第41話【過去編】焦げた砂糖の香りと、見えない「赤ペン先生」
そんなある日、大陸の果ての廃神殿から、正体不明の魔石が運び込まれた。聖・魔・獣の三属性を同時に宿す、前例のない代物だという。
深夜だというのに魔導ランプの青白い灯りが消えることはなく、普段は静かな研究棟にまで、興奮と緊張の熱が滲んでいる。
「なんだか上層部が慌ただしいわね。廊下を走る研究員たちの足音がうるさくて集中できないわ」
「なんでも、廃神殿からとんでもなく希少な魔石が発見されたらしいんだ。聖・魔・獣の三属性を併せ持つ、前代未聞の代物だそうだ」
お茶を淹れ直しながらグレイがもたらした情報に、エルレアはふんと鼻を鳴らした。
「獣属性? 動物の形でもしているの?」
「いや、光に透かした瞬間だけ、結晶の奥に"白い翼を持つ人影"が浮かぶらしい。まるで、内側に誰か閉じ込められているみたいに」
「ふーん……。眉唾ものね。どうせ新種のエネルギー鉱石を神格化したいだけでしょ」
しかし、上層部の目論見に反してその魔石と石版の研究は難航を極め、やがてエルレアたちの「第八研究室」にも、石版の解析作業の一部が回されてきた。
エルレアの頭脳は数式の計算には天才的だったが、どうにも古い死語の解読といった分野は苦手だった。
「……は再び……へと還り、……まで……に就けり。……もう、さっぱり分からないわ!」
魔塔の片隅にある空き倉庫へ石版の断片を運び込み、一人で徹夜の解読を進めていたエルレアは、ついに頭を抱えて机に突っ伏した。
石造りの空き倉庫は夜になると底冷えが酷く、インク瓶に触れた指先がじんと冷える。魔導ランプの熱すら、広い倉庫の冷気に食われていた。
外では風が強くなっていて、天窓の向こうで雪が横に流れているのが見える。深夜の静寂。疲労で意識が朦朧とする。
――その時だった。
エルレアの鼻腔を、微かに焦げた砂糖のような、しかしどこか甘い未知の魔力の香りがくすぐった。
「っ……!?」
ハッと顔を上げると、ゆらり、と机の上の書類に陽炎のような赤い光が滲んだ。
魔導ランプとは違う、もっと粘つくような、血を溶かしたような赤。空気が微かに熱を帯び、紙の端が焦げるような匂いが立ちのぼる。
カリ、カリ、と。見えない筆先が紙をなぞる音だけが、静まり返った倉庫に響く。
驚くエルレアの目の前で、石版の「虫食い部分」の写しの上に、まるで添削でもするかのように美しい赤文字がサラサラと書き足されていく。
数百人の研究者が解読できなかった虫食い部分。まるで欠落していたはずの空白が、最初から存在していなかったかのように埋まっていく。恐ろしいほど自然に文脈へ溶け込んでいた。
『御使いは再び原初の魔石へと還り、再誕の刻まで永き眠りに就けり』
エルレアは息を呑んだ。背筋が粟立つ。恐怖ではない。理解の一歩手前に触れたときだけ生まれる、あの歓喜だった。
書き足された古の言葉。それが意味するのは――あの魔石はただの鉱物ではなく、かつて意思を持ち、天使の姿をして動き、人々に崇められていた「生物」そのものだという、衝撃の真実だった。
「……いるのね。そこに!」
いつも自分の計算ミスや論文の穴を、気まぐれに赤文字で修正していく正体不明の存在――通称「赤ペン先生」。
赤文字はいつだって、「あと一歩で届く」場所にだけ現れる。まるで誰かが、エルレアの思考を楽しむように。そしていつも、最後に書かれるのだ。「論理の飛躍、および前提条件の確認不足」、と。
今日こそはその正体を確かめてやる。エルレアは勢いよく立ち上がると、まだ空気に残る微かな赤い魔力の残滓を貪欲に辿り、倉庫の隣にある資料室へと駆け込んだ。
バァン! と激しく扉を開け放つ。
しかし、そこには誰もいなかった。冷たい夜気がカーテンを揺らしているだけだ。
「……また逃げられた?」
諦めきれず廊下へ出ると、夜間用の魔導ランプが等間隔に青白い輪を床へ落とすその石床の先――その灯りと灯りの狭間を縫うように、長身の男性の人影が、静かに歩いていた。
「あの……! 待って、ください!」
エルレアの声が、深夜の回廊に響く。
「私、いつも貴方に……お礼が言いたくて……!」
その言葉に、影がぴたりと足を止めた。
男性はわずかにこちらへ振り向いた。だが、それだけだった。
背後の魔導ランプが逆光となり、深く被った法衣のフードの奥だけは不自然なくらい闇に沈んでいて、その素顔を窺い知ることはできない。廊下の端まで続く石壁が、青白い光の連鎖の中で遠ざかっていく。
ただ、僅かに見えたその横顔は、大理石の彫刻のように冷徹で、この世のものとは思えないほど整っていた。
彼は言葉を発する代わりに、その形の良い薄い唇を、蠱惑的に歪めて微笑んだ。
それは親愛の笑みなどではない。人間が蟻の巣を覗き込んで面白がっているかのような、まるでこの白亜の塔そのものを所有している者のような、絶対的な強者の気まぐれな笑みだ。
「あ――」
エルレアがその美しさに気圧された次の瞬間――そこに最初から何もいなかったかのように、男の影は消えていた。
正気に戻ったエルレアが慌てて角を曲がって追いかけた先には、ただ冷えた石床と、遠くで揺れる魔導ランプの微かな駆動音。
そして、微かに甘く焦げた魔力の残り香だけだった。




