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第58話 魔はいつも、君のすぐ隣でゴロゴロしている



「……エルレア? おい、聞いてるのか?」


「え? ――あ」


 張り詰めていた見えない糸が、ぷつりと切れた。

 ハッとした瞬間には、もう遅かった。


限界まで強張っていた指先から力が抜け、手元から滑り落ちたカップが鈍い音を立てる。淹れたてのコーヒーが、容赦なく机の上へ広がっていった。


「ごめん。ちょっと、昔のことを思い出してぼんやりしてたみたい。すぐ拭くわね」


 エルレアは素早い手つきで机の惨状を片付けると、気分を切り替えるように立ち上がり、コーヒーメーカーへと近づいた。


「あれ……豆がもうないわ。ストックは、この上の棚だっけ……」


「わっ! 馬鹿、待て! そこを開けるな――!」


 背後からグレイが、いつにない形相で悲鳴のような声を上げた。


 だが、エルレアの指先が上棚の扉を跳ね上げる方が、一瞬早かった。


 ――バサバサバサッ!!


 静寂を破って頭上から降ってきたのは、およそ研究室には似つかわしくない、重量感のある『不審な塊』の雨だった。


「きゃっ!? ちょっと、危ないじゃない! 何でもかんでも適当に詰め込むからいつも…………え?」


 間一髪で避けたエルレアが、床に散らばった「それ」を凝視したまま、言葉を失った。


 透明なビニールパック。その中にタプタプと満たされているのは、どす黒いほどに鮮烈な、本物の『赤い液体』。


「……これ、輸血用の、血液パック……? 何でこんなものが……」


(まさかグレイ先輩、どこか深刻な大病でも患っているの……?)


 最悪の医療事故でも目撃したかのようにエルレアが凍りついていると、ソファの方から、緊張感の欠片もないのんびりとした声が降ってきた。


「あれー? グレイ、禁血してるんじゃなかったの?」


 まるで「禁酒やめたの?」とでも言いたげな軽い口調。


 その言葉に、グレイが限界を迎えたようにボサボサの頭を掻きむしった。


「ちっ……! ストレスでやってられなかったんだよ! 予算会議も、未処理の書類も、全部俺に放り出してほっつき歩いてる――この『放蕩魔塔主』のせいでな!!」


 吐き捨てられた最悪の爆弾発言に、エルレアの思考回路が完全にフリーズした。


「……は? ほうとう……まとうしゅ……?」


 ロボットのようなぎこちない動きで、エルレアの視線がゆっくりとスライドしていく。


 床に転がるおびただしい数の血液パック。


 その先――ソファの上で、クッションをぎゅっと抱きしめたまま「あ、言っちゃった」という顔をして、両手で大慌てて口を塞いでいる、薄紅色の髪のニート(ネム)。


 ネムは、泳ぎまくるアメジストの瞳をエルレアに向け、引きつった笑みを浮かべていた。


「ちょっと待って、グレイ先輩。今、なんて言ったの? ……それにその袋、まさか……」


「ああ、もう面倒くせえ!!」


 グレイがかけていた眼鏡を乱暴に外した。


 その瞬間、彼の瞳が霧の夜のように妖しく揺らぎ、深い赤色へと変色していく。

ハラリと落ちた前髪の隙間、口元からは、人間のそれとは明らかに違う、鋭く尖った純白の犬歯が覗いた。


「俺は吸血鬼――魔族だ。神族の結界の目を欺くために、ここでしがない万年平研究員のフリをしてたんだよ。人間の血なんて不味くて飲みたくねえから、コーヒーとこれで誤魔化してたが……もう限界だ。おい魔塔主! お前がバックくれてるせいで、こちとら五年間書類の山に殺されかけてるんだよ!」


「えー、だって魔塔の予算会議とか退屈なんだもん。僕はエルレアの夢の搾りかすを食べてる方が幸せだし……」


 ふらりとソファから起き上がったネムの背後で、魔導ランプの炎が大きく爆ぜた。


 不自然なほど濃密な「黒い影」が壁一面に波打ち、部屋の熱度が一気に奪われていく。彼のアメジストの瞳の奥に宿る、底の知れない圧倒的な魔力波長。


 エルレアは、脳髄に冷水を浴びせられたような、信じたくない現実を突きつけられていた。


「なん……っ、魔族……魔塔……っ」


自分の全身から血の気が引いていく音が、はっきりと聞こえるようだった。


(……待って。私、あの魔塔主を『高級な電池』扱いしてこき使ったり、初対面では渾身の右拳で地面にめり込ませたりしたわよね……!?)


 いつもなら秒単位で金利計算をするエルレアの高性能な頭脳が、完全にバグを起こして煙を上げている。そんな彼女を見下ろし、ネムはくすりと壊れた玩具のように笑った。


「聖魔戦争って、歴史で習ったよね? 神族が勝って、この世界に大結界を張り、負けた魔族は闇に消えたっていう御伽話」


 ネムのアメジストの瞳に妖艶な光が宿る。まるで奈落の底へ誘うように。


「……でもね、一部の魔族はこうして人間に紛れ、神の目を誤魔化してすぐ傍に存在してるんだ。――魔はいつも、君の近くにあるものなんだよ」


 ネムはいつも通り眠たげな顔のまま、けれど世界のすべてを見下ろすような、圧倒的な深淵を湛えた強者の笑みを浮かべた。


「……待ちなさい。まさか、男爵令嬢昏睡事件の時、あの『恋に効く指輪(マスター版)』を私に届けさせたのって……」


 エルレアはガタガタと震える手で、自身の左手に冷酷に鎮座する『特級呪物』を見つめる。


「そう。あの時、指輪をギルドに持って来た魔塔の使いっていうのも、実は僕さ。……びっくりした? エルレア。君のすぐ隣でゴロゴロしてたニートは、君が『いつか引きずり下ろして予算を全額強奪してやる』って息巻いてた、魔塔主その人だよ」


 ネムの悪戯に成功した子供のような笑みを見ながら、エルレアの脳裏にかつての魔塔の空き倉庫での記憶が鮮明に蘇った。



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