第62話 「次に出会う時は僕を拾ってよ」――夢魔の王の長い眠り
バルツァーの計画は、面白いくらいに順調だった。
精神が壊れたとはいえ、元々は上級魔導士だったセラフィーヌの執念と技術は本物だった。
彼女は狂気に突き動かされるように、昼夜を問わず完璧に仕事をこなしていく。
『感情を魔力に変換する装置』――その話を聞いた時は机上の空論だと思っていたが、今やその完成は目前に迫っていた。
魔塔主の部屋で、バルツァーが満足げにワイングラスを傾けていると、机の上で不意に固い音が響いた。グラスが当たり、古びた銀の指輪が転がったのだ。
「チッ、ただの模造品のゴミが」
夢魔の王という「本物のシステム」を失った腹いせに、バルツァーはそれを忌々しげに吐き捨てると、部屋の隅の木箱へ雑に放り込んだ。
「おい、誰か! こいつを地下倉庫へでも放り込んでおけ」
部下へ鋭く指示すると、バルツァーは再びワイングラスを傾けた。
これが五年後、ある勘違いから街へ流出し、奇妙な運命を手繰り寄せることになるのだが……それはまだ、ずっと先の話だ。
指輪が地下倉庫の闇に埋もれてから、わずか数ヶ月後のこと。地下実験室で、最悪の事故が起きた。
その日、カイルは王室の伝書から不穏な密命を受け取っていた。
『魔塔主の動向に不審点あり。魔塔内部で禁忌の実験が行われている可能性。極秘裏に調査せよ』というものだ。
要請書の羊皮紙を握りしめながら、カイルはふと、研究中毒の不器用な同期の顔を思い浮かべた。
(今日は、エルレアが当直の日だったはずだ。……巻き込まれる前に、気をつけるようにだけ言っておくか)
嫌な予感を振り払うように上着を羽織ると、カイルは寮の自室を出て、足早に第十四階層の実験室へと向かった。
魔導ランプが不規則に明滅する、薄暗い廊下。
その最奥にある研究室の扉が、わずかに開いていた。
隙間からは、異様な青白い光と、内臓を揺さぶるような低い機械の重低音が漏れ出している。
カイルは眉を顰め、気配を殺してその隙間から中を覗き込んだ。
「――っ!?」
息が止まった。
見たこともないほど巨大な魔道具が、脈動する心臓のように青白い光を放っている。
その悍ましい光景の中心で、セラフィーヌは乱れた姿で、エクスにしなだれかかっていた。
「天使様……私にはわかります。貴方がアストレインのあの小娘に、奇妙な興味を抱いていることが……」
セラフィーヌは熱に浮かされたような顔で、エクスの首筋に白い腕を絡める。彼女が動くたび、エクスの身体から抜け落ちた『灰色の羽根』が、呪詛のように宙を舞った。
二人を囲むように立ち尽くす白衣の研究者たちは、完全に正気を失い、虚ろな目で「天使様、天使様」と壊れた人形のように呟いている。
「でも、あんな汚れた人間の感情など、貴方には必要ありません。全部、この機械で吸い取って、今、貴方を純白の……綺麗な天使に戻して差し上げます……っ」
熱い吐息を吐きながら、恍惚とした瞳でエクスを見つめるセラフィーヌ。熱に溺れ、うわ言のように何度も何度も天使を呼び続ける。
「天使様っ、天使さまっ、ぜんぶ、忘れて……。私が、貴方、の……新しい聖女、に……っ」
カイルは足が床に縫い付けられたかのように、動くことができなかった。
――エクスは、あんなに禍々しい存在だっただろうか。
以前、エルレアと親しげに話しているのを一度だけ見かけたことがある。
あの時は、もう少し無邪気な子供のような、純粋な目をしていたはずだ。
だが今、青白い光の中に浮かび上がる金色の瞳には、一切の光が通らない。完全な、虚無。
「…………つまらないな」
冷酷極まる感情のない声が響いた。
「え?」とセラフィーヌが呟いた瞬間、カイルの視界が鮮烈な『赤』に染まった。
悲鳴すら、聞こえなかった。エクスが拒絶の意思を示した瞬間、彼女の身体が文字通り弾け飛んだのだ。
ドサリ、と何かが床に落ちる重い音。それと同時に、神罰のような凶悪な聖属性の魔素が室内を埋め尽くした。
「ぐ……っ、かは……っ!!」
防壁魔法を展開する間もなく、漏れ出た魔素の圧力だけで、カイルは吐血して膝をついた。
