第54話 女当主には美貌の愛人がいる程度、むしろ箔がつきます
やわらかな日差しが瞼をなでる。小鳥たちのさえずりが、穏やかな朝の訪れを告げていた。
エルレアがゆっくりと目を開けると、至近距離に、アメジスト色の瞳があった。
白く透き通る朝の光を背負ったネムは、まるで夢の続きそのものだった。
気怠げな美貌。慈愛を湛えた微笑み。
人ではないもの特有の、完成されすぎた静けさ。
その輪郭だけが、朝の光の中でわずかに滲んで見えた。
ほんの一瞬だけ。
エルレアは、あの孤独だった魔塔の底で、自分の心を救ってくれた『誰か』の、温かく懐かしい気配を思い出した。
――が、エルレアが我に返って身を起こし、苦情を申し立てようと口を開いた、まさにその瞬間。部屋の扉が小気味よく叩かれた。
「お嬢様、朝のお支度に参りまし……」
軽快に開いた扉の先で、侍女のメリーと完全に目が合った。
メリーの視線が、寝乱れたシーツ、はだけたネムの胸元、そして顔を赤くしたエルレアを、極めて冷静に順番に見た。
彼女は若くとも、この上なく優秀で察しのいい侍女だった。
「……」
メリーは一切表情を崩さぬまま、完璧に美しい微笑みを浮かべ、無言でパタンと扉を閉めた。
「待ちなさいメリーーーーっっ!!!!」
瞬間、エルレアはベッドから飛び起きて扉へと爆走し、勢いよく引っ開けてメリーの肩を掴んだ。
「貴女、今、盛大で破滅的な勘違いをしたでしょう!?」
「あら、エルレア様。お気になさらず。貴族の女当主に若く美しい情夫がいるなんて、世間ではよくあるお話ですから」
メリーはこれ以上ないほど洗練されたプロの笑顔で答えた。その微笑みは完璧すぎて、なぜかエルレアの方が「若気の至りを見られた側」の気分になってくる。
「貴女、若いのに意外とすれてるわね!? 教育的指導よ! メモを取りなさい!」
エルレアは顔を真っ赤に染め上げ、どこかの会計監査王子のような小言をまくしたてていた。
「ご安心ください。女当主に美貌の愛人がいる程度、むしろ箔がつきますので」
メリーが急に遠い人のように思えてくる。
エルレアは口をぱくぱくと開閉した。まるで酸欠の金魚である。
「ですが、せめて朝食前にはお済ませくださいませ」
メリーは更に追い討ちをかける発言を残して、優雅に踵を返して去っていく。
廊下に取り残された新当主は、しばらく金魚のように口をパクパクさせていたが、遠ざかる背中に向かってようやく声を絞り出した。
「ち、ち、ちが、違うんだってばー!!」
そんな女主人の怒声を聞き流しながら、ベッドの上の美青年は、猫のようにしなやかに伸びをした。朝の光が彼の薄紅色の髪を透かし、淡い橙に染める。
「ふわぁ……。ごちそうさま。朝一番の『恥じらいと焦燥の味』、最高に美味しかった♡」
ネムは満足そうに喉を鳴らし、わざと乱れた襟元をそのままに、ふにゃりとまた枕に沈んでいくのだった。
騒がしい朝の一幕を終え、ようやく静けさを取り戻した食堂。
エルレアは具材の少ない最低限の朝食を素早く胃へ流し込むと、アストレイン家の紋章が刻まれた豪奢な外套を羽織った。
屋敷の前に用意させた馬車へ乗り込もうとすると、すでに先回りしていたネムが、座席の上で朝日を嫌う夜獣のように、外套へ顔を埋めて丸くなっている。
「ふわぁ……。エルレア、朝からどこに行くのさ。僕はまだ眠いんだけど……」
「あんたは、いつも眠いでしょ、電池。今日はあんたのねぐら……じゃなくて、私がかつて追放された魔塔に殴り込みに行くのよ」
エルレアの翠色の瞳が、刃のように冷たく細められた。
魔法を奪われたあの日。
積み上げてきた研究成果を踏み潰された夜。魔塔から罪人のように泥の街へと追い出された、あの冷えた朝。
あの白亜の塔には、まだ回収しきれていない負債が山ほど残っている。
今回の目的は単純だ。
かつてアストレイン家が研究用として魔塔へ渡した魔道具や貴重な資料を、まとめて取り返しに行くこと。
返すべき物を返してもらう。返せないなら、金に換えてでも回収する。今のエルレアには、それを堂々と要求できるだけの「当主」の権限がある。
「魔塔の連中には、利息まできっちり払ってもらうわ」
元・魔塔の落ちこぼれ。現・アストレイン家当主。エルレアは一歩も引く気のない、誇り高い足取りで馬車へと乗り込んだ。
その先に待つのは、かつて彼女からすべてを奪った傲慢な白亜の塔。
――だが今日、そこへ帰るのは惨めな追放者ではない。膨大な利息を回収しにやって来た、新たなる支配者だ。




