12 その祝福は呪いになった
おぎゃあ、おぎゃあ
五月五日、こどもの日、真理子は長女を出産した。神戸市立医療センター西市民病院の分娩室に、元気な産声が響いた。
竜作は小さな命を初めて抱きしめ、「この子を守りたい」そう強く誓った。
廃業の苦しみ、震災で消えた夢、もう戻らない希望に満ちた日々。それでも、自分に残された、家族の温かさ、それだけは、どんなことがあっても守り抜こう。そう心に決めた。
(なんて綺麗な眼しとんねん)
娘は美しく清らかで、栄えあれとの思いのもと、「玲奈」と名づけられた。
竜作、真理子、玲奈、三人の人生が始まった。
――――
ぎゃああ、ぎゃああ
「おお、どうしたのかのぉ。わしは嫌われておるのかのぉ」
山田がしょげた声を出した。玲奈は山田を見るたび、大声で泣き叫んだ。
「玲奈、いい加減にしなさい!」
恩人への失礼な態度に、竜作は不機嫌になった。真理子は玲奈を叱った。
玲奈は生まれつき、人の見えないものを視る目を持っていた。玲奈が小さいころ、夜、布団に入ると、天井の隅から、ナニカがやさしい声が子守唄を歌ってくれた。玲奈はその声を聴きながら眠りについた。母は、玲奈が寝つきのいい、手のかからない子だと喜んだ。
そんな玲奈が山田に見たもの。それは山田に寄り添う、多くの霊と怪異である。阪神淡路大震災で、多くの人が亡くなった。長田では、千人近くの命が奪われた。そのうちのあるものは成仏できず、水辺で浮遊霊や地縛霊になったり、怪異に取り込まれたりした。
兵庫県には水辺に潜む怪異が、人や家畜を襲うという伝承・伝説が古くからある。怪異は人に取り憑いたり、生気を奪ったりもする。兵庫の水の怪異・妖怪伝説は、奈良時代初期に編纂が始まった『播磨国風土記』にすでに見られる。
風土記は言う『宍粟郡・賀古郡・印南郡・播磨などに「川に棲む怪物」「水神の祟り」あり。それらはときに人にさわりをもたらす……』と。
長田は、かつての播磨国賀古郡長田里である。風土記に加古郡で、『川や池のほとりで、水の祟りに触れた者が、急病や不幸に見舞われた』との語りが記されている。
山田は気風が良く、人望の厚い男だった。水の怪異や霊たちは、山田を慕って集まった。怪異や霊に、悪気はなかったかもしれない。しかし、憑りつかれた山田は、生気を吸われ、命を奪われつづけた。
玲奈には、山田に取りつく、多くの怪異や霊が見えた。それが玲奈を怯えさせ、泣かせていたのである。
玲奈の両親に、そのことはわからない。ただ、「恩人に失礼な態度をとる嫌な娘」との感情が残った。そして…… ほどなく山田は身まかった。竜作も真理子も、恩人の死を悼んだ。
その葬式で、玲奈は大泣きした……
玲奈には見えた。山田に縋りつき、霊界に連れて行こうとする怪異や霊の姿が。玲奈の怯えは、当然であった。
しかし……
パシン
「いい加減にせえや!」
「うわぁぁん」
頬を叩かれた玲奈は、ますます大泣きした。竜作は怒りに震えた。大恩人の山田社長の葬式なのに、娘のせいでケチがつけられたと思ったのである。
(いい加減にせえ!どん底に落ち込んでた俺を、救ってくれた恩人なんやで!)