その音に反応したかのように、キィ……と重い扉が開き、中から伸びてきた白い手が、抗う間もなくカイルの胸ぐらを掴んで赤い室内へと引きずり込んだ。
「お前は……知ってる……。彼女の……そう、エルレアの、友人だ……」
エクスは片手でカイルの首を締め上げ、宙に吊るした。その金色の瞳は激しく揺れ、混乱したように空いた手で自身の髪を強く掻きむしっている。
「お前も……ボクから彼女の記憶を……感情を、奪うのか……!? 許さない、ボクの、ボクのエルレアを……誰も奪うな!!」
その叫びは、まるで大切な玩具を奪われそうになった子供のようであり、同時に世界を滅ぼす魔王の咆哮のようでもあった。
エクスが激昂と共に黒い翼を振るうと、鋭利な神聖力の刃がカイルの胸を引き裂いた。同時に、暴走したエクスの魔力が、唸りを上げていた巨大な『感情変換装置』に直撃する。
「ぐあああああああっ!!」
カイルの胸から鮮血が噴き出し、それと同時に、過負荷で爆発寸前の装置から放たれた「感情を焼き切る濁流」が、彼の脳内へと逆流した。
エルレアの記憶が、これまでの思い出が、凄まじい熱量で焼き焦げていく。
カイルはそのまま、自身の血に塗れた床へと朦朧とした意識のまま沈んだ。
装置の破壊による爆風と煙が立ち込め、警報の魔導鈴が狂ったように鳴り響く。
――その、最悪のタイミングだった。
バタン、と壊れかけた扉が、外側から勢いよく開かれたのは。
そこに立ち尽くす、当直だったはずのエルレア。
彼女の、あの翠色に澄んだ美しい瞳が、血の海と、変わり果てた親友の姿を映して、絶望に染まっていく――
――どれだけの時間が経っただろうか。
永遠のようにも、ほんの一瞬だったようにも思える。
警報の魔導鈴すらも破壊され、硝煙と血の臭いが立ち込める静まり返った実験室に、カイルのか細い、今にも途切れそうな呼吸の音だけが、虚しく響いている。
その青い瞳は光を失って虚ろに揺れ、焦点も合わないまま、すぐ隣で倒れ伏している琥珀色の髪の少女を――エルレアの姿を、ただじっと見つめていた。
不意に、空間の影から、陽炎のようにフラフラとネムが姿を現した。
セラフィーヌや研究者たちの「狂乱の悪夢」を喰らい、その精神的な毒に当てられてネム自身も瀕死の状態だったが、血の海に転がるカイルを見下ろすと、気だるげに細い指先を動かした。
ネムが紡いだ紫色の魔力がカイルの身体を包み込む。肉体の裂傷はまるで最初から無かったかのように治っていたが、その肌は白磁のように青白い。
汚染された神聖力の直撃による重度の『魔素汚染』。カイルの命の火は、今にも吹き消されそうなほどに縮こまっていた。
「……あーあ、巻き込まれちゃって。可哀想に。僕の夢……魔力を、少しだけ分けてあげるよ……」
ネムがカイルの胸に手を当て、その命を繋ぎ止める最低限の処置を施すと、カイルは張り詰めていた糸が切れたように完全に意識を失い、深い眠りに落ちた。
「……はぁ。さすがに、こっちも限界みたい」
わずかに残った自身の魔力も完全に底を突き、肉体が維持できなくなっていくのを感じた。
姿を隠してから、かすかな魔力で微睡みながら指輪の外を見ていたが、それすらももう不可能だ。
次はいつ戻れるか、検討もつかなかった。
ネムはカイルの横で物言わぬ人形のように伏した少女へ、ゆっくりと視線を落とした。
世界のすべてを見ようとするように、強欲な光をギラギラと輝かせていた翠の瞳を持つ少女。
彼女の瞼は固く閉じられ、今その生命力に溢れた美しい瞳を見ることは叶わない。
ネムは膝をつき、エルレアの頬にかかる琥珀色の髪を、長い指先でそっと耳にかけた。
冷え切った彼女の肌に触れながら、愛おしそうに、そして酷く愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「次に出会う時は、僕を拾ってよ……アストレインの、可愛いお嬢さん」
ネムは最後に紫色の瞳を静かに閉じた。
肉体を構成していた魔力が霧のように霧散し、ネムの精神は、あの部屋の隅でバルツァーに捨てられた「模造品」の銀の指輪の中へと引き籠もる。
いつか、あの少女が、自分を釣り上げてくれるその日を夢見ながら、ネムは深い休眠状態へと入っていった。




