第43話 【過去編】神への祈りを拒絶する両手
エクスの放つ神聖な魔力は、あまりにも穢れがなく、あまりにも美しすぎる光だった。
だからこそ、人間には耐えられない。――まるで、近づく者の精神を、内側から狂わせるために誂えられたかのように。
覚醒からしばらくすると、プロジェクトに関わる研究者たちの様子が、目に見えておかしくなっていった。
ある者は、隔離室の前を通った研究員が、突然立ち止まり、何もない壁へ祈るように額を押し当てていた。
また、ある者は恍惚の表情で虚空を見つめたり、ひどく怯えたように何かをブツブツと呟いている。
エルレアは周囲の変調を不審に思いながらも、日課である定時観測のためにエクスの隔離室へと向かった。
隔離室の前は、ひどく冷えていた。廊下に並ぶ魔導灯だけが、青白く沈んだ光を落としている。その光の中から、ちょうど入れ違いに出てきた主任研究者、セラフィーヌがふらりと現れた。
「セラフィーヌ主任! お疲れ様です」
声をかけたが、憧れの先輩の姿は悲惨なものだった。髪は乱れ、白衣はあちこちが小さく破れている。
彼女はエルレアの声に反応する風でもなく、幽霊のような虚ろな薄笑いを浮かべたまま、ふらふらと去っていった。
すれ違いざま、その乱れた襟元から覗く肌に、うっすらと赤い充血斑が浮かんでいるのが見える。
エルレアはそれを一瞥すると、「高密度魔素接触による急性拒絶反応」と脳内で即座に分類し、迷わず部屋に足を踏み入れた。
「やあ、……来たんだね。待ちくたびれたよ」
逆光の中に座るその姿は、人というより、祭壇に飾られた偶像に近かった。白い翼だけが、朝の光を受けて異様に眩しく浮かび上がっている。
ぶち、ぶち、と湿った音を立てながら、白い羽根が無造作に引き抜かれていく。
エクスは逆光が差し込む窓辺に座り、自身の白い翼の羽毛を、退屈しのぎのように無造作に毟り取っていた。
床に散らばる大量の純白の羽が、彼が先ほどまで行っていた「残虐な儀式」の残滓を物語っている。
白い羽根が一枚、エルレアの足元まで風に運ばれて静かに落ちた。
「悪いわね。これ、今日の正午の観測データよ。アンタ、また午前中に勝手に魔素の波形を弄ったでしょ。数式の整合性が取れなくなるから余計なことはしないで」
エルレアは部屋に入るなり、不備のある書類の束を突きつけた。
セラフィーヌが先ほどまでこの部屋に捧げていたであろう、湿り気を帯びた情愛や憐憫、狂信の空気には一瞥もくれない。
エクスは退屈そうに、自身の法衣の肩に落ちていた「金の髪の毛」を、ゴミでも払うように指先で窓の外へ捨てた。
そして、自分を前にして心拍数すら変えず、単なる「現象」としてしか見ないエルレアを、射抜くような瞳で見つめる。
(……ああ。やっぱり、これだ)
エクスは確信したように笑みを深めた。
(彼女たちは皆、同じ目をする。祈るように。縋るように。壊れていく。……だが、この女は違う)
「ねえ。……ボクのこと、怖くないの? さっきの彼女は、ボクの翼に触れるだけで指先をガタガタ震わせて、泣きながらボクに縋りついてきたのに」
「何の話よ。あんたみたいな超高密度の魔力体に直接触れるんだから、魔導士なら誰だって神経がすり減って指先くらい震えるわよ。……それより、第四小節の魔力収束率が――」
「ふふ、……はははっ!」
エクスは突然、喉を鳴らして可笑しそうに笑い出した。その笑い声は、陽光を拒む隔離室の冷えた空気の中で、奇妙なほど清澄に響いた。
窓辺から音もなく飛び降り、エルレアの眼前に一瞬で着地する。
(セラフィーヌは、ボクの「外側」を神聖視して、跪いた。でも君は、ボクの「内側」を暴き立てるために、解剖ナイフを持って踏み込んでくる)
エクスは遮る間もなくエルレアの頬を両手で挟み込み、その網膜の奥に映る自分を確認した。
そこにあるのは、恋慕でも、畏怖でもない。
「この美しく不条理な謎を、骨の髄まで解き明かしたい」という、純粋で、暴力的なまでの知的好奇心への欲求だけだ。
「……君は、ボクを神様だとも、怪物だとも思っていないんだね。ただの、まだ誰も見つけていない『未知の資源』だと思ってる」
エクスの指先が、熱を持ったようにエルレアの頬へ食い込む。
「……当たり前でしょ。アンタのその複雑怪奇な魔力構造を完全に解明できれば、世界の魔導史がひっくり返るのよ。アンタの感情は、観測対象外よ」
頬を掴まれたままでも、エルレアの翠の瞳は一切怯まない。
エクスは、それが楽しくて仕方ないというように、子供のように無邪気で、残酷な笑みを浮かべた。
「ねぇねぇ、エルレア。もしも君の願いを、万能の神様がなんでも一つ叶えてくれるとしたら、君はどうする?」
エクスが金色の瞳を細めた瞬間、隔離室の空気がわずかに「鳴った」。きぃん、と。耳鳴りに似た高音が、空気そのものに走る。
エルレアは手元の書類から視線すら上げず、鼻で笑った。
「馬鹿言わないで。神様に祈るために両手を合わせるくらいなら、その手で直接掴み取ってむしり取るわ。願いを他人に外注するほど、私はお人好しじゃないの」
その言葉を聞いた瞬間、エクスの全身を、恍惚に似た歓喜の震えが駆け抜けた。
鼓動が一拍、狂う。室内の魔力濃度がわずかに跳ねた。甘い熱。セラフィーヌが与えたものとは違う種類の熱だった。崇拝でも依存でもない。
聖女たちが、涙を流しながら捧げた自己犠牲の祈り。セラフィーヌの、理性を削ってまで差し出した献身。それらすべての甘美な狂信が、今の一言の前では価値を失っていた。
「……最高だよ、エルレア」
エクスは息を吐くように笑った。笑いなのに、どこか湿っている。
「君の、その底の抜けた強欲が欲しくてたまらない」
次の瞬間、彼はエルレアの手首を掴み、自分の胸へと導いた。
触れた指先に、熱が刺さる。
――ドクン。
それは音ではなく圧力だった。心臓の拍動がそのまま魔力の波となって皮膚を叩く。空気が揺れるたび、白い羽がわずかに震えた。
「ここを、解析してよ」
声は距離を失っていた。耳元で囁かれているのに、どこか遠くから響く。
「君がボクを完全に『理解した』と確信した、その瞬間に――ボクは君の理解ごと壊してあげる」
肌の内側にまで染み込むような狂気と殺意が、彼の体温からエルレアの掌へと流れ込んでくる。
それでもエルレアは、眉ひとつ動かさなかった。
「……早くその手を離しなさい。鼓動が速すぎて、魔素の脈動が狂うわ。ノイズを入れないで」
一拍の躊躇もなく、エルレアはその手を振り払う。
床へと転がりながら、エクスは顔を覆ってくつくつと低く喉を鳴らした。
法衣の隙間から覗くその表情には、狂わせたセラフィーヌにも、他の研究者にも、一度も見せたことのない――本物の、狂おしいほどの愉悦が浮かんでいた。




