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黒女の哭音が聞こえる ~拐かしの隠れ里~  作者: 夏風
一章 震災の轟音が奪う人の道 希望と絶望、虐待と搾取

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11 妊娠と結婚 牛頭天王の影

 九月初旬、いつものように夜風を一緒に出た二人は、手を繋いで歩いていた。御蔵橋の真ん中で、真理子がふと足をとめた。


 真理子は、竜作を見上げながら言った。


「子供が出来たの」

 真理子の告げる懐妊の報せは、竜作の頭の奥でゆっくりと響いた。どこか他人事のような気がした。

 

「俺の子か?」 

「なにいうてんの。他に誰がおんの」 

「すまん……」

 竜作の喉の奥が、ひりひりした。竜作は戸惑った。喜びでもなく、絶望でもなく、ただ心に石を投げ込まれたような、鈍い衝撃を受けていた。

 

 竜作は自分が親になる実感が、持てなかった。自分に何ができるのかも、分からなかった。彼は震災で両親を亡くした。川口オヤジも工場も、瓦礫と消えた。死ぬ思いで頑張った自分の工場も立ち行かなくなり、廃業してしまった。

 

 その後は流されるように、酒とパチンコにおぼれる日々を生きた。山田に救われた今も、未来は霧に覆われたままだった。夢も希望も持てなかった。


 暮らしは貧しかった。貯金もなかった。稼ぎは全部、夜風の飲み代につぎ込んでいた。鉄の匂いと酒の残り香しか、竜作にはなかった。


「俺、貧乏なんや…… 養っていける自信がねぇ」 

 竜作は自嘲気味に打ち明けた。真理子は静かに首を振った。


「産みたいの。あの日、たくさんの命が失われた。家族も、友達もおらんなってもた。貧しくてええ。あんたと、子供、私。三人で一緒に暮らしたい」

 竜作は黙って聞いていた。言葉を探した。しかし見つからなかった。竜作はもう一度、言葉を探し、やがてぼそりとつぶやいた。


「……俺でええんか?」


 真理子は微笑んで頷いた。

「あんたがええの……」


 竜作は真理子の美しい顔を見つめ、彼女の言葉を、心で反芻した。御蔵橋のたもとで、暖かな風が川面をかすめて吹いた。


 竜作の心は、さざ波のように揺らめいた。真理子はそんな彼を見ながら、そっと竜作に寄り添った。欄干に手を添え、ふう、と息を吐いた。


「大丈夫。どんな貧乏でも、二人で頑張ったら、どうにかなる…… 私、ずっと一人やったから、三人で…… 家族で暮らせると思たら、ほんま嬉しい……」


 竜作は、新湊川を流れる水音に、耳を澄ませた。竜作には生きる希望も夢も、なにもないと思っていた。けれど今、真理子の中に、二人の子の命が芽生えた。竜作は、真理子の肩を不器用にそっと抱いた。


「俺…… ほんまに自信ないんやけど…… けど、真理子が一緒に居てくれるなら…… 俺、なんとかやってみるわ」


 真理子は春風のように、ふわりと微笑んだ。そして竜作の腕に、しなだれかかった。

「それだけで、十分……」


 欄干の向こうで、暗い水面に街灯りが揺らめいた。二人はしばらく黙って、しっかりと抱き合っていた。ぽつりぽつりと、会話が始まった。


「金ないけど…… 俺、ちゃんと働くわ。真理子と子供、俺、守るわ」 

「私も頑張ります。一緒に暮らそ」


 静かな夜風が、二人の頬を撫でていった。不器用で、貧しくて、失うものばかりだった二人。けれど今、そっと手を繋いだ温もりは、二人の胸を温かく満たしていた。

 

 二日後、二人は婚姻届を提出した。保証人欄には、山田製作所・山田社長、そして夜風のママ・久美が署名した。竜作は震える手で自分の名前を書いた。


 ――――


 二人の結婚式は長田祇園神社で行われた。長田祇園神社は千百年以上の歴史を持つ神社である。

 

