第57話 消えた『指輪』と、アメジストの深淵
ガチャン、と重い鉄格子が閉まる。
連れて行かれたのは、魔塔の公式記録には決して載らない地下最深部だった。
湿った石壁には、古い魔術痕が焼け焦げのように染みつき、鉄格子の奥からは誰かのうわ言のような呻き声が、水に溶かしたように低く漏れている。
空気の底に、腐敗と孤独の匂いが張り付いていた。
ここは、実験に失敗した魔導士の隔離場。
あるいは、上層部の汚職に気づいて「存在ごと消された研究者」たちの墓場だった。
冷たい檻の中で、エルレアが外套の埃を優雅に払っていると、暗闇の奥から静かに近づいてくる足音があった。
「――やはりお前か、エルレア」
魔導ランプの炎が、来訪者の輪郭を橙色に切り取った。その光の中で、男は一度だけ言葉を切った。――まるで、「亡霊」でも見たように。
そこに立っていたのは、ボサボサの髪にくたびれた法衣を纏った、物静かな男だった。
かつて魔塔時代、変人扱いされていたエルレアの研究を否定せず、数少ない理解者として温かく見守ってくれていた先輩魔導士、グレイだ。
「グレイ先輩……? どうして貴方がここに。まさか、あんたもバルツァーの横領に巻き込まれて破産でもしたの?」
「五年ぶりの第一声がそれかよ。安心しろ、俺は債務超過にはなっていない」
グレイは呆れたように息を吐きながらも、その鋭い目を周囲へと走らせた。
腰に帯びた看守長の鍵束を迷いなく鍵穴に差し込み、鉄格子を静かに開く。
「とりあえず、ここを出るぞ。監視の目を誤魔化せるのは今だけだ。俺の研究室へ来い。話はそれからだ」
人目を忍び、地下の隠し通路を経て案内されたのは、ひどく見覚えのある場所だった。
かつてエルレアがグレイやカイルと共に、寝食を忘れて魔導の研鑽に励んだ場所――「第八研究室」だ。
「ここの現在の室長は俺だ。認識阻害の結界も更新してある。ここなら俺の許可なく入ることはできない。例え、あの五大老であってもな」
グレイは法衣の首元を緩めながら、脱力するように椅子に腰掛けた。長年使われた革椅子が、くたびれた軋みを上げる。
「助かったわ、グレイ先輩。……いいえ、今はグレイ室長かしら? ずいぶんと出世したのね」
エルレアが室内を見回すと、書類や雑多に積み上げられた魔導書の山の間から、懐かしいコーヒーの香りが漂ってきた。
グレイの仕事中毒は相変わらずのようだ。五年という空白を感じさせない、染みついた匂い。
エルレアは山積みの紙束を器用に退けながら、部屋の隅にある年季の入ったコーヒーメーカーを探し出すと、慣れた手つきで豆を挽き始めた。
器具の配置も、愛用していた豆の銘柄も、五年前と何一つ変わっていなかった。
まるで、この研究室だけが、エルレアを追放したあの日で時間を止めていたみたいに。
「おや、僕の分はあるのかな?」
ネムが、当然のように一番まともなソファを占領し、猫のように丸くなる。グレイは新顔の美青年に一瞬目を留めたが、今はそれ以上に聞くべきことがあった。
エルレアが全員分のカップを配り終え、打ち合わせ用の小さなソファに腰を下ろす。グレイは温かい黒液を一口啜り、探るように声を潜めた。
「……五年ぶり、か。あれから、魔法はどうなんだ。……まだ、使えないのか?」
「ん? ああ、それなら……」
エルレアは一拍おいてから不敵に笑い、両手の甲にある魔術印を、グレイの目の前に突き出すように掲げてみせた。
「私を誰だと思っているの? 使えないなら、『使えるようにシステムを組み替える』だけでしょ」
その、あまりにも異質で、自傷行為に近いほど苛烈な魔術印式を見た瞬間、グレイの呼吸が止まった。
「な……っ、お前、それ……!」
グレイは目を丸くしながら、飲みかけたコーヒーカップを雑に机に置く。カップが皿を鳴らす音が、静かな研究室に不釣り合いに響く。
「何て無茶な魔法陣を組んでるんだ! 出力調整を一つ間違えたら、一瞬で両手が吹き飛ぶぞ!?」
「ちゃんとまだ繋がってるし、そんなヘマはしないわ」
グレイは額を押さえ、天井を仰いで盛大にため息をついた。
「毎日のように研究室を爆破しまくっていたお前に言われても、微塵も説得力がねぇよ……。だが、よく生きてたな」
「おかげさまでね」
数年の空白を全く感じさせない気安いやり取りに、二人は同時にふっと口角を上げた。張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「俺はな、お前が追放されたあの日からずっと、ここで『看守』の任務を志願して残ってるんだ」
グレイはコーヒーカップを握る手に力を込めた。カップの温もりが、手のひらから腕へとじんわり伝わっていく。
「五大老たちの目を欺きながら……お前が残していった魔石研究の論文や、未完成の魔道具の試作品を、奴らに処分されたり横領されたりしないよう、あの地下の汚職の吹き溜まりに隠して守り続けるためにな」
グレイはただの先輩という枠に収まる男ではない。
腐敗していく魔塔の中で、エルレアの生きた証を守り、組織の歪みを内部から記録し続けた「正しさの道標」だった。
「感謝するわ、グレイ先輩。貴方が守ってくれた私の研究データ……これがあれば、バルツァーたちへの請求金額を、さらに三倍には跳ね上げられるわね」
「ははっ! お前にそう言われるんなら、甲斐があったな。ま、泥水をすするような毎日だったがな」
グレイは野性味のある笑みを浮かべたが、声音が落ちた瞬間、研究室の空気が張り詰めた。防音結界の魔法陣が、じ、と微かに軋む。
「だがエルレア、いまの魔塔は完全に狂っている。お前がここへ来る少し前……魔塔の頂上、最上階の玉座に保管されていたはずの、絶対的な権能を持つ『塔主の指輪』が、何者かによって持ち去られたんだ」
「指輪が……?」
「ああ。現在あそこに飾られているのは、五大老が事実を隠蔽するために設置した精巧な『偽物』だ。魔塔はすでに、正統な統治者を失っている」
その言葉が落ちた瞬間。
ソファで退屈そうにコーヒーカップを弄んでいたネムの手が、ぴたりと止まった。
カチャリ、と陶器の冷たい音が微かに響く。
アメジスト色の瞳から、先ほどまでの気怠げな熱が、蝋燭の火を指で摘むように、音もなく消える。
「ネム……?」
その異様な気配に、エルレアは思わず息を呑んだ。
普段の「電池」からは想像もつかない、圧倒的な深淵。部屋の明かりがネムの影を不自然に引き伸ばし、彼のアメジスト色の瞳の奥に、人の身では決して抗えない【本物の怪物の輪郭】が透けて見えた気がした。
それは、ただ魔力を奪われただけのエルレアの肉体が、本能的に『死』を察知して硬直するほどの、冷徹で絶対的な捕食者の気配だった。
喉が張り付き、指先ひとつ動かせない。
その、心臓が凍りつくような静寂を、グレイの低くくたびれた声が切り裂いた。




