか?)
千剣破は何度も自問した。その問いに、幾度となくもがいた果てに、ついぞ答えが出ることはなかった。
許すべきなのか、許されざるべきなのか。その問いは、いつまでも空転した。幾たびの夜が巡り、千剣破の心はさいなまれ続けた。
(いや、無理だ。あの親はもう壊れていた。もう牛城家の親子の絆はやりなおせない。やはり玲奈は、私が守ろう)
玲奈を実親から引き離し、千剣破家に引き取ると決めたのは、千剣破の人としての本能だった。
(傲慢な決断でもいい。玲奈の運命を縛るものでもいい)
玲奈は決して父母と和解などできない。どれほど理を尽くしても、どれほど時を重ねても、親から与えつづけられたその深すぎる傷は癒えない。身体の傷は癒えるだろう。しかし……
(彼らは超えるべきではない一線を越えた。玲奈の心、魂を深く傷つけた。傷つけ続けた。いや、えぐり続けた。もうあの親子の運命は交わらない。玲奈を救うためには断ち切るしかない)
千剣破は深くうなだれ、頭を掻きむしりながら考えた。
(いや、それでも、生半可な覚悟で人の子を引き取るな。同情で動くな。血で繋がれた者の断絶は、魂の断絶に等しい。同情ではダメだ。義務でもダメだ。責任なんて考えるな。私の…… 人としての矜持、母としての本能。それだけを考えろ。理屈じゃない。本能、心の底からの衝動、それに従うしかない)
本音を言えば…… 剣奈があれほど玲奈を慕っていなければ、玲奈があれほど献身的に剣奈に慈しみを見せなければ……
(気の毒に)
そんな風に気を病みながらも、人様の家庭に手を出さなかったろう。
チクチクチク
時計の秒針が静かに響いた。夜のとばりの中、千剣破の決意は、重く、深く、静かに、胸の奥に刻まれていった。
――――
「お母さん!」
はっ
剣奈が明るく叫んだ。千剣破の心が急に現実に引き戻された。武庫川の水面が、夏の太陽の光にきらきらと輝いていた。玲奈は静かに剣奈を見つめていた。慈しみをもって。ルララララ ルララララ。千剣破の耳に歌が聞こえた気がした。
(歌?いつも玲奈が唄ってるからかしら。玲奈、あなたの表情から影は消えていないわ。今はそれでいいの。私は、ありのままのあなたを精一杯受け止めよう。そして、出来る限りの愛を、あなたに注ごう。あなたの気持ちを、全力の愛で上書きするの)
千剣破はギュっと目をつぶった。ルララララ ルララララ。歌が心地よく響いてきた。その歌は、千剣破を励ますような、後押しするような歌だった。彼女は目を開いた。そして、気弱な女の顔を、動じない母の顔で上書きした。
(玲奈、私の娘。剣奈の姉。二人まとめて私が守る)
ヒュウ
武庫川に風が吹いた。川のせせらぎが歌を奏でた。暴れ川、向こう川、六甲川……
武庫川流域には素戔嗚尊や牛頭天王を祭神とする神社が多い。尼崎市内だけで二十五社以上、宝塚市内にも素盞嗚神社が七社ある。素戔嗚尊の加護を受けて生まれた玲奈。はたしてこの絆が、神に導かれたものなのか、ただの偶然なのか。この歌が祝福なのか。
千剣破にそれを知るすべはなかった。




