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第69話 「神様だからって踏み倒す気?」――人生を狂わせた不条理なヤンデレ天使、強欲令嬢に全財産を差し押さえられて『スズメ』になる

 


「ねぇ、そろそろボクに願う気になったかい? もう手元に魔石もないでしょう?」


 エクスの白く冷たい指先が、愛おしげにエルレアの唇に触れ、なぞるように首筋の黒い刻印へと辿り着いた。


「君がボクを拒絶すればするほど、君の回路は狂い、二度と魔法を取り戻せない。……さあ、次はどうする?」


 エクスの金色の瞳が、極上の愉悦に細められる。迫り来る圧倒的な神の誘惑を前にして――エルレアは、小さく自嘲気味に笑った。


「――可哀想な天使様。世界に救いを与えながら、本当は、誰よりも救われたかったのね……いいわ」


 エルレアは、そっと自らの手を差し伸べた。


「おいで。貴方の言う絶望の世界も、思ったより悪くないって――私の天秤で、全額買い叩いて見せてあげる」


「エルレア……っ!」


 エクスが歓喜に魂を震わせ、差し出された手を強く掴んだ、まさにその瞬間。


 エルレアの薬指の『魔塔主の指輪』から、時空を歪めるほどの爆発的な深紫の魔力が噴き出した。


「なっ、これは……!? 身体が、沈んで――」


「ひっひっひっ。僕の許可なく、ぼくの宿主に触ろうなんて、一億年早いんだよね、新参の神様」


 現実の空間が硝子のように派手にひび割れ、二人の意識は一瞬にして底知れぬ夜の底へと引き摺り込まれた。


 気がつけばそこは、夕陽が沈む直前の、生と死の境界線のような空の上だった。淡い紅色の残光と、薄闇に瞬く不吉な星空が押し寄せる逢魔時の虚空。


 幕を引く世界の外殻を包み込むように、底の割れた巨大な紫色の「深淵の瞳」が、彼らを見下ろしていた。


「ここは……夢? いや、神魔戦争の生き残り……夢魔の王の固有領域……!」


 世界の制約から完全に解き放たれ、真の姿を取り戻したネムの圧倒的な闇の波動に、エクスが初めてその顔を驚愕に歪める。この精神の檻の中では、神の威光すらも黒く腐食していく。


