第68話 「ボク、そういうところ大嫌いなんだよね」――使い捨てられた聖女の微笑み
エクスがその翼を、煩わしげに軽く一振りした。
それだけで、刃と化した猛烈な神気が室内に吹き荒れ、五大老たちが悲鳴を上げる間もなくその肉体を無慈悲に切り裂いていった。
「しまっ……!?」
波及する神気の刃からエルレアを庇うため、カイルは咄嗟に自らの魔力障壁を展開せざるを得なかった。
コンマ数秒の致命的な足止め。
「やめなさい、エクス! やりすぎ……っ!」
これ以上の暴走を止めようとエルレアが咄嗟に手を伸ばした、その瞬間――。
――ぱんっ!
鋭い衝撃音が響き、エルレアの頬を猛烈な平手打ちが襲った。
衝撃で視界が歪む。よろめきながら振り返ると、そこにはお飾り聖女――セラフィーヌが立っていた。
それを見てカイルが素早く反応するが、セラフィーヌはそれを上回る神速で指先を僅かに振るった。
幾重もの高密度な魔力の縄が虚空から編み上がり、瞬時にカイルの全身を厳重に縛り上げる。
「……くっ!? この術式速度……!」
かつて、エルレアが遠くから憧れていた天才女魔導士、セラフィーヌ。
狂気にとらわれていようとも、彼女が持つ魔法の腕と構築速度は、紛れもなく異次元の天才のそれだった。
セラフィーヌは流れるような動作で凝縮された魔力の鞭を紡ぎ出すと、いたぶるように、憎悪をぶつけるように、エルレアの身体を何度も打ち据えた。
「くっ……!」
すでに戦闘用の魔石を使い果たしているエルレアには、咄嗟の迎撃手段がない。
(母の形見のブローチは、最終手段だ。ここで使うわけにはいかない)
視線の端で、五大老を踏みにじるエクスと視線がぶつかる。
エクスは、セラフィーヌの攻撃に耐えるエルレアを見て、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
(私がいたぶられるのを楽しんでるわね……あのサイコパスドS鳥っ!)
「どこを見ているの!? お前は欲張りさん。お前はいらないの」
激痛に耐えながら、鋭い魔力の軌道を紙一重で避け、ほんの一瞬の隙をうかがう。
その時、セラフィーヌの魔力が膨れ上がった。
(しまったっ! 避けきれない……っ)
膨れ上がり続ける魔力の奔流だけで、エルレアの頬は引き裂かれていく。
「神の隣に立つのは私よ……! 消えろ、消えろ、消えろぉ……ぐっ、がはっ!?」
罵声を浴びせ、エルレアの眼前まで迫っていたセラフィーヌが、突如として大きく目を見開いた。その口から、どろりとした鮮血が溢れ出す。
彼女の胸元――心臓のあった場所から、不自然に突き出た返り血に濡れた「白い腕」が見えた。
「てん、し……さ、ま……?」
セラフィーヌがギチギチと首を傾げて背後を振り返る。
そこには、笑みを浮かべたまま、彼女の背中から胸へとその細い腕を突き通している、六翼の神が立っていた。その瞳には、セラフィーヌを映してすらいない。
セラフィーヌは恐怖するどころか、震える指先で、自分の胸から生える神の腕を愛おしげに、そっと祈るように掴んだ。
「ボク、聖女のそういうところ、大嫌いなんだよね」
温度の一切ない、冷徹な天使の声が降ってくる。
エクスは、衣服についた羽虫でも振り払うかのように、無造作にその腕を引き抜いた。
支えを失ったセラフィーヌの身体が、ドサリと冷たい床へ崩れ落ちる。光を失い、ガラス玉のようになった彼女の瞳が、虚空を虚しく見つめていた。
「セラフィーヌ主任……」
エルレアの胸に、言葉にならない痛みが過った。
狂う前の彼女は、厳しくとも、成果に対しては誰よりも正しい評価をくれる尊敬すべき上司だった。
誰も認めなかった研究成果を、彼女だけは正当に評価してくれた。
同じ子爵令嬢として、男社会の魔塔では不利な出自でありながら、圧倒的な才能と血の滲むような努力だけで五大老の直下までのし上がった彼女の背中は、文句なしに格好良かったのだ。
けれど今、物言わぬ骸となったセラフィーヌの顔は、まるで全ての重圧から解放された少女のように無垢で、見たこともないほど幸せそうに微笑んでいた。
もし叶うのなら。権力争いも、神の代用品としての重責もない場所で――
ただ花のように笑うだけの人生を、望んでいたのかもしれない。
(――いいえ、全ては私の、安っぽい感傷だ)
エルレアは小さく首を振って感傷を振り払い、セラフィーヌのまだ温かい瞼を、その手でそっと閉じた。
「エルレア……会いたかったよ」
耳を疑うほど、慈愛に満ちた声で名前を呼ばれる。
エルレアはゆっくりと立ち上がり、頬に残る熱を押し殺し、審判の天使を真っ直ぐに見据えた。
(感傷に浸る暇なんて一秒もない。セラフィーヌ主任の人生を狂わせ、命まで使い潰したこの目の前の神から、その分のツケを全額回収してやる!)
激しい怒りさえ飲み込むほどの強欲が、エルレアの魔力回路を獰猛に唸らせる。




