第66話 プランB始動と、魔塔最上階の老害カルテット
唸りを上げていた巨大な感情変換装置が完全に沈黙し、第十四階層実験室には張り詰めた静けさが戻っていた。
「し、死ぬかと思った。いや、一瞬マジでレテ川の向こうに、おばあちゃんが見えた気がする……」
ネムが冷たい石床に大の字でひっくり返り、力なく天井を仰ぐ。
彼を苛烈に縛りつけていた対魔消滅領域は霧散し、その瞳には本来の、怪しげな深い紫の光が戻っていた。
「……エルレア」
肩で激しく息をしながら、未だ石床に膝をついたままのカイルが、声を悲痛に震わせた。青い瞳には、涙に似た絶望が揺れている。
「すまなかった……っ。今も、あの五年前の夜も……僕は、僕はまた君に……」
「カイル」
エルレアは、努めて静かな声で幼馴染の名を呼んだ。
カイルは小さく身震いし、自身の拳を白くなるほど強く握りしめる。
「全部、思い出したんだ。真実を失ったまま、この五年間も五大老の公金横領を許し、魔塔を根腐れさせてしまったことも……君が、あの日から魔法を使えなくなってしまった理由も、全部……っ!」
謝っても、どれだけ悔やんでも、決して消えない取り返しのつかない過去。カイルは血を吐くような心地で、再び頭を深く垂れた。
「カイル。無理に頭を下げなくていいわ」
再び彼を呼ぶエルレアの声は、どこまでも穏やかだった。
「わかっている、僕は君に、一生かかっても返し切れないほどの――」
カイルが、弾かれたようにがばっと顔を上げる。
そこにあったのは、今しがた殺されかけた恐怖など微塵も感じさせない、満面の笑みを浮かべたエルレアの顔だった。
彼女の右手は、人差し指と親指で綺麗に丸く円を描いている。――そう、お金のマークだ。
「『特大の貸し』にしておくわ」
「……え?」
カイルの思考が完全に停止した。
「さあ、シャキッと立ちなさいカイル! 私にこれだけの莫大な初期投資をさせたんだから、バルツァーの身ぐるみ剥いで口座を全部差し押さえるまで、死んでも働いてもらうわよ? ひっひっひっ!」
エルレアの翠の瞳は、まるで極上の獲物を見つけた猛獣のように生き生きと輝いていた。
その表情には、神の呪縛すらも「負債」として絶対に取り立ててやるという、凄まじい闘志が燃え盛っている。
(戦闘用の魔石は一粒残らず使い果たした。けれど、私有財産である『母の形見の魔導ブローチ』だけは、絶対に手放さないわ)
エルレアは密かに、胸元の奥深くに仕込んだ最後の切り札を指先で確認した。
(アストレインの隠し倉庫にあった石版。そしてこの代々伝わる魔導ブローチ。それが意味するのは、かつてアストレイン家がエクスの封印に関わっていたという事――)
脳内でバラバラだったピースが凄まじい勢いで再構成されていく。
エルレアは不敵に笑った。
「わぁ、カイル。大変だ。記憶を取り戻した途端に、首の回らないほどの借金まみれだねぇ。アストレイン家の取り立ては地獄よりエグいよ?」
ネムが床に寝転んだまま、気怠げに頬杖をついて、実に面白いものを見るように紫色の目を細めた。
「……っ。……ふっ、ははっ! ああ、そうだね、エルレア」
まるで、重苦しい罪悪感の泥沼から、エルレアの強欲な両手が自分の胸ぐらを強引に掴んで引きずり上げたかのようだった。
カイルはたまらず吹き出し、闘志を燃やすエルレアを、世界の何よりも眩しいものを見るように見つめた。
(――そう、君の瞳はいつだって、絶望の淵でも希望を掴もうと輝いている。その濁りのない強欲の光は、僕の薄暗い自己嫌悪なんて、いつも綺麗に精算してしまうんだ)
「よし、カイルの魂も無事に回収できたことだし、囮捜査『プランB』へ移行するわよ!」
