第44話【過去編】天使の福音、悪魔の災厄、飢えた獣の咆哮
月の、ひどく綺麗な夜だった。
深夜の当直を担当していたエルレアは、交代の時間になり、資料を小脇に抱えてエクスの特例隔離室へと向かっていた。
――ジャラ、と重い鎖を引きずるような音が遠くで響いた。
おかしい。雨など降っていないはずなのに、べちゃり、べちゃりと、不快な水音が廊下の先から聞こえてくる。
(......何?)
エルレアは不審に思い、不吉な胸騒ぎを覚えながらも、その鉄の扉の取っ手に手をかけた。
カチャリ、と無機質な音が静寂に落ちる。
――軋む扉を開けた瞬間。世界は、圧倒的な「赤」に包まれていた。
鼻腔を破壊するほどの強烈な鉄錆の臭い。甘く、濃く、ねっとりと喉の奥に張り付く、鉄と腐敗の混じった匂い。その地獄のような部屋の中央に、ただ「それ」がいた。
天使の福音のように。悪魔の災厄のように。あるいは、飢えた獣が命を謳歌して咆哮するように。
「やぁ」
暗闇の中で、らんらんと輝く金色の瞳がエルレアを確実に捕らえた。
「……ああ。やっと、来てくれたんだね。待ちくたびれたよ」
白く無機質だったはずの実験室は、壁から天井に至るまで鮮烈な返り血で彩られていた。
床に転がる、かつて「ヒト」だった肉塊。
なぜか恍惚とした幸福そうな表情のまま、虚ろな瞳で天井を仰いでいる。
どす黒く染まった白衣の群れは、まるで揃いの赤いドレスを纏っているかのようだった。
彼らが最期に縋るように伸ばした手の先。そこに、凍りつくほど美しい、血塗れの天使――エクスが佇んでいた。
「エク、ス……?」
絞り出した声はひどく掠れ、震えていた。
生物としての本能が全力で警鐘を鳴らす。無意識に、後ろへ一歩足が下がった。
その拍子に、踵にコツンと何かが当たる。
濡れた床に視線を落としたエルレアは、息を呑んだ。
その拍子に、踵にコツンと何かが当たる。濡れた床に視線を落とすと、そこには赤く汚れた、小さな青い花の髪飾りが落ちていた。
そこに落ちていたのは、赤く汚れた、小さな花の髪飾り。
『私、その生活指導なら毎日受けたーい!』
この間までカイルのことで楽しそうに笑っていた、恋バナ好きな同僚。
――彼女のお気に入りの髪飾りはどんな色だったか。
キィィィン、と激しい耳鳴りが頭を突き抜ける。
怒涛のような怒りが、悲しみが、絶望的な恐怖が、そして猛烈な憎悪が、一瞬にして頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
エルレアは、自身の全身の血液が、音を立てて凍りついていくのを冷徹に感じていた。
「……エル、レア……逃げ、ろ……」
聞き馴染みのある掠れた声に、エルレアはハッと顔を上げた。
いつも整えられていた亜麻色の髪はべっとりと赤く染まり、シワ一つなかった白い法衣は破れ、無惨に汚れている。床の血が、亜麻色の髪の先端を赤く滲ませていた。
「……っ、カイル……ッ!!」
瞬間、エルレアの思考は吹き飛んでいた。
弾かれたように床を蹴る。全身の全魔力を無理やり体内に巡らせ、肉体を限界まで強制強化した。
カイルの身体を抱き込み、死に物狂いでエクスから距離を取る。
理論を無視しためちゃくちゃな身体強化の反動で、自身の手足の筋肉がピキピキと悲鳴を上げていた。だが、そんな痛みはどうでもいい。
(間に合え、間に合え、間に合え……!)
心臓が破裂しそうなほど焦る気持ちとは裏腹に、彼女の頭脳は研ぎ澄まされ、カイルを生かすための繊細な治癒術式を超高速で組み立てていた。
しかし、エルレアは医療魔導士ではない。彼女の治癒魔法の腕は、せいぜい初級神官レベル。
腕に仕込んだ魔力強化バングルを限界を超えてフル起動させても、カイルの命の器から溢れ出る赤を止めるには、あまりにも絶望的な状況だった。
(傷だけじゃない。エクスが放つ高密度魔素の汚染がひどすぎる……!)
額にじわりと冷や汗を滲ませながら、エルレアは視界が白むほどの集中力で治癒の光を注ぎ込む。
けれど、彼女の必死の抵抗を嘲笑うように、カイルの呼吸は早く、浅くなっていく。
床の赤が、エルレアの膝に触れる。冷たい。冷えてきた血は、水よりもずっと重く、粘りついた。
「……助けてあげようか?」
その時、頭上から神託のように、どこまでも涼やかで優しい声がかけられた。
エクスがその大きな天使の翼を優雅に一振りさせると、ふわりと清浄な風が孕み、エルレアの頬を撫でた。
その風は奇妙なほど清潔で、室内に満ちた血の匂いと全く混じり合わない。
白き獣は、金縛りにあったように恐怖で動けないエルレアへと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
――シャラリ。金属ではない。それは「拘束された空間」が引きずられる音だった。
――ピチャリ。水ではない。それは「生命が床に接触した記録」だった。
「……逃げ、て、早く……。僕は、もう、いいから……っ」
カイルの長い血濡れのまつ毛が微かに震え、その深い蒼い瞳が、必死にエルレアの姿を映し出した。
まるで自分の最期に、その最愛の光を焼き付けるかのように、瞳の中の光彩が儚く揺れる。
エルレアは、自分の指先が震えているのを自覚しながらも、カイルの冷えゆく手をぎゅっと、壊れるほどの力で強く握りしめた。
「……いい、カイル? 絶望なんて、タダでも要らないわ。……生き残りなさい。生き残って、この屈辱に利息をたっぷり付けて、あいつらに残らず返してやるのよ」
エルレアは震える唇を叱咤するように強引に口角を上げ、最悪の血の海の中で、不敵な笑みを浮かべてみせた。
その笑みの下で、彼女の目が微かに充血していたことを、カイルは最後まで気づかなかった。




