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第45話【過去編】決して目を閉じず、怪物を睨み据えたまま

 


 その背後から、血の汚れひとつない、白く清らかな指先が音もなく伸ばされた。


 そのままエルレアの顎を容赦なく掴み上げ、強制的に後ろを向かせる。


 神々しく、禍々しく、見る者すべてを本能から畏怖させる金色の瞳が、すぐ至近距離にあった。血塗れの天使は、聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべてエルレアを見つめている。


「……エクス、取引をしましょう」


「とりひき?」


 天使は、生まれて初めて耳にする不可解な言語をなぞるように言葉を反芻すると、愛らしく首を傾げた。


「カイルの命を助けて。その代わり、私が相応の代償を払うわ」


 エルレアのその言葉に、床に横たわるカイルの蒼い瞳が大きく見開かれた。


 拒絶するように、残された最後の力を振り絞って、震える手で彼女の手を強く握り返してくる。そんなことをしてはダメだ、と叫ぶように。


「……とりひき……取引……? ……あはは、いいね、それ!」


 エクスは新しい玩具を見つけた子供のように、一切の穢れのない、残酷なまでに美しい笑みを浮かべた。


「もし、ボクが代償として『君の命』を貰うと言ったら、どうするんだい?」


「あら、それはお門違いの悪徳商法よ。私が死んだら、それ以降の支払いは何も発生しないでしょう? 破産した相手から取り立てるほど、あんたも馬鹿じゃないはずよ」


 目の前の怪物カミサマを完全に値踏みするような、エルレアの射抜くような翠色の瞳。それを見つめながら、エクスはついに声を上げて笑った。


 まるで世界を祝福する、美しい福音のように。


「あはは! それもそうだね! 君の言う通りだ、死んじゃったら面白くない! ……じゃあ、その代わりに」


 エクスはゆっくりと、エルレアの唇へ己の顔を近づける。


「……命と同じくらい、君にとって『大事なもの』を貰うよ」


「いいわ。取引成立ね」


 ――瞬間。

 エクスは躊躇なくエルレアの唇を塞いだ。


 それは、優しさなど微塵もない、すべてを吸い尽くすための苛烈な口づけだった。


 それでもエルレアは、その翠色の瞳の奥に冷徹な光を湛えたまま、決して目を閉じず、目の前のバケモノを睨み据え続けた。


 そのままエクスが巨大な翼をかすかに震わせ、足元のカイルに羽先で触れる。

 刹那、カイルの肉体を裂いていた致命傷が、光の粒子と共に跡形もなく消え去った。


「エルレア……っ……!」


 しかし、カイルの全身を侵食する凶悪な魔素の汚染までは消えていない。血を流しすぎた肉体は、指先ひとつ動かすことすら許さなかった。


 カイルは絶望に染まった瞳で、彼女の白い法衣の襟元が、エクスによって音を立てて引き裂かれるのを――見ていることしかできなかった。


 エルレアの細い首筋が、冷たい夜気に晒される。


 エクスはエルレアの唇を離すと、その感触を確かめるように輪郭をなぞり、ゆっくりと剥き出しになった首筋へ唇を這わせた。


 ――瞬間。


「……っ……、ああ……っ、あああああ……ッ!!」


 首筋に、牙のような鋭い熱が突き刺さる。体内に直接、業火を流し込まれたようだった。


 エルレアの全身を内側から焼き尽くし、彼女の魂の根幹である「魔力根」を根こそぎ強奪していく、狂気的な激痛が襲う。


 熱が、奥へ奥へと侵蝕し、引き抜かれていく感覚。魔力が、まるで根ごと引き剥がされるように、遠くなっていく。


 肉体が限界を迎え、脳のシャッターが下がり始める。


 エルレアは薄れゆく視界の端で、カイルの傷が塞がっていること……取引の履行を確かに確認すると、そのまま深い闇の底へと意識を失った。




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