第61話 「新魔塔主の誕生だ!」――なお、指輪はただのゴミの模様
――五年前、魔塔最上階。
「は……っ、油断、したな……。人間の狂った『夢』が、これほどの猛毒だなんて……」
ネムは身体中から紫色の魔力が霧散しそうになるのを必死に堪えながら、深夜の廊下の影をフラフラと歩いていた。
彼の呼吸に合わせるように、魔塔を巡る導力灯が不規則に明滅する。
狂った研究員たちの悪夢を喰らい、その裏に潜む「審判の天使」の強烈な聖属性をまともに浴びた。
内臓を灼かれるような激痛。魔力の根幹がバキバキにへし折られていく。
(五大老の思惑か。僕が……いや、魔族が魔塔主の座に居座り続けているのが、よほど気に食わなかったと見える)
薄れゆく意識の中、ようやく塔主の執務室へとたどり着く。ネムは主の椅子に崩れ落ちると、震える手で机の隠し引き出しを開けた。
取り出した小箱の中には、古ぼけた、だが禍々しい闇の魔力を宿した銀の指輪が収められている。
かつて、神と魔が地上に共にあった神魔時代――ネムが『夢魔の王』として君臨し、この地を支配していた頃の、真の依代。
目を瞑れば、今も鮮明に蘇る。
神も魔も人もなく、己の「強欲」のままに等しく手を伸ばし、世界を魅了していた、あの鮮烈な琥珀色の髪の一族の姿が。
(……だいぶ、力を削がれてしまった。この巨大な魔塔を維持するだけの出力は、今の僕にはない)
「しばらく、この中で『ニート』させてもらおうかな……」
ネムの身体が、黄昏時の曖昧な空のように、ゆっくりと景色に滲んでいく。
消えゆく意識の淵で、彼はふと、あの少女の極上の魂の味を思い浮かべていた。
(そういえば、あの子、エルレアも……あの一族と同じ、深い琥珀色の髪をしていたなぁ……)
彼女の剥き出しの強欲は、いつだって夜空の星のようにキラキラと輝いていた。羞恥心も、喜びも、悔し涙の味も、すべてが極上のスイーツだった。
――また、食べたいな。
かすかな呟きと共にその姿は完全に空気に溶け、机の上には、ただの煤けた古い指輪だけが、カランと音を立てて残された。
その夜、魔塔は初めて、主を失った。
その数刻後。
「ついに……ついに、私の時代が来た!!」
五大老筆頭魔導士、バルツァーは逸る心のままに、最上階の廊下を大股で歩いていた。
家柄も、資産も、魔力量も。若き日のバルツァーは、確かに『次代の英雄』と期待されていた。
人類を守るために理想を持ち、魔導を極め、誰より多くの研究成果を積み上げた。
だが、どれほど努力しても、魔塔主の座だけは届かなかった。
常に、あと一歩の場所で『正体不明の何か』に、阻まれ続けた。「万年次席」と影で揶揄され続けた屈辱の日々。
最近になり、現魔塔主の正体が「夢魔(魔族)」であるという驚愕の真実を知った。
人間に都合よく構築された「神の結界」を欺くため、魔塔は長年、強大な魔族をシステムの中枢(生贄)として据えていたのだ。
(魔物など、神の遺物の前では恐るるに足らんな!)
廃神殿から発見された聖石『エクス』を利用し、魔族の塔主を排除する――
バルツァーはこの天啓のごとき作戦に心を躍らせていた。自分こそが神に選ばれし、真の魔塔主に相応しい人間なのだと。
バァン!! と勢いよく塔主の部屋の扉を開け放つ。
――静かだった。
いつもなら、一歩踏み入れた瞬間に膝を折らされる。
心臓を鷲掴みにされるような、あの圧倒的な魔圧。
それが、ない。あまりにも“空っぽ”だった。
広すぎる執務室に、時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
「今日からここが、私の玉座だ」
震える指で、銀の指輪を持ち上げる。魔塔主の指輪。これさえあれば、王室との外交権も、魔塔の全魔力ラインも我が物になる。
ついに。ついに、あの化け物を超えた。
人類が、魔族を支配する時代が来たのだ。
バルツァーは陶酔するように笑い、指輪を自らの指へ嵌めた。
――だが。何も起きない。
「……は?」
魔力が、流れない。世界に接続される感覚が、一切ない。
「……なんだこれは!! なんの魔力も感じない……ただの模造品ではないか!!」
慌てて他の引き出しをすべて引き抜き、本棚をひっくり返して「本物」を探すが、どこにもない。
ネムが己の全魔力と共に、指輪を『ただの石ころ』に偽装して眠りについたことなど、傲慢なバルツァーには見抜けなかったのだ。
「くそっ! これでは書類上の『魔塔主』に即位できないではないか……!」
冷や汗を流しながら部屋を飛び出し、廊下を足早に歩いていると、いつの間にか第14階層の実験室の前に辿り着いていた。
カチャリと扉が開き、中からふらりと金髪の女魔導士が出てくる。
(……セラフィーヌか。生意気な女だったが、例の『サリエルeX』の実験体に惑わされ、ずいぶん大人しくなったな)
虚ろな目でバルツァーの横を通り過ぎようとした彼女の腕を、バルツァーは強く掴んだ。
「おいお前。そういえば……『人間の感情を純粋な魔力に変換する』とかいう、ふざけた研究をしていたな?」
セラフィーヌは振り返らない。廊下の先を瞬きもせず見つめる瞳孔は開き切り、まるで“何か別の光景”を見続けているようだった。
だが、バルツァーの脳内で、悪魔の閃きが形を成していく。
(本物の指輪がないのなら……魔塔主、いや夢魔のあの莫大な魔力出力を、その『感情変換装置』で物理的に再現・偽装すればいい。そのための巨大な『人柱』さえあれば――)
「私に協力しろ。お前を天使様の聖女にしてやろう。――この『新魔塔主』である、私の権限でな」
その言葉に、セラフィーヌの肩が小さく揺れた。
彼女はゆっくりと首を回し、狂気と愉悦の入り混じった歪な笑みを浮かべて、バルツァーを見つめ返した。
「……ええ。お望みのままに、閣下」