 平安時代末期の貞観十一年(八六九年)、京都で疫病が流行した。疫病の神を鎮めるため、姫路の広峰神社から素戔嗚尊の分霊を京都八坂神社(祇園感神院)に勧請(かんじょう)した。


 その時、お神輿行列が神戸に一泊した。地元民はそのご神徳に感謝し、宿泊した場所に祠を建てた。それが長田祇園神社創立の由来である。


 祇園神社の主神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。素戔嗚尊は牛頭天王(ごずてんのう)と同一視される。


 牛頭天王はインド祇園精舎の守護神である。平安時代の神仏習合(九~十二世紀)により、素戔嗚命と同一視されるようになった。牛頭天王は、祇園社(現八坂神社)などに祀られ、農作物の害虫除け・邪気払い・疫病退散・厄除け・災難除けの神様として信仰されている。


 長田祇園神社は、「平野の祇園さん」と呼ばれ、親しまれてきた。江戸期までは「天王社」とも称された。地域の「祇園信仰」「天王信仰」の中心となった由緒正しき神社である。


 長田祇園神社では毎年七月に、大きなお祭りとして祇園祭が実施される。そこでは夏越の祓(なごしのはらえ)茅の輪(ちのわ)くぐりが催される。参拝者は厄除け・疫病除け・無病息災を願い、作法にのっとって茅の輪をくぐる。


 この茅の輪くぐりは、蘇民将来(そみんしょうらい)伝説に端を発している。昔、旅のもの(素戔嗚尊=牛頭天王)が、宿を借りようとした。その時、裕福な弟(巨旦将来(こたんしょうらい))は、宿を断った。貧しい兄の蘇民将来は、粗末ながらも懸命にもてなした。


 神はその恩に報い、蘇民将来の子孫に茅の輪や護符を授け、災厄・疫病から免れるように守ると伝えた。


 こうして茅の輪くぐりは、「救済」「厄除け」「疫病祓い」の象徴となったのである。


水無月の 夏越の祓する人は

千年(ちとせ)の命 延ぶというなり

  

 茅の輪くぐりの際の唱え詞である。


 参拝者は、この詞を口ずさみながら、左、右、左の順で茅の輪をくぐる。そして、本殿に赴き参拝する。この神事を通して、参拝者に積もった穢れや災いが祓われ、心身の清浄と健康のご加護を得られる。長田祇園神社の茅の輪くぐりは、長田の人にとって毎夏の風物詩なのである。


 ルララララ ルララララ 誰かが唄っていた。竜作は振り返った。しかし誰もいなかった。歌声だけが風に溶けていた。


 竜作の両親は毎年、茅の輪くぐりを欠かさなかった。竜作は茅の輪くぐりが好きだった。親に連れられ、歌を聞くのが好きだった。誰が唄っているかもしれなかったが、懐かしいような、切ないような気持にさせられた。彼は毎年のように茅の輪くぐりを訪れるようになっていた。


(こんな俺が、人の親になる。真理子と生まれる子が、いつまでも健康に、長生きしてほしい)

 竜作の願いであった。ほのかな希望が、竜作の胸を温めていた。歌がどこからか聞こえてきた。


 ビュウゥ

 

 結婚式の最中、強い風が吹いた。真理子は自分のお腹に、あたたかさが満ちるのを、確かに感じた。震災で両親を失った二人が灯した、命の灯火、希望の灯火。真理子は、神様のご加護がお腹の子に宿った、そう信じた。

 

 もし…… このときの想いを、真理子が持ち続けていたなら…… 玲奈の人生は、大きく変わっていたのかもしれない…… 

  

 竜作と真理子は、一緒に暮らし始めた。生活は苦しかった。けれど二人、寄り添うことで、将来への希望を感じられるようになっていた。

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