竜作はいたたまれなくなった。遺族の視線が非難しているように感じられた。周りからの視線が辛かった。なにより、大恩ある山田への、娘の態度が許せなかった。
「そいつを連れ出せ!」
竜作が不機嫌を隠そうともせず、真理子に命令した。真理子はビクッとなった。玲奈のせいで、自分まで竜作に嫌な目で見られていると思った。
ルラララ ルララララ
「なんやねん、うるさいわ」
風に溶けた歌、竜作の好きだった歌。それが、いつしかとても耳障りになっていた。
真理子は、怒り狂う竜作を恐れた。彼女は大泣きする玲奈を抱きながら、黙って斎場を後にした。みんなの目がいたたまれなかった。夫の怒りが怖かった。そんな目に合わせた憎い子…… 真理子が玲奈を見る目は…… 汚物を見るような目になっていた……
――――
人ならざるものが視えること、それは、玲奈にとって、それは当たり前のことだった。
お風呂場の曇った鏡には、いつも誰かが手形を残して遊んでいった。道を歩いていると、見知らぬ大人や動物が微笑みかけてきた。玲奈は普通に会釈を返した。
玲奈がひとりで遊んでいると、ふわふわと光の玉や影が隣に現れた。玲奈は当然のようにそれらに話しかけ、遊び続けた。町や幼稚園で声をかけてくるのは、友達だけではなかった。誰もいない廊下やロッカーの奥から、ナニカの声が聞こえる。玲奈にとって、いつものことだった。玲奈が眠っていると、耳元で歌が聞こえた。ルララララ ルララララ。玲奈はその歌声がとても好きだった。その歌声を聞いていると、いつしか気持ちいまどろみに包まれた。
自宅アパートで、窓辺に時々、知らない女の人が立っていた。手を振ってくるので、玲奈も笑顔で手を振り返した。引き出しや押入れから、小さなナニカがひょこっと顔を出すことも、よくあった。玲奈は、仲良くナニカと一緒に遊んだ。彼女の周りはいつも歌が絶えなかった。彼女は幸せだった。
――――
玲奈が三歳になった。初夏の日差しがやわらかく降りそそぐころ、玲奈は母と手をつないで歩いていた。鉄人二十八号が、駅前にそびえ立っていた。玲奈は母の手を離れ、鉄人の足元に駆け出した。
玲奈は無邪気な笑顔を浮かべていた。ニコニコと微笑みながら、くるくる鉄人の足のまわりを走っていた。誰もいない空間に向かって小さな手を振りながら……
玲奈は立ち止まり、にっこりと誰もいない方に、満面の笑顔を見せた。ルララララ ルララララ。誰もいない空間に向けて、彼女は機嫌よく唄っていた。
「玲奈、どうしたの?」
真理子が声をかけた。玲奈は嬉しそうに振り返った。けれど、まだ言葉にできるほど、自分の見ているものの名前も、意味もわからなかった。唄っている意味も分からなかった。玲奈は鉄人の足元で、透明な誰かと手遊びをするように宙をなで、歌を口ずさみ続けた。
ヒュウ
風がそっと通り過ぎた。笑顔の影が、鉄人の足もとに映った。真理子はそんな玲奈の姿を、微笑ましく見つめつつ、心の中で、なにか気味の悪さを感じていた……
―――― 五月五日 誕生日
玲奈が五歳になった。玲奈の誕生日のお祝いが開かれた。小さな部屋に、色とりどりの風船が転がり、ケーキの甘い香りが部屋中に漂った。玲奈は、両親からプレゼントを手渡され、無邪気な笑顔を満面に浮かべていた。
ふと、玲奈は部屋の隅、薄暗い角に目を向けた。彼女は瞳を輝かせながら言った。
「ねえねぇ、おかあさん、あそこ!来てくれたよ!いつも一緒に遊んでるお友達が、玲奈のお誕生日にお祝いに来てくれたの。いつもお歌を歌ってくれるんだよ」
玲奈が嬉しそうに言った。誰もいないはずの空間に向かって、話しかけた。真理子は、微笑みを浮かべかけたまま、表情が固まった。
「……え、誰が来たの?」
玲奈が、無邪気な声で答えた。
「ほら、あそこ。いつも遊んでるお友達!」
竜作が、ちらりと部屋の角を見た。しかし、そこには風船が一つ、ゆっくり揺れているだけだった。
「玲奈、お友だちなんかいるわけが……」
真理子の声は、震えていた。玲奈は部屋の角に向かって、にこにこ手を振った。そして彼女は口ずさんだ。ルララララ ルララララ。
「おいで。一緒にケーキ食べよ!」
竜作と真理子は、顔を見合わせた。誕生日の部屋を、重苦しい沈黙が包んだ。風船の影がゆらりと壁に伸びた……
パシィ
「気味悪い!」
真理子が、玲奈の頬を叩いた。
「うわぁぁぁん」
玲奈が大声で泣き出した。
ぱぁん
窓際の風船が割れた…… そこには誰もいないはずなのに……
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
怒られた玲奈は、訳が分からず、ただひたすらに謝り続けていた……
素戔嗚尊によりいただきし魔眼。災いを遠ざけ、幸を見る。そして祝福の歌。健やかに、魔を遠ざけるように、祈りが込められた歌。しかし二人には分からなかった。ほんのわずかな誤解から、
その祝福は、呪いになった……
この子は厄を呼ぶ子……