エルレアは名案を思いついたように、パンっと景気よく両手を打ち鳴らした。
「プランB? そんなの初耳なんだけど」と言いたげな顔で、カイルとネムが揃って顔を見合わせる。
「ひっひっひっ、まあ耳を貸しなさい。今回のターゲットは、悪徳塔主代理のバックにいる『老害カルテット』よ。まずはカイル、まだ洗脳されたフリをしてちょうだい」
エルレアは不敵な笑みを浮かべた。
「名付けて、『飼い犬かと思ったら、狼だった』作戦よ!」
その頃。結界に守られた魔塔最上階――魔塔主の部屋には、最高権力を牛耳る「五大老」たちが緊急集結していた。
「バルツァー卿。本物の『魔塔主の指輪』が見つかったというのは、果たして本当かね?」
贅を尽くした法衣を纏い、常に慈愛に満ちた笑みを浮かべるのは、枢機卿ガルニエ。
エクスへの信仰心を魔力へ変換する術式を独占する男だ。その目は一切笑っていない。
「ふん、今更焦るなど見見苦しい。バルツァーが装置を動かしたおかげで、魔塔の八割はもう我らの手中でしょ」
扇子で口元を隠し、陰湿に笑う女侯爵マローネ。ネムから最深部の管理権を奪い取り、地下監獄を私物化している老婆だ。
「王宮側に指輪が渡れば、これ以上欺くのは限界がある。……『感情変換兵器』の軍事契約も、あと一歩なのだからな」
重厚な椅子に腰掛け、大公爵オズワルドが鋼鉄製の義手をギチ、と鳴らした。
人間の「恐怖」を強制変換し、死を恐れない暴走兵士を作る実験――バルツァーの最大の出資者だ。
その横では、魔術で若さを貪る老獪な魔女、ヴィクトリア伯爵令嬢が深く頷きながら歪な笑みを浮かべている。
魔塔主の席で彼らの視線を浴びるバルツァーは、忌々しげに額の汗を拭った。だが、その口元には下卑た笑みが張り付いている。
「――お揃いで何よりです、諸兄。アストレインの小娘の処分など、案ずる必要はございません。すでに第十四階層にて、我が猟犬が仕留めている頃合いですのでな……!」
醜悪に歪む老人たちのすぐ後ろで。
聖女セラフィーヌだけは、彼らの世俗的な会話など耳に入っていないかのように、虚ろに微笑んでいた。
彼女の視線は、バルツァーの背後にある「空間の裂け目」へと注がれている。
「あはは、痛いなぁ。本当に、エルレアの手は容赦がないね……」
誰もいない虚空から、あどけない少年の声が、セラフィーヌの脳内に直接響いた。焼き切られたはずの、エクスの精神体だ。
「……天使様。おいたが過ぎたようでございますね」
セラフィーヌは周囲に聞こえない微小な声で、うっとりと呟く。
「うん。カイルの中に残しておいたボクの思念が、消されちゃった。バルツァーの汚染装置に便乗して、そのままエルレアをボクの神殿にしようと思ったんだけど……やっぱり、あの男の自我を完全に潰しておけばよかったかな」
空間の歪みから、銀色の光を放つ手が伸び、セラフィーヌはすがる様にその手を取り、頬を寄せる。
セラフィーヌはその冷徹な神威にゾクゾクと身体を震わせ、恍惚の表情を浮かべた。
「でも、これでカイルの記憶の鍵が外れたはずだ。あの日、ボクがエルレアの魔法をどうやって奪ったのか、あの虫ケラも思い出したはずだよ。あはは、どんな顔をしてエルレアの隣に立っているんだろうね?」
五大老たちが目先の金と権力の話で騒ぐ中、エクスとセラフィーヌだけは、全く違う次元の悍ましい計画の進展を確信していた。
「ふふ……皆様、本当に哀れで愚かなこと。神の奇跡を、ただの泥に塗れた金貨としか思えないなんて」
セラフィーヌは胸元で深く祈るように両手を組む。
「ねえ、天使様? すべては、あなたの御心のままに」
その瞳は、眼前の老人たちを「いつでも切り捨てられる生贄」としか見ていない、狂信の光に染まっていた。