「さあ、エクス――これより、不条理な過去の商談を始めましょうか」


 エルレアは、胸の奥深くに死守していた最後の切り札――母の形見であり、アストレイン家に代々伝わる「悪意を吸い込む魔導ブローチ」を迷わず掲げた。


 戦闘には使えずとも、精神のディールにおいてこれ以上の器はない。かつてエルレアの魔力を強奪した神への、利息付きの一括請求だ。


「神様だろうが何だろうが、私の人生を邪魔したツケは、その身を削って支払ってもらうわ! ――全部、よこしなさい!!」


 ブローチの術式が過駆動し、エクスの身体から莫大な純白の神気が奔流となって吸い上げられていく。


「う……っああ、あああ、あああああ……っ!」


 エクスが絶叫を上げる。神としての絶対的な神威、世界を書き換える能力の大半が、エルレアの強欲な天秤によって強制的に剥ぎ取られていく。


 しかし神の全出力を吸い込んだ魔導ブローチは、精神の圧力に耐えかね、パキンと派手な音を立てて粉々に砕け散ってしまった。


「く、ははっ……! ……器が、保たなかったみたいだね……っ!」


 エクスが苦しげに息を吐き散らしながらも、形勢逆転を確信して歪んだ笑みを浮かべた。


 だが、エルレアの辞書に「諦める」という言葉は最初から存在しない。


「いいえ、まだよ。――計算通り」


 エルレアは躊躇なく、自らの首筋に刻まれた黒い刻印へ直接、指先を突き立てた。


「あなたを拒絶するから魔法が使えない? なら――その呪いごと、丸ごと受け入れて支配してあげるわ!!」


 瞬間、エクスとエルレアを繋ぐ刻印のパスが、猛烈な勢いで逆流を始めた。


 人という器には到底扱い切れない、神力の暴虐な奔流。肉体と精神が内側から爆発しかねないほどの激痛に、エルレアは血が出るほど強く歯を食い縛る。


「あ……ははっ……っ! これだ……これだよ……!」


 全身の神力を強欲に強奪される激痛の中、エクスは苦痛に顔を歪めながらも、まっすぐに自分を睨み据える翠の瞳の猛々しい命の輝きに完全に魅入られていた。


 彼が求めていたのは、神の前に跪き、涙を流して奇跡を乞う従順な人形などではない。

 永遠の退屈の果てに焦がれ続けたのは――過酷な不条理すらも食らい尽くし、泥に塗れて自らの足で未来を掴み取ろうとする、人間の強欲な命の輝き。


 神の不条理すらも笑って踏み倒してみせるこの少女なら、自分を退屈から救い出してくれると予感したからこそ、エクスはこの魂に執着したのだ。


「く……あ、う……ぅ……っ!」


 エルレアは全身を焼き尽くしそうな魔力の圧力に膝をつきかける。だが、主導権を完全に掌握するため、超並列計算で血の滲むようなコントロールを維持し続ける。


 その時、不意に。

 冷たくも心地よい、長い指先がエルレアの背後からそっと伸ばされ、ゆりかごのように大きな腕の中に優しく包み込まれた。


「手伝ってあげるよ。――ご主人様」


 甘く魂を蕩けさせるような極上の魔力が、エルレアの弾け飛びそうな意識を完璧につなぎとめる。

 エルレアの翠色の瞳と、背後に佇む夢魔のネムの妖艶に細められた紫色の瞳が、至近距離で交差した。


 同時に、二人がニッと不敵に笑い合う。


 ――その瞬間、世界を真っ白に染め上げる光が爆発した。



 ――やがて、光が収まったとき。


 そこにいたのは、背中に小さな一対の灰羽を震わせ、ぶかぶかの服に身を包んだ、あどけない一人の「少年」の姿だった。


「……これ、は……? ボクの、力が……?」


 己の無力さに困惑する少年の前へ、エルレアはコツコツと頼もしい靴音を響かせて歩み寄り、その前にしゃがみ込んだ。

 そして、少年の細い顎を、クイと指先で持ち上げる。


「あらまぁ、ずいぶんと小さくなったわね、エクス?」


 エクスは至近距離でエルレアの翠の瞳をみつめ、満足そうな、でも少し寂しそうな笑みを浮かべた。


「あーあ。……御伽話フェアリーテイルはもうお終い、か。ヒトの勝ちだ、エルレア」


 楽しかった遊戯の終わりを告げられた子供のように、彼は静かに目を伏せる。


「……君がどんな未来を掴むのか、もっと見たかった。……だから君が、欲しかった」


 エクスは小さくなった指先でエルレアの手をそっととり、名残を惜しむように頬をすり寄せた。


「……残念」


 金色の瞳にエルレアの姿を焼き付けるように、彼はじっと彼女を見つめた。


 ――静かに二人の視線が重なる。


 しばらくして、エルレアは慈愛に満ちた顔で微笑みかけた。


「そう」


 エクスの表情が、ほんの少しだけ安堵に緩む。


「……で、まさかアンタ、その美しい思い出話でそのまま負債を踏み倒すつもり?」


 エクスは困惑して固まった。


 彼女の完璧な笑みと吐き出された台詞が見事に噛み合っていない。


「…………………………え?」


「これまでにアンタが私に対して働いた数々の機会損失、人生の狂い、精神的損害――その莫大な負債を、たかが神威の破産手続きくらいでチャラにできると思っているのかしら?」


「え? え?」


「ああ、そうだ。サリエルeXエクスは実験体名だし、私の台帳に記載する、新しい登録名が必要ね。……よし、貴方は今日から――『スズメ』よ!」


 エルレアがその名――所有権を宣告すると同時に、少年の胸元へ指先を突き出す。


 その瞬間、少年の胸にかつて刻まれていた不気味な聖痕が、アストレイン家の家紋を模した【天秤】の形へと美しく書き換えられ、眩い金光を放って焼き付いた。


 同時に、エルレアの首筋の刻印もまた、対になるように同じ天秤の形へと昇華していく。強制的な、解約不能の『隷属の刻印』。


「ス、スズメ……?」


 スズメは、生まれて初めて見るような驚きに満ちた顔でエルレアを見上げた。

 その澄んだ金色の瞳には、かつて世界を脅かした禍々しい神威は、もうどこにも存在しなかった。


「ふふ、今日から貴方は私の所有物よ、スズメ」


 エルレアは不敵に笑いながら、勝利の光で翠の瞳を輝かせる。


「貸したものは、全額利息付きで回収する。私の人生を狂わせたんだから、これからは私のために死ぬまでその知識と残った魔力で働いてもらうわよ? ひっひっひっ!」


 極上の獲物を仕留めた猛獣のように笑うエルレア。


 力を奪われ、契約の首輪で縛られながらも、不条理な隷属すら『利益』へと変えてみせた彼女――

 その底知れない強欲の美しさに、『スズメ』はやはり恍惚とした笑みを浮かべ、静かにその足元へ跪くのだった。




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