第50話【過去編】奇跡(ギャンブル)に賭けるな、魔力を掴み取れ
数時間後。
一行は目的地である『大鎌の洞窟』の入り口に立っていた。
火をつけた松明を奥へと投げ入れる。
「……空気は大丈夫そうね。有毒ガスの反応もないわ」
空気の循環を確認し、エルレアの先導で不気味にぽっかりと口を開けた闇へと足を踏み入れる。
洞窟特有の、墓底を思わせる冷たい空気が肌をなでた。
手元のランプの灯りは、ほんの数歩先の足元を照らすのがやっとで、心細げに小さく揺れている。
慎重に進むこと、数刻。
道中に現れる低位の魔獣を難なくいなしながら、一行はダンジョンの最奥、突き当たりにまでたどり着いた。
「……何もないな」
ラムダがぽつりと呟く。
ランプの光で周囲の岩壁をくまなく照らしてみても、目当ての『野生の魔石』はおろか、別の隠し通路も見当たらない。ただ、冷たい隙間風がヒューヒューと鳴いているだけだ。
(――隙間風? おかしいわ。ここは行き止まりのはずなのに、どこから――)
ハッとした瞬間、背後を刺すような強烈な悪寒。
エルレアは本能的に、浄化の魔術刻印を施した短剣を構えて振り返った。
ガキィィン!!
暗闇から迫った漆黒の『大鎌』が短剣に弾かれ、火花を散らす。攻撃を防がれた魔物は、再び不気味に闇へと溶けていった。
「……嘘、でしょ!? なんでこんな浅いダンジョンに高位魔物が出るのよ! 死霊なんて聞いてないわ!」
ララが恐怖に歯をガタガタと鳴らしながら悲鳴を上げた。本来ここに出るはずの魔物は、魔素に汚染された残留思念、ただの浮遊霊程度のはずだった。
「ほら見ろ! 銭ゲバ令嬢のデタラメな分析なんか信じるからだ!」
ジョージが顔を真っ赤にして怒りを露わにし、エルレアを睨みつける。
「……ええ、そうね。私の失態よ。――全員、迎撃は中止。全力で撤退するわよ! 短剣を構えて固まって、陣形を崩さずにバック――」
「もうお前なんか信じられるか!!」
完全に恐怖に呑まれたジョージが指示を跳ね除け、ダンジョンの出口へとがむしゃらに走り出した。
「馬鹿! 戻りなさい!」
ジョージの進行方向に、不気味な空間の歪み――魔力の集束が見えた。エルレアは駆け出し、短剣を突き出して再び闇から現れた大鎌を打ち返す。
「大鎌が来る前に魔力の『歪み』が見えるわ! 落ち着いて対処すれば、絶対に全員生きて帰れる――」
「いやあああああ!!」
だが、決壊したパニックは止まらない。ララが半狂乱で剣を振り回した隙を、死霊の大鎌が冷酷に刈り取った。ララを庇ったラムダが血を噴いて倒れ、ララもまたその隣へと叩き伏せられる。
(おかしい。仮にも場数を踏んだCランクの冒険者が、いくら不意を突かれたからって、こんな簡単に精神崩壊を起こすなんて――)
「……全部、全部お前のせいだ! この能無し、人殺しの元令嬢が!」
その時、激しく罵る彼の身体から立ち上るものを、エルレアの瞳が捉えた。
――紫黒の、歪な魔素。
怒り、嫉妬、猜疑。本来なら個々に滲むはずの負の感情が、まるで同じ泥で塗り潰したように均質化している。
(……ジョージだけじゃない。みんな、同じ濁り方をしてる。違う、彼の性格が悪いんじゃない。このエリアの魔素濃度そのものが、誰かに“弄られてる”――!)
肌にまとわりつく紫黒の魔素が、彼らの感情の澱を無理やり増幅させているのだ。
誰かが、“内側から”精神を狂わせている。
「エルレアさん! 危ない!」
ルカが短剣を構えてエルレアの前に飛び出す。しかし、死霊の無慈悲な大鎌の一撃を受け、ルカの身体は木の葉のように吹き飛ばされて岩壁に激しく叩きつけられた。
「ルカ!!」
叫ぶエルレアの目の前で、死霊はなおも、倒れ伏すルカへ向けて大鎌をゆっくりと振り上げる。
……否。
一瞬、凍りついたように、死霊がその動きをピタリと止めた。
まるで、主からの「動くな」という見えざる命令を待つかのように。
「――っ、が、あぁっ!!」
その瞬間、ドクンッ!! と、エルレアの首筋の『刻印』が、肉を引き裂くような激痛を放った。
呼吸が完全に止まる。体内の全細胞が恐怖に縮み上がるような絶対的な神威。エルレアは首の刻印に爪を立て、激しく震える膝を必死に叱咤して耐えた。
(こんな、時に……っ! なんで、あんたが――)
視界が白黒に明滅する。
絶望に染まる洞窟の景色が遠ざかり、エルレアの脳裏に、あの傲慢で、あどけない、狂った神の微笑みが浮かび上がる。
『ねえ、エルレア。ボクを拒むのをやめなよ。そうすれば、すぐにでもその虫ケラたちを消してあげるのに』
「……ふ、ざけない、で……ッ!」
息を詰まらせながらも、エルレアは翠の瞳を獰猛にギラつかせ、脳内のエクスを睨みつけた。
「あんたの施しなんて……利息が高すぎて破産するわ。私の命も、私の未来も、全部私の資産よ……! 他人に切り売りして、たまるか……!!」
極限の絶望の最中で、なおも自分を「計算高く、強欲に」拒絶する女。
金色の瞳が、彼女を見つめていた。その瞳の奥に映るのは、自身の遥か古い記憶――石板に刻まれた『滅びの国の人間たちに、奇跡を強制された瞬間』だった。
かつての傲慢な人間どもは、自分を崇めながらも、その実、奇跡を『強制』し、神を都合の良い道具として汚した。
なのに、この目の前の女は――。
『ねえ、ボクに「助けて」って祈ってよ。そうすれば、ボクの力(奇跡)をあげる』
エクスが甘く、残酷に囁く。しかし、エルレアは血反吐を吐き捨てるように笑い飛ばした。
「……断るわ。奇跡なんて不確定なギャンブルに、私のすべてを賭けられるもんですか! 神に祈る暇があったら――この両手で、魔力を掴み取って絞り出す!!」
――「祈り」の、明確な完全拒絶。
神の奇跡に縋るのではなく、自らの汚れた両手で、血に塗れた「現実」を掴み取ろうとする凄絶な強欲。
その瞬間、エクスの中で、かつて世界を審判した天使としての歴史が、音を立てて完全に崩壊した。
(ああ、やっぱり君は、ボクを道具として汚さない。君のその美しい強欲の手こそが、ボクの新しい神殿だ――)
エクスがエルレアを絶望の底に突き落としたいのは、彼女の破滅を見たいからではない。
全てを失い、絶望の底に落ちてもなお、決して神に縋らず、その冷たい強欲の手で自分の心臓を掴もうとする。
――その最高に美しく不屈な姿が見たい。歪みきった、狂気的な純愛――
「あああああ!!」
エクスを、そして運命を完全に拒絶したエルレアは、懐から魔道具作成用の解剖ナイフを抜き去ると。
――迷うことなく、自らの両手のひらへと深く突き立てた。